
❖ 見る
日曜礼拝・英語通訳付
❖ 聞く (メッセージ)
❖ 読む
イエス様を信じる意味とその実り
(ヨハネによる福音書14:8-14)
吉野真理
今日はヨハネによる福音書の続きで、14:8-14を読んでいきます。この箇所は、なかなかイエス様のことを理解できない弟子の一人がイエス様に質問するところから始まります。イエス様の返答は、イエス様を知って神様を知るとはどういうことなのか、信仰とはどういうものなのかを私たちにも教えてくれています。そして、さらにイエス様は信仰を持つことによって私たちが得るものが何かも教えています。いつものように少しずつ読んでいきます。まず8-9節です。
A. イエス様を通して神様を知る
1. 神様の姿を直接見たいと願う私たち (8-9)
8 フィリポが、「主よ、私たちに御父をお示しください。そうすれば満足します」と言うと、9 イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、私が分かっていないのか。私を見た者は、父を見たのだ。なぜ、『私たちに御父をお示しください』と言うのか。
神様という存在について、現代の多くの人は、その姿を見たことがないから信じられないと考えるのかもしれません。または、そういう存在はいるとしても、直接関わりを感じないので、特に関心を持たないのかもしれません。イエス様の弟子の一人だったフィリポがイエス様に質問したのは、そういう現代人の感覚にも通じるところがあります。旧約聖書には、神様が光や炎という形で人々の前に直接現れて話しかけたという記述があります。イエス様がそれと同じような形で神様の姿を見せてくだされば、イエス様が神様の子であるということも信じられるとフィリポは言いたかったのでしょう。
でも、イエス様の返答は意外なものでした。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、まだ私が分からないのか」と、少しがっかりしている様子です。そして、こう続けています。「私を見た者は父を見たのだ。」イエス様が言いたかったのは、神様の姿を見る方法はただ一つ、イエス様のことを見ることだということです。イエス様を見れば、神様のことは分かるという意味です。
これは、現代に生きる私たちにも向けられた言葉です。神様の姿を直接見られればその存在を信じてもいいのにと思うとしたら、神様からの返答はこうです。「私はもうイエスというひとりの人として姿を示したじゃないか。イエスをよく見なさい。」では、2千年前にいた人物のことを私たちはどうやって見ることができるのでしょうか?それは続くイエス様の言葉にヒントがあります。10-11節に進みましょう。
2. イエス様の言葉と「わざ」を通して神様を知る (10-11)
10 私が父の内におり、父が私の内におられることを、信じないのか。私があなたがたに言う言葉は、勝手に話しているのではない。父が私の内におり、その業を行っておられるのである。11 私が父の内におり、父が私の内におられると、私が言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。
哲学的で少し難しいですが、イエス様が言いたいことは、イエス様と神様は一体であり、そのことをイエス様の言葉と行いを見ることによって信じなさい、ということです。つまり、イエス様の言葉と行いには、神様がどういう方かが示されているという意味です。また、さらに、この言葉はイエス様と旅を共にしてきた弟子たちに向けられていることを考えると、これは単にイエス様の公の教えや奇跡のわざを見るという意味だけではなく、イエス様の人柄やイエス様との個人的なやりとりを通しても神様を知りなさいという意味を持つと思います。
私たちはもう目に見える形でイエス様を見ることはできません。だから、私たちがイエス様の言葉と行いを知る方法は、聖書を読むことです。具体的に言えば、聖書を一人で読むこと、日曜日の礼拝のメッセージを聞くこと、家族や友人と聖書や礼拝メッセージの内容について話し合うことなどです。
それから、イエス様の人柄やイエス様との個人的なやりとりを持つ方法は、教会という共同体の中で得られます。イエス様を信じて生きている人たちの群れの中では、イエス様の十字架の愛と赦し、癒しが、互いの関係の中にも実現されます。(そうでなければ教会は教会ではなくなってしまいます。)私たちは、他の人から愛され、許される経験を通して、それが単にその人個人が与えてくれたものではなく、その背後におられる方の存在(その土台になっている力)を身近に感じることができるものだと思います。また、誰かのことを、神様がその人のことを愛してくださっているように、自分も愛そうと努め、それがその人に確かに届いてその人が変えられていくのを目撃する喜びもあります。それらの経験は、目に見えないイエス様が確かに生きておられることを感じ、見たこともない神様の力が確かに働いていることを感じる経験です。
イエス様を知り、神様は愛の方であると信じることは、私たちの生きる希望になり、私たちを導く力になります。それをまだ体験していない方、忘れてしまった方は、聖書と教会を通して、ぜひイエス様をご自分で体験してください。
それでは後半を読んでいきましょう。後半は、イエス様を信じることによって私たちが何を得るのかがさらに語られています。まず12節だけ読みましょう。
B. イエス様を信じることによって私たちが得るもの
1. 神様の偉大な働きに関わること (12)
12 よくよく言っておく。私を信じる者は、私が行う業を行うだろう。そればかりか、もっと大きなことを行うであろう。私が父のもとへ行くからである。
ここでイエス様が言われている通り、イエス様を信じて生きるなら、私たちは自分が期待している以上の素晴らしいことに関わることになります。それは、イエス様がなさったことであり、またそれ以上の大きなことだと言われています。なぜなら、「私が父のもとへ行くから」だと言われています。これは、イエス様が死から復活され、天に昇られた後、弟子たちには聖霊が降ったことを指していると思います。そして、それによって、彼らはイエス様の宣教のわざを引き継いで、イエス様が行けなかった遠くの地域にまで宣教の働きを担うようになりました。
私たちにも、同じことが約束されています。私たちは、聖霊様の力によるならば、イエス様が愛しているように人を愛し、この世界に神様は良い方であるということを伝えていく働きを担うことができます。それは私たちの力ではなく、神様の愛が私たちを作り変え、私たちを進むべき方向に導いてくださるからできることです。だから、イエス様を信頼して歩むことは、生きて働く神様の愛を体験していく特権を得ることと言えます。
でも、神様の愛の働きは、今ある生活を全て捨てて地球の裏側の地域に宣教に行くことや、紛争地域の平和のために働きに行くことだけではありません。そういう使命を与えられる人もいますが、多くの場合は、日常生活の中で、身近な人たちの間で、目撃することを許されているものです。悲しみの中でも希望を失わない人の心に。苦しんでいた人に笑顔が戻る時に。傷つけあっていた人たちが互いに許し合う時に。誰かが悲しむときに一緒に悲しみ、誰かの喜びを自分の喜びのように喜ぶ人たちの間に。それらは確かに私たちのうちにおられるイエス様の働きであり、イエス様がなさったこと以上の大きなことです。
このことについて、さらに大切なことが、今日最後の2節で言われています。13-14節を読みましょう。
2. 祈りの力を体験すること (13-14)
13 私の名によって願うことを何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。14 私の名によって願うことは何事でも、私がかなえてあげよう。」
「私の名によって願うことは、何でも叶えてあげよう」とイエス様は言われています。イエス様がこう言われているので、教会では祈る際に「イエス様のお名前によって祈ります」という言葉を使います。でも、このフレーズは定型文として使えばいいというものではもちろんありません。「イエス様のお名前によって祈る」とはどういう意味だと皆さんはお考えでしょうか?それは、「イエス様の名前にふさわしい祈り」を指していると思います。祈りがイエス様の名前にふさわしいかどうかは、祈りの言葉が整っているとか立派とかとは全く関係なく、私たちの態度の問題です。「イエス様を誰よりも何よりもたたえて、この祈りを捧げます」という態度です。
ですから、私たちはイエス様に何を願ってもいいのですが、自分の願いよりも神様の意志が実現することが結局自分にとっても良いのだと信頼することを忘れてはいけません。私たちにとっての最善を知っているのは神様です。時に、とても良いこととは思えない苦しみや、明らかに間違っていることが私たちの身に起こることもあります。だから、私たちはそこから救い出してくださいと祈っていいですし、願わずにはいられません。それでも、神様の思いと私たちの思いは異なり、私たちに見えていないことも神様には見えています。そして、どんなことでも必ず良い計画のために用いられます。何よりも、イエス様ご自身がここで、「私の名によって願うことは何でも叶えてあげよう」と言われています。神様が最善と思うことを最善のタイミングで実現され、神様は必ず私たちの祈りに応えてくださることを教えてくださいます。
イエス様を信頼して生きることは、このように、祈りの力を体験する特権を得ることとも言えます。祈りの力というと祈りの熱心さのように誤解しがちですが、それよりも、願いを神様に委ねていく力と言った方がいいと思います。自分の思い通りにならなくても、神様は必ず良い方向に導いてくださると信頼していく力です。それによって神様が見せてくださる思いがけない展開を楽しみにできることは、本当に素晴らしいことではないでしょうか。そして、一緒に神様の応えを待つ教会の家族がいることは、他にはない励ましです。私たちは、互いのために祈り合い、その中で神様は良い方であるということを一緒に確認して、共に神様をたたえます。それが神様が私たちに与えてくださった道であり、希望と喜びの尽きない道です。
(祈り)主イエス様、あなたがこの世界に来られ、私たちにどのように生きるべきかを示してくださったことをありがとうございます。あなたが命を捧げられたことによって、私たちがありのままであなたをたたえて生きることができるようにしてくださいました。先が見えない時、悲しみが襲う時、どうかあなたを信頼できますように。そのために助け合える友をそばに置いてください。また、私たちそれぞれが、それぞれの家族や友人にとって、そのような存在となれるように用いてください。この教会の人々を用いてください。主イエス様、あなたを信頼して、あなたに感謝して、あなたのお名前によって祈ります。アーメン。
要約
多くの人は、神様の姿を見たことがないから信じられないと思うかもしれません。でも、聖書に記録されているイエス様の言葉と行いには、神様の真実が表されています。また、イエス様を信じる者たちの共同体である教会の働きには、神様の愛と癒しの力が現れています。そのことを自分で確かめて信じる人には、神様の偉大な働きをイエス様から引き継いでいく力が与えられます。そして、イエス様をたたえて生きる人には、神様が祈りに応えてくださる経験が与えられます。
話し合いのために
1. イエス様がなさった以上の偉大なことを私たちが行うとは?
2. 「私の名によって願うことなら何でも叶えてあげよう」とは?
子どもたち(保護者)のために
「私の名によって願うことなら何でも叶えてあげよう」というイエス様の言葉について、一緒に考えてみてください。私たちは「イエス様のお名前によって」と祈りますが、この言葉を定型文として使えば良いという意味ではもちろんありません。「イエス様の名前によって」とは、「イエス様を誰よりも何よりもたたえます」という告白です。私たちはイエス様に何を願ってもいいのですが、自分の願いよりもイエス様の望みが叶うことが結局自分にとっても一番良いのだと信頼する姿勢が、私たちの祈りには不可欠です。でも、その姿勢があれば、私たちは本当にイエス様が祈りに応えてくださる経験をすることができます。