
❖ 見る
日曜礼拝・英語通訳付
❖ 聞く (メッセージ)
❖ 読む
イエス様がくださる平和
(ヨハネによる福音書14:25-31)
吉野真理
今日はヨハネによる福音書の続きで、14:25-31を読んでいきます。この箇所は、13章から始まったイエス様から弟子たちへの教えをまとめているような箇所です。中でも印象的で有名なのは、27節の「私は、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える」というイエス様の言葉だと思います。
平和と聞くと、私たちがふつう考えるのは「戦争がない状態」です。でも、イエス様がくださる平和とは、単に「戦争がない状態」ではありません。たとえ戦争の中にあっても、どんな苦しみの中にあっても、消えない希望と心の平安、それがイエス様が私たちにくださる平和です。それは、私たちが自分の力で作り出すものではなく、聖霊様の助けが不可欠で、イエス様の愛の上にしか成り立たないものです。
今、自分の心の中の希望が消えて、穏やかでなんかいられない気持ちだとしたら、それはただあなたが人間である証拠です。信仰があってもなくても、私たちが人間である以上、私たちはさまざまな状況によって動揺し、絶望もします。神様はそんな私たちを責めることはありません。ただ、私たちがイエス様の十字架を思い出して、聖霊様の助けを求めるなら、必ず神様は助けてくださり、大きく揺れ動く私たちの心の中に確かな希望と安心を与えてくださいます。
それでは読んでいきましょう。まず25-26節です。
A. イエス様がくださる平和
1. 聖霊様が教えてくださること (25-26)
25 私は、あなたがたの元にいる間、これらのことを話した。26 しかし、弁護者、すなわち、父が私の名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる。
前回読んだ箇所でも、イエス様は聖霊様のことにふれていました。弟子たちがイエス様の言動の全てを理解できるようになるには聖霊様の助けが不可欠だからです。弟子たちはイエス様との別れが近いと感じて動揺していたので、イエス様は彼らに「今は分からなくていい、聖霊が必ず分かるようにしてくださる」と語りかけ、彼らを励ましました。
私たちにも聖霊様が必要です。聖霊様は私たちに、イエス様について、神様について、神様の愛について、神様の意志について、すべてのことを教えてくださいます。イエス様が十字架で死なれたのは神様が私たちを愛しておられるからで、神様は私たちが互いに愛し合うことを望んでおられると教えてくださるのは聖霊様です。
ですから、私たちが神様の愛を疑ったり信じられなかったりするとき、私たちのするべきことはただ聖霊様に助けを求めることです。イエス様、神様に、「いるならこたえてください」と呼びかけるのでもいいです。私たちは、自分の力で必死でもがいていると、助けを求めることを忘れていることがあります。助けを求めていいと思える相手がいない時もあるかもしれません。でも、イエス様は必ず私たちに聖霊様を送って助けてくださいます。
ただ、私たちが聖霊様の助けを求めるのと同時に、イエス様の十字架という事実に戻ってくることも重要です。続きの27-28節を読んでいきましょう。
2. 神様に愛され、神様を愛して生きること (27-28)
27 私は、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える。私はこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。28 『私は去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。私を愛しているなら、私が父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父は私よりも偉大な方だからである。
イエス様が「私は戻ってくる」と言われたのは、十字架の死から復活されることを指しているのか、世界の終わりの日に戻って来られる再臨のことを指しているのか、はっきりしません。両方の意味を持っているのかもしれません。いずれにせよ、イエス様が「父のもとに行く」というのは、死から復活された後で天に昇られる時のことを指していると思います。
ですから、ここでイエス様が言われているのは、「たとえ私がいなくなっても、私があなたがたに与える平和は決してなくならない」ということです。
注目すべきなのは、その平和をイエス様は「私の平和」と言われているところです。イエス様の平和とはなんでしょうか?それは、イエス様と神様の信頼関係と言っていいと思います。イエス様は常に神様の意志に従い、イエス様と神様は一体でした。それは人であり神であるイエス様だから保つことのできた関係ではあるのですが、私たちがイエス様を信頼するなら同じような関係を神様と保つことができます。それは、「神様は常に私と共にあり、私は神様の意志を行うことを何よりも喜びます」と言える態度です。
イエス様は、「私はこれを、世が与えるように与えるのではない」と言われました。世が与える平和というのは、最初にお話しした通り、いわゆる戦争がない状態を指していると思います。または社会が秩序立っていて混乱がない状態とか、平穏無事な毎日とか、とにかく「悪いことがない状態」を指します。でも、イエス様がくださる平和というのは、神様の愛に基づいており、周囲の状況に左右されません。社会が混乱していても、心が動揺していても、消えることのないものです。
イエス様はそんな強固な平和をどのように私たちに与えてくださったのでしょうか?その答えこそが、その平和が強固である理由です。もう申し上げましたが、イエス様のくださる平和は、神様の愛に基づいているからです。それも、イエス様の十字架の死という揺るがない根拠によって証明された神様の愛です。イエス様の十字架は、神様は私たちを愛しておられ、私たちの弱さと罪を赦しておられ、私たちが互いに愛し合って生きることを望まれているということを私たちに証明してくれました。
ですから、イエス様が私たちに与えてくださった平和とは、私たちが神様に愛されていることを確信し、神様を愛して生きることを何よりの喜びとできることです。それは周囲の状況がどうであれ、心の状態がどうであれ、イエス様の十字架という事実に戻ってくれば、そして聖霊様の助けを求めれば、必ず私たちに与えられる平和です。この平和は、根拠なく「きっと大丈夫」と思い込もうとするのとは違います。状況が良くなる兆しが見えなかったとしても、十字架で示された神様の愛という根拠に基づいて、聖霊様の助けによって、「神様は必ず良い方に導いてくださる」と信頼することです。だから私たちは、イエス様を信頼して生きるなら、どんな状況においても希望と平安を取り戻すことができます。
それでは今日最後の部分を読んでいきたいと思います。29-31節です。
B. 「世の支配者」との対決 (29-31)
29 事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。30 もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼は私をどうすることもできない。31 私は、父がお命じになったとおりに行う。私が父を愛していることを世が知るためである。立て。さあ、ここから出かけよう。」
イエス様はこの時すでにご自分が逮捕され殺されることになっていると知っていて、逮捕のきっかけはユダの裏切りによるとも知っていました。でも、ここではそのことを「世の支配者が来る」という言い方をされています。「世の支配者」とはサタン(悪魔)のことを指しています。悪魔は神様に敵対する存在で、聖書の中では「この世の支配者」という呼び方をされます。
先週のメッセージで、私たちは神様に仕えるか悪魔に仕えるかどちらか一つしか選べないという話を聞きました。多くの人は自分は神様にも悪魔にも仕えるつもりはなく、自分で自分の道を歩いていけば良いと考えます。でも実際は、自覚的に神様を信頼して生きる道を選ばない限り、私たちは無自覚に悪魔に仕えています。これは私たち人間が全員持っている罪の傾向によるもので、神様を信じると一度決めても、この傾向は一生続きます。私たちは神様が喜ぶことよりも、自分に都合の良いことを選びます。互いに愛し合うよりも奪い合うことの方が簡単です。そういう私たちの傾向を悪魔を喜びます。私たちが繰り返し自分で神様を信頼する道を歩もうとしなければ、私たちは自動的に気付かないうちに悪魔の支配下に置かれ、悪魔の手先になっていることがあるのです。
話は戻りますが、イエス様の逮捕と処刑も、悪魔が人間の罪と弱さを利用して引き起こしたものです。悪魔はユダの心に入り込み、イエス様に対する彼の失望に働きかけて、イエス様を裏切る考えを抱かせました。また、悪魔はユダヤ人指導者たちのイエス様に対する嫉妬と憎しみを利用しました。群衆たちがイエス様を「十字架につけろ」と叫んだのも、一人の人の命に対する無関心という残酷さを、悪魔が利用したからとも言えます。
悪魔は私たち人間の弱さを喜んで利用するのです。悪魔の目的はただ一つ、私たちの心を神様の愛から引き離すことです。そして、私たちが互いに苦しめあい、絶望して滅ぶことが悪魔の狙いです。
でも、イエス様はこう言われています。「世の支配者が来るが、彼は私をどうすることもできない」と。そしてさらにこう言われています。「私は、父がお命じになったとおりに行う。私が父を愛していることを世が知るためである。」つまり、イエス様が逮捕されることも処刑されることも、神様の意志によるものであって、決して悪魔の計画が成功したわけではないということです。イエス様の死は、一見、神様の敗北で悪魔の勝利のように見えます。でも、真実は正反対でした。イエス様は死の力にも勝利し、悪魔の力は決して神様の愛を打ち破ることはできないということを証明されました。
イエス様の今日最後の言葉は、「立て。さあ、ここから出かけよう」です。ここには、悲壮感も絶望もありません。イエス様には十字架刑という苦しみが待っており、弟子たちはイエス様を助けられなかったという無力感と後悔と絶望を持つことになっていました。それでも、イエス様はそこに向かって、その全てを導いておられる神様を信頼して、歩み出そう、と弟子たちを励ましました。
悪魔は、さまざまな出来事や人を通して、私たちに神様の愛を疑わせ、絶望するように働きかけてきます。実際、この世界には不正義と不公平があまりに多く、悪魔の支配は広がる一方のように感じます。それでも、イエス様と共に苦しみを希望に変えて、神様を信頼して生きる道はいつでも私たちの前に開かれています。「心を騒がせるな、怯えるな」とイエス様は言われました。私たちには、イエス様がくださった平和があります。聖霊様に助けていただいて、その平和の中で、どんな状況においても希望と喜びを見つけて、自分の身近な人たちの間で、そして世界に向けて、イエス様の平和を伝えていきましょう。
(祈り)主イエス様、どうぞ私たちが自分の力や誰かの言葉に頼るのではなく、あなたの愛の上に立って、あなたの愛を実現する働きを担っていくことができますように。私たちがあなたのことを見失うとき、どうぞあなたの霊を送って、私たちを助けて導いてください。あなたの愛に代わる希望も喜びもありません。どうか、周りの状況がどうなろうとも、動揺する中でも、あなたの愛を信頼できるように助けてください。そして、希望が見えなくても希望を信じて、苦しみの中でも喜びを見出すことができますように。主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。
要約
イエス様のくださる平和は、単に「戦争がない状態」ではありません。それは、イエス様の十字架によって証明された神様の愛を受け取り、周囲の状況がどうであれ、神様のことを信頼し愛することができる心を指します。聖霊様は私たちがそのような心を持てるように常に共にいて助けてくださいます。この世界で起こる様々なことは私たちに神様の愛を疑わせ絶望するように働きかけてきますが、イエス様を信頼して生きるなら、どんな状況においても私たちは希望と平安を取り戻すことができます。
話し合いのために
1) 27節でイエス様が言われている「私(イエス様)の平和」とは何でしょうか?
2) 「世の支配者」とは?私たちにどう関係がありますか?
子どもたち(保護者)のために
27節を一緒に読んで、イエス様のくださる平和とはどういうものか、一緒に考えてみてください。平和は一般的には「戦争がない状態」を指しますが、イエス様がくださる平和は周囲の状況に関係なく揺るぎません。イエス様がくださる平和は、私たちが神様に愛されていることを知っていて、神様を信頼することによって得られるものです。怖い時も、不安な時も、悲しい時も、この平和は誰にも奪われることはありません。