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日曜礼拝・英語通訳付
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暴力による平和と正義による平和
(待降節第一日曜日 マタイ2:1-3, ルカ2:8-14, マタイ10:34-39)
吉野真理
今日は待降節の第一週目の日曜日、イエス様の誕生を待ち望む季節の始まりです。クリスマスは平和のメッセージに結びつけられることがよくあります。それはイエス様の誕生に際して、イエス様が「平和の君」と呼ばれていることや、飼い葉桶に寝かされた赤ちゃんのイエス様というのが、平和のイメージにつながっているからだと思います。
ユアチャーチでは、ここ3週間ほど、箴言のシリーズでもヨハネ福音書のシリーズでも、神様がくださる平和とは何かというテーマが続いてきました。Andyさんと私で示し合わせているわけではないのですが、不思議と別々の聖書箇所で語りかけてくるメッセージが共通していることが時々あります。
今日は、クリスマスに関わる聖書の箇所から、神様のくださる平和について、さらに考えてみたいと思います。毎年読んでいるクリスマスの箇所ですが、違う切り口から読んでみると、また別のメッセージがあることに私自身が今回気付かされました。そして、そのメッセージは、ここ数週間の平和に関するメッセージの中で触れられなかった大切なポイントにもつながっていました。
それではまず、マタイによる福音書2:1-3を読みます。
A. 暴力による平和(ローマ帝国)への抵抗
1. ヘロデに「ユダヤ人の王はどこか?」と尋ねる皮肉(マタイ2:1-3)
1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。(マタイ2:1-3)
西暦はイエス様が生まれたとされる年を起点にしていますが、聖書の記述と史実に矛盾があるため、実際にイエス様が生まれたのは西暦元年ではないと言われています。でも、ここに登場するヘロデ王の時代に生まれたことは間違いないだろうとされています。このヘロデ王というのは、ヘロデ大王と呼ばれた王で、イエス様誕生の40年前にローマの統治者から正式に「ユダヤ人の王」として任命されていました。当時、ユダヤ人が住んでいた地域は全てローマ帝国の支配下に置かれ、ヘロデが王に選ばれたのは民衆の支持があったからではなく、ローマ帝国の権力者に気に入られたからです。つまり、ヘロデを「ユダヤ人の王」と決めたのはローマ帝国であって、ヘロデが王でいられたのはローマの権力の後ろ盾があったからでした。
このような歴史背景の中で先ほどの聖書箇所を読み直すと、この箇所がとんでもない皮肉を含んでいることに気付かされます。東からやってきた博士たちは、ローマ帝国から「ユダヤ人の王」とされたヘロデに、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか?」と尋ねたのです。これは、ローマ帝国の決めた王は本当の王ではないという、ローマ帝国に対する反抗です。東方の博士たちにその意図があったというよりも、このエピソードを書いた福音書作者のマタイの意図がここにあるのだと思います。マタイは、福音書を書くにあたって、「真の王は誰か?それはローマ皇帝ではなくイエスである」というメッセージを、イエス様誕生のエピソードからすでに語ろうとしていたのだと思います。
イエス様が生きた時代、またイエス様の死後、新約聖書が書かれた時代は、ローマ帝国による地中海世界の支配が固められ、「ローマの平和(パクス・ロマーナ)」と称えられた200年間のうちにありました。でも、その平和は、戦争の勝利と敵対勢力の排除という暴力によって得られたものでした。その平和は、神様がくださる平和とは違うのだということを、福音書の作者たちは語ろうとしています。ルカによる福音書2章も読んでみましょう。
2.「主」「救い主」「神の子」は皇帝ではないという主張(ルカ2:8-14)
8 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。9 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。10 天使は言った。「恐れるな。私は、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」13 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。14 「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」(ルカ2:8−14)
私たちは、「主」「救い主」「メシア」「神の子」と聞けば当然イエス様のことを指していると考えます。でも、この福音書が書かれた当時、「主」「救い主」「神の子」は、ローマ皇帝アウグストゥスを指しました。アウグストゥスという呼び名自体が名前ではなく、ラテン語で「神なる者」を意味し、個人名はオクタウィアヌスです。オクタウィアヌスは、100年以上続いていた社会の混乱と戦乱を終わらせ、地中海世界に平和をもたらしました。だから、彼は人々の間で救い主として称賛され、神格化されていきました。
ローマの平和は軍事力という暴力によって得られた平和です。敵対する勢力を打ち滅ぼし、反乱分子を抑え込み、ローマ皇帝という絶対権力者を頂点にした社会構造の中で成立したものです。それによって、戦乱の時代と比べれば確かに人々の暮らしは安定して、豊かになりました。でも、残念ながら、暴力による平和は一時的にしか続かず、必ずまた権力争いが起こることを、歴史が証明しています。
現代でも繰り返されている愚かな軍事力競争もこれと同じです。先週も話された通り、自国ファースト主義は他国排除主義と同じです。より多くの武器を持てば戦争の抑止力になると考えるのは、武器商人と政治家の利益になるだけで、抑止力どころか国家間の緊張を増やすだけです。
マタイもルカも、このような暴力による平和は本当の平和ではなく、イエス様こそが私たちに真の平和をもたらす救い主なのだと語りかけています。イエス様のくださる平和は、無力な赤ちゃんとなられ、十字架で処刑された神様の平和です。その平和は、私たちの罪を罪として裁く神様の正義と、同時に罪を赦す神様の憐れみによって与えられました。それは、私たち一人ひとりの中に、神様の正義を求め、神様の憐れみを信頼する心を生み出します。そして、どのような状況においても、私たちが力で人を支配するのではなく、神様の愛が実現するために自らが弱くなるように導きます。それが、互いに傷つけ合い憎しみ合う連鎖から私たちを救い、代わりに互いに許し合い愛し合うことを可能にする、イエス様にしかできなかった救いの方法です。
羊飼いたちの前に現れた天の大軍は言いました、「神に栄光、地には平和、御心に叶う人にあれ。」暴力による平和が当然とされる世界の中で、神様の正義による平和を求めていくことは、自分の日常が穏やかであればいいというのとは違います。神様の正義が実現するためには、時に人間の不正義に抵抗するために闘わなければいけないことも意味します。
B. 正義による平和
1. ボンヘッファーのヒトラー暗殺計画は正義なのか?
今月の初め、この映画(ボンヘッファー:ヒトラーを暗殺しようとした牧師)を観てきました。去年、海外で公開された時に日本には来ないのかとがっかりしていたのですが、この11月に小規模ですが日本でも公開されました。ボンヘッファーは20世紀のドイツの神学者で、牧師でありながらヒトラーの暗殺計画に加わり、計画は失敗し、収容所に送られて処刑された人です。ヒトラーを暗殺する、殺人を犯すということは、人として、牧師として正しい行為なのか、議論があります。でも、ボンヘッファーの残した言葉を読むと、彼自身は確信に満ちていて、迷いがなかったのだろうと推測できます。映画でもボンヘッファーの葛藤はほとんど描かれていません。
私は、ボンヘッファーの心にはイエス様のくださる平和があったのだと思います。そして、それこそが彼がヒトラー暗殺計画に加わった原動力だったのだと思います。イエス様の平和が人に殺人を犯させるとは、矛盾しているようにも感じられます。議論はあると思います。それでも、次のイエス様の言葉を読むと、イエス様のくださる平和というのは、単に一人ひとりの心の穏やかさにとどまらないもので、時に私たちを周囲の人と対立させ、争うことすら促すものだということが分かります。マタイ10:34-39節です。
2. イエス様がもたらしたのは「平和ではなく剣」?(マタイ10:34-39)
34 「私が来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。35 私は敵対させるために来たからである。人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。36 こうして、自分の家族の者が敵となる。37 私よりも父や母を愛する者は、私にふさわしくない。私よりも息子や娘を愛する者も、私にふさわしくない。38 また、自分の十字架を担って私に従わない者は、私にふさわしくない。39 自分の命を得ようとする者は、それを失い、私のために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」(マタイ10:34-39)
この言葉は、私たちが他の誰よりもイエス様のことを信頼し愛することの重要性を説いています。そして、そのために家族と対立することも当然であるとしています。
家族は、時に互いの存在を自分の所有物のように勘違いして支配しようとしたり、利用しようとしたりする間違いを犯します。家族に限らず、近しい関係であるほど、私たちの自己中心性が害を及ぼすことが多くなります。それは、私たちが互いに愛し合うことを望まれた神様の愛に反することです。
だから、そのような間違った関係性はイエス様の十字架によって正されなければならず、その意味で、イエス様は家族の中に平和よりも剣をもたらしました。家族の中でも、どんな人間関係の中でも、イエス様の十字架の愛に優るものはなく、同時にイエス様による罪の赦しがなければ、どんな関係でも互いの罪の中で破綻してしまいます。だから、イエス様の愛と赦しに反するような人間関係ならば、壊すことと修復することを繰り返す必要があります。それはとても骨の折れる作業ですが、イエス様への信頼が私たちの支えであり導きです。
そして、このことは個人の人間関係にとどまらず、社会全体、世界全体にもつながることです。神様の愛と赦しに反する不正義に対して、私たちは見てみぬふりをするのではなく、時に勇気を持って抵抗することが必要なのだと思います。ボンヘッファーの行動は、その究極の例なのではないでしょうか。彼は、ヒトラーとナチスを前に黙って何もしないこと自体が罪だと確信していました。ここからは、ボンヘッファーの獄中書簡からいくつか言葉を紹介したいと思います。
我々はキリストではない。しかし、我々がキリスト者であろうとするならば、それは責任ある行為においてキリストの心の豊かさにあずからねばならないということを意味する。その責任ある行為とは、自由に時間を利用して、危険に立ち向かい、不安からではなく、自由を与え・罪を贖うキリストの愛から、全て苦しむ者に向かって湧き出る真正の同情を負うものである。行為の伴わない期待と愚鈍な傍観とは、決してキリスト教的態度ではない。(1942年クリスマスに書かれたエッセイ『十年後』より。ヒトラーの独裁政権が始まって10年を指して『十年後』と題された。)
僕たちと共にいる神とは、僕たちを見捨てる神なのだ。…神の前で、神と共に、僕たちは神なしで生きる。神はご自身をこの世から十字架へと追いやられる。神はこの世においては無力で弱い。そして神はまさにそのようにして、しかもそのようにしてのみ、僕たちのもとにおり、また僕たちを助けてくださるのである。(1944年7月16日)
人間は、この神を失った世界で神の苦しみに共にあずかるように、呼び出されているのである。イエスは新しい宗教への召されるのではなくて、生へと召されるのである。…その生とは、この世において神の無力にあずかることではないだろうか。(1944年7月18日)
ボンヘッファーは、ヒトラーとナチスによってもたらされる悲劇と人々の苦しみを止めるためにはヒトラーを殺すしかないと考え、それは神様の正義を行うことだという確信を持っていたのだと思います。それは、そこまでの状況になるまで保身のためにヒトラー崇拝を続けたドイツの教会への失望と怒り、贖罪も込められていたと思います。映画の中で、ヒトラーを神のように崇拝する聖職者たちに対して、ボンヘッファーは「教会の頭はキリストのみ、人間ではありえない、人間を崇拝することは偶像礼拝に他ならない」と批判していました。今聞くと当然のことですが、それが分からなくなるような当時の状況は、私たちが注意していなければまたこの先繰り返されてしまう過ちだと思います。
私たちは、これからクリスマスを迎えるにあたって、イエス様のくださる平和というのが、時に不正義に抵抗する争いを厭わないことだということを覚えていたいと思います。ボンヘッファーの行動は、それまでにいくらでも止めることができたのに、そうしなかった人々が多すぎたために、するしかなくなった行動とも言えると思います。神様の正義は、神様の愛と赦しを知っている私たち一人ひとりに委ねられており、それは歴史の転換点のような大きな局面ではなく、日常の中で、個人的関係の中から始まるものです。私たちは、神様の前で、神様と共に、神様なしに、神様の働きを担っています。
(祈り)主イエス様、どうぞ私たちの心にあなたが入ってきてください。私たちが正しいと信じていることに誤りがあるなら、どうぞ教えてください。私たちがどんな状況においても思い上がることなく、あなたがどう見ておられるのか、あなたの正義はどこにあるのか、謙虚に誠実に求めることができるように導いてください。一人ひとりの人間関係の中で、社会の中で、世界の中で、あなたの正義が実現するように、私たちにできること、すべきでないことを教えてください。世界中で続いている戦争、あなたが悲しみ憤られる不正義を止めるために、私たちは何ができるでしょうか。どうか私たちが無気力にならずに、傍観者にならずに共に苦しみを担うことができるように、私たちを導いてください。主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。
要約
「神の子」「主」「救い主」などの称号は、イエス様が誕生された当時、ローマ帝国の皇帝に対して使われていたものでした。皇帝は軍事力と暴力によって内乱を終わらせ、帝国に平和をもたらしたと称えられていました。これに対して、イエス様は非暴力と正義によって平和をもたらされます。それは、不正義と闘い、神様の正義がこの世界で実現することを求め続けることを意味します。そのために私たちに必要なのは、私たちの正義が神様の正義とは限らないことを常に謙虚に吟味する態度と、神様の愛に基づいて勇気を持って行動していくことです。
話し合いのために
1) 軍事力と暴力で敵に勝利することによって得る平和は何が間違っていますか?
2) 神様の正義と私たちの正義を見分ける方法は?
子どもたち(保護者)のために
善悪の区別は人の立場によって変わってくるもので、私たちは自分の正義を神様の正義と間違いやすいことを子どもたちに伝わる形で話してみてください。神様はすべての人を愛しておられますが、私たちが互いに傷つけあうことに対しては憤られ、悲しまれます。何が正しいことで、何が神様の喜ばれることなのか、大人も子どもも、その時々の状況の中でよく考えなければいけないことを伝えてください。自分に都合のいいことではなく、本当に神様が望まれることは何かを見極めて行動することは、大人でも難しいことです。