「言」としてのイエスの降誕

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「言」としてのイエスの降誕

(待降節第4日曜日・クリスマス礼拝 ヨハネによる福音書 1:1-14)

永原アンディ

 アドヴェントキャンドルの全てに火が灯されて、今日は待降節最後の日曜日を迎えました。私たちは多くの教会と同様に、毎年このクリスマス当日の直前の日曜日の礼拝をクリスマス礼拝として捧げてきました。

 先週、私たちは、イエスがその誕生に先立って、「主は救い」という意味を持つイエスと名付けられること、そして「神が共にいてくださる」という意味のイマヌエルと呼ばれることが預言されていたことを学びました。そして、そこから私たちに必要な救いとは、イエスと共に人生を歩むことだと知りました。

 今日は、ヨハネによる福音書の最初の部分から、私たちにとってのイエス誕生の意味を考えてゆきましょう。ヨハネは、マタイやルカとは異なる視点からイエスの誕生を紹介しているので、併せて読むことによってクリスマスの意味をもっと深く知ることができるはずです。 

それでは、初めに全体を読みましょう。

1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
2 この言は、初めに神と共にあった。
3-4 万物は言によって成った。言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に成ったものは、命であった。この命は人の光であった。
5 光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった。

6 一人の人が現れた。神から遣わされた者で、名をヨハネと言った。
7 この人は証しのために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じる者となるためである。
8 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。

9 まことの光があった。その光は世に来て、すべての人を照らすのである。
10 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。
11 言は自分のところへ来たが、民は言を受け入れなかった。
12 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には、神の子となる権能を与えた。
13 この人々は、血によらず、肉の欲によらず、人の欲にもよらず、神によって生まれたのである。
14 言は肉となって、私たちの間に宿った。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

1. イエスは世の光、神の言 (1-5)

 ヨハネによる福音書は、クリスマスに起こった出来事を記録することはマタイやルカに任せて、生まれたイエスが私たち一人一人にとってどのような方であるのか、を伝えようとしています。6-8節はバプテスマのヨハネについての記述です。著者ヨハネがこの部分を挿入した理由は、当時はバプテスマのヨハネの知名度がイエス同様だったからだと思われます。今日はこの部分には触れませんが、先々週、「私たちは現代のヨハネであり、イエスの母マリアである」とお話ししたことを思い出して下さい。

 ヨハネはこの部分で、イエスの使命を二つの言葉で言い表しています。「光」と「言」です。ユアチャーチで歌うワーシップソングの中にイエスを「光」と呼んで歌う歌がいくつもあるように、それは私たちにとって想像しやすい比喩だと思います。 

イエスが「導く光」であり、「照らして物事の本質を明らかにする光」であることは容易に想像できると思います。しかし、イエスは言であるということは、少しわかりにくく感じられるのではないでしょうか。そこで今日は、このイエスが「言」であるということに注意を向けたいと思います。もう一度5節まで読みます。 

1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
2 この言は、初めに神と共にあった。
3-4 万物は言によって成った。言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に成ったものは、命であった。この命は人の光であった。
5 光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった。

 まだこの部分には人となったイエスについては書かれていません。ただ「言」が世界に何も存在する前、つまり創造の前にあった、つまり被造物ではなく神と共にあった存在だと宣言しています。しかもそのすぐ後に「言は神であった」と言っています。

 これがヨハネによる福音書の書き出しなのです。イエスが神様ご自身であるという宣言です。目に見ることのできない神様が目に見える一人の人として、ご自身の造られた世界の中に入ってこられました。それがクリスマスの出来事です。

 3、4節は注意深く読む必要があります。というのは、言が天地創造の時から存在しただけでなく、天地創造を主導しているからです。

 それは神様が、イエス・キリストとしてのみ、この世界と人間とに関わられることを意味しています。それは呼びかける、語りかける神様だということです。

 創世記の初めの部分に神様の最初の発言が書かれています。覚えていますか?「光あれ」とうい呼びかけです。そして光が生じたとあります。このヨハネの1章にも「光」が出てきます。しかしこれは実際の光ではありません。人々を導くイエスという存在の比喩としての「光」です。

 それに対してイエスが「言」という表現は比喩ではなく、イエスの本質を表している言葉です。イエスは私たちに呼びかけ、語りかけ、そして私たちと語り合うことによって導いてくれる神様だということです。そのような意味で、先週聞いたようにインマヌエルの神様なのです。

2. 地上に生きた「神の言」 (9-14)

それでは9節以下を読みましょう。この部分は「最もコンパクトなイエス伝」と呼ばれています。

9 まことの光があった。その光は世に来て、すべての人を照らすのである。
10 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。
11 言は自分のところへ来たが、民は言を受け入れなかった。
12 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には、神の子となる権能を与えた。
13 この人々は、血によらず、肉の欲によらず、人の欲にもよらず、神によって生まれたのである。
14 言は肉となって、私たちの間に宿った。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

 この部分で、初めにわかりやすく光に例えて、イエスの導きがクリスマスの始まったことを告げています。しかし、すぐに「言」という表現に置き換えてイエスの来られた意味を教えています。

 ご自身の創られた世界の中に来られたのに、ほとんどの人は彼を受け入れることはなかっとあります。イエスが宗教家たちと論争したり、奇蹟を行うことに喝采した民衆も、結局イエスの本意を知ることはできませんでした。権力者、宗教指導者に捉えられても抵抗しなかったことで、彼らのイエスに対する勝手な願望が裏切られたという失望が、「十字架につけろ」という残酷な叫びとなりました。

 神様の言であるイエスを拒むということは、神様からの語りかけに耳を貸さないということです。

 私たちは今年車の事故に遭い、今年車を変えることになってしまったのですが、前の車が相当古い車だったので、新しい車のさまざまな装置に、これが今どきの車か!と驚くことが多くてなかなか慣れることができません。信号待ちで前の車に近すぎると怒られ、信号が青になって前の車が出ても、ぼーっとして動かないでいると、後ろの車の人ではなく、自分の車に叱られます。私が車線をはみ出すと指摘され、ハンドルが戻されさえします。それで、私はできるだけ声をかけられないように設定しています。本当は安全運転のために役に立つのでしょうが、私には車に指図されたくないという気持ちがあるのです。

 しかし、そんな私でも人生というドライブに際しては、ナヴィゲーションの言を無視していれば大変なことになることを知る機会がありました。今思えば、それこそが神様の大きな恵みでした。 

 イエスが地上での短い生涯を終えようとした時、聖書に書かれている通り、ほとんどの人は、イエスを死刑となって当然の犯罪者とみなしました。しかし、ごく少数の数十人かせいぜい数百人、そうではなかった人々がいたのです。

しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には、神の子となる権能を与えた。この人々は、血によらず、肉の欲によらず、人の欲にもよらず、神によって生まれたのである。(12-13)

 言はコミュニュケーションです。イエスは神様からの語りかけです。みなさんはこれらの人々と同様に言葉を受け入れた人たちです。

 それは、私たちが特に有能であったからでも、敬虔だったわけでもないことを私たちはよくわかっています。神の語りかけを、ただ憐れみによって聞くことができた者たちにすぎません。

 「神の子となる権能」とは硬い言葉ですが、イエスとつながるということです。イエスとしての神様の語りかけは今も続いています。

 私たちが礼拝する時、聖書を読む時、ミニチャーチをする時、イエスはそこにいて親しく語りかけてくださり、また私たちの訴えに耳を傾けてくださいます。

(祈り) 神様、あなたが語りかけてくださる神様であることをありがとうございます。私たちはイエスというあなたの言によって、あなたを知り、あなたに従って生きる喜びを知ることができました。私たちの周りにいる、苦しんでいる人々、悲しんでいる人々に、神様が語りかけていてくださることを伝えることができるように助けてください。あなたがご自身を目に見える姿で、声の聴くことのできる姿で、あなたの創られた世界に来てくださったことをありがとうございます。そして今も共に歩んでいてくださることをありがとうございます。この一年、私たちはあなたの言葉に導かれて、ここまで歩んでくることができました。共に捧げる礼拝は今日が最後ですが、新しい一年もあなたが導いてくださいますように。
感謝して期待してイエスキリストの名によって祈ります。


要約

ヨハネはイエスを「言」と紹介しています。それは、世界を創造する言であり、私たちの生き方を導く言です。イエスを受け入れるとは、神様の呼びかけに耳を傾けることです。しかし、イエスは一方的に語るだけの方ではありません。私たちの祈りを聞いてくださる方です。弟子たちがイエスを中心に共に楽しくおしゃべりをしながら歩んだように、私たちもイエスと共に親しく語り合いながら人生の日を歩んでゆきましょう。

話し合いのために

1) イエスはなぜ「言」と紹介されているのですか?
2) なぜ多くの人がイエスを受け入れられなかったのでしょうか?

子どもたち(保護者)のために

 イエスが暗闇の中に光るライトのように導く方であることを初めに紹介しましょう。そして、その具体的な方法が語りかけであることを教えましょう。礼拝や祈りや、聖書を読むこと、人々と話し合うことの中で、語りかけてくださり、私たちも神様に呼びかけることができることを伝えてください。