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神様を愛し、人を愛して生きる約束
(ユアチャーチカヴェナント)
吉野真理
今日はユアチャーチ・カヴェナントを確認したいと思います。ユアチャーチのメンバーシップ(会員制度)は自動更新ではなく、年に1回、メンバー全員が今年一年もユアチャーチのメンバーとして歩むかどうか、確認することにしています。(新しくメンバーになるのは通年いつでもできます。)ユアチャーチのメンバーは、カヴェナント(誓約)を立てて、3つの約束をします。第一に神様を愛して神様に仕えること、第二に互いに愛し合い仕え合うこと、第三にこの世界を愛し世界に仕えること、です。ひとことで言うと、神様を愛し人を愛して生きていきますという誓いです。メンバーになることを決めた皆さんには誓約書にサインをしていただいて、ユアチャーチのリーダーが皆さんの誓約書をお預かりはしますが、この誓約は皆さん一人ひとりと神様の間でするものです。ですから、リーダーも牧師も全員自分と神様の関係の中でそれぞれにとっての誓いの意味を考え、決めます。
神様を愛し人を愛して生きるということは、とても抽象的で主観的なもので、時に独善的になってしまう危険性があります。大切なのは、それが自分にとって具体的に何をすることなのかを一人ひとりが神様に聞き、考えることだと思います。そこで今日は、3つの約束に関係するイエス様の言葉をたくさんご紹介することにしました。私も含め、私たちそれぞれがこれからの一年をどのように神様と歩みたいのか、考えるヒントになればと思います。また、これは神様を信じて生きるとはどういうことかを集約したものでもありますので、メンバーになるかどうかは関係なく、今日読んでいく聖書箇所が皆さんの信仰の歩みの助けになればと思います。
それでは始めましょう。まず、マルコによる福音書12:29-31です。
1. 神様を愛し神様に仕える
a. 神様を誰よりも信頼して従う (マルコ12:29-31, 8:34-37)
29 イエスはお答えになった。「第一の戒めは、これである。『聞け、イスラエルよ。私たちの神である主は、唯一の主である。30 心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』31 第二の戒めはこれである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる戒めはほかにない。」 (マルコ12:29-31)
イエス様が言われたこの二つの戒めに、ユアチャーチ・カヴェナントの3つの誓約全てが含まれています。でも、ここでイエス様が「第一の戒め(最も重要な戒め)、第二の戒め」と言われているように、3つの誓約には順番があり、第一の誓約「神様を愛し神様に仕える」ということが、他の二つの誓約の土台になる重要なものです。
私たちの信仰の歩みは、私たちの主は唯一の主、神様おひとりであり、他の誰も何も神様より大切な存在はないと確認するところから始まります。「心を尽くし、魂を尽くし、…主を愛しなさい」というのは、何をしていても、誰といても、神様の思いが何であるかを考え、自分にできることを続けなさい、という意味です。それが、神様を誰よりも信頼して生きるということで、私たちの生活の全てで神様を礼拝するということです。
ユアチャーチの「ユア」は第一に神様を指します。私たちは神様のものです。一人ひとりが神様に、「私はあなたのものです」と告白し、「あなたの思いを教えてください」と求めることが、私たちの歩みの始まりです。その歩みはどんなものか、イエス様はこうも言われています。マルコ8:34-37です。
34 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい。35 自分の命を救おうと思う者は、それを失うが、私のため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。36 人が全世界を手に入れても、自分の命を損なうなら、何の得があろうか。37 人はどんな代価を払って、その命を買い戻すことができようか。(マルコ8:34-37)
イエス様に従って生きるということは、イエス様の十字架の愛を知った恵みの中を生きるということです。私たちは、イエス様の愛がこの世界で実現することが、他のどんなことよりも価値のあることだと知りました。そのために私たちの人生が用いられるなら、それより嬉しいことはありません。それぞれが抱えている課題は残っていますが、それでも、それらに支配されずに、永遠に価値の変わらないもののために生きる道を与えられました。
それでは、その道を歩むとはどういうことなのか、もっと具体的にイエス様に教えていただきましょう。まずルカ18:9-14です。
b. 神様の前で弱さと過ちを隠さない(ルカ18:9-14, マルコ10:13-16)
9 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。10 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。11 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、私はほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でなく、また、この徴税人のような者でないことを感謝します。12 私は週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』13 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人の私を憐れんでください。』14 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」 (ルカ18:9-14)
神様が私たちに求めるのは、自分の力で立つ強さや正しさではなく、自分の過ちを率直に認めて、神様に憐れみを求める態度です。これは同時に、神様の前では自分の弱さを隠さず、大胆に助けを求めていいということも意味します。マルコ10:13-16ではこう言われています。
13 イエスに触れていただくために、人々が子どもたちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。14 イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子どもたちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。15 よく言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」16 そして、子どもたちを抱き寄せ、手を置いて祝福された。 (マルコ10:13-16)
私たちは、神様に愛されている神様の子どもです。何も恐れず安心して神様を頼っていいし、それを神様も喜んでくださいます。
このように、神様の前で自分の弱さも過ちも隠さず、ただ神様を信頼する態度は、私たちが自分の財産に対して求められている態度でもあります。マルコ12:41-44です。
c. 神様に喜ばれる献げ物をする(マルコ12:41-44)
41 イエスは献金箱の向かいに座り、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。42 そこへ一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。43 イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「よく言っておく。この貧しいやもめは、献金箱に入れている人の中で、誰よりもたくさん入れた。44 皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」 (マルコ12:41-44)
献金は私たちが神様に捧げる礼拝の一部です。教会の運営資金として使われます。ユアチャーチでは主に家賃と牧師給与、光熱水費、備品や消耗品の購入費用などに充てています。多くの教会が大体同じだと思います。ユアチャーチの会計は毎月メンバーの皆さんに報告していますが、メンバーでなくても希望があればいつでもお見せできます。献金は、イエス様が言われている通り、一人ひとりが自分の状況に応じて、他人と比べることなく喜んで献げられることが一番重要です。ですから、ユアチャーチでは礼拝の間に献金の時間は作らず、献金する際に名前を書く欄も作っていません。誰がいくら献げているのか誰も知りません。
ユアチャーチが神様の働きを担っており、ご自分もその一部を担いたいと思われる方は、献金をどうするか、ご自分と神様の関係の中で決めてください。経済的に苦しいなら無理に献金する必要はありません。伝統的に収入の十分の一が目安とされて、什一献金という呼び方もありますが、それぞれが神様に喜んでいただけると思う額を決めてください。何よりも、お話ししてきたように、私たちができる献げ物で一番重要なのはお金ではなく、一人ひとりの存在そのものです。
それでは次に、二つ目の誓約、互いに愛し合い仕え合うということについてイエス様に教えていただきましょう。まずマタイ18:19-20です。
2. 互いに愛し合い仕え合う
a. 祈り合う(マタイ18:19-20)
19 また、よく言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を合わせるなら、天におられる私の父はそれをかなえてくださる。20 二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである。」 (マタイ18:19-20)
神様を信頼して愛して生きることは、誰も一人でできることではありません。誰もが他の誰かからまず神様の愛を教えてもらい、それを自分が今度は次の人に伝えていくものです。そして、私たちには、神様を信頼したくても信頼できなくなる時があります。一人で祈っていても空を掴むようで、虚しく感じてしまう時があります。でも不思議なことに、そのことを率直に誰かに打ち明けると、状況は何も変わっていなくても、神様は確かに共にいてくださるのだと分かる時があります。二人または三人がイエス様を求めて集まるところに、確かにイエス様は共におられると教えてくださるのです。だから、私たちが互いに愛し合い仕え合う中で最も基本的で重要なのは、お互いの話を聞き合い、一緒にイエス様を見上げて祈り合うことだと思います。共に祈り、共に悩み、共に喜ぶ経験は、私たちを強めてくれます。
ただ、私たちは同時に、イエス様とは違って不完全な存在なので、互いに愛し合っているつもりでも傷つけ合ってしまう時もあります。だから、互いに許し合うということが必要です。マタイ18:21-22を読みます。
b. 許し合う(マタイ18:21-22)
21 その時、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、きょうだいが私に対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」22 イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。 (マタイ18:21-22)
「七の七十倍赦しなさい」というのは、「何回でも赦しなさい」ということです。これは、私たちが他人の間違いを全て我慢して、辛くても受け入れなければいけないという意味ではありません。私たちは全員が神様に愛されている子供であり、どちらか一方が好き勝手に生きて、もう一方は自分を押し殺して忍耐しなければいけないなんてことはありません。でも同時に、神様の前に正しい人は一人もいません。私たちは誰もが神様に罪を赦していただく必要のある罪人で、神様は私たちを赦してくださいました。ですから、家族や友人との間に問題が起こり、明らかに相手が間違っている時でも、神様はその人のことも赦しておられ愛しておられることを思い起こす必要があります。そして、間違いを間違いとした上で、その人のことを許すとは自分にとって具体的に何を意味するのか、話し合いをしてみるかどうか、付き合いを続けるか距離を置くか、考えることが大切です。
この「互いに許し合う」ということは、「互いに仕え合う」ということにもつながります。マタイ20:25-28を読みましょう。
c. 仕え合う (マタイ20:25-28)
25 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、諸民族の支配者たちはその上に君臨し、また、偉い人たちが権力を振るっている。26 しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、27 あなたがたの中で頭になりたい者は、皆の僕になりなさい。28 人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」(マタイ20:25-28)
私たちは誰でも、無意識のうちに人との上下関係を持っています。私たちは神様の前では皆ひとしく神様の子どもであり、赦された罪人に過ぎません。それなのに、年齢、性別、性自認や性指向、学歴、職業、婚姻歴、障害や病気の有無、国籍、人種、経験などによって、互いに偏見を持ち、差別しています。また、教会という共同体で陥りやすい間違いは、昔からいるメンバーと新しいメンバーまたは最近来るようになったビジターの間に溝を作ることです。「昔からこうしてきたから」というだけの理由で、新しい人の意見を聞こうとしないなら、それは間違いです。私たちは、イエス様に倣って生きようとするなら、自分の慣れ親しんだものに他人を合わせようとするのではなく、自分がそれまで知ろうとしなかったものを理解しようとする姿勢を持つ必要があります。そうすれば、自分の無意識のうちにある差別に気が付き、変えられていくことができます。
ユアチャーチの「ユア」の一つ目の意味は神様でしたが、二つ目の意味は新しくユアチャーチに来てくださる人々を指します。ユアチャーチは神様のものであり、古くからいるメンバーのものではありません。私たちは、神様のために、そして新しくこの教会に加わってくださる人々のために、どう変わるべきなのでしょうか。メンバー一人ひとりが考えなければいけないことです。
このように、互いに愛し合い仕え合うということは、イエス様が私たちを愛して赦してくださったことを互いの関係の中で再現するということです。それは、互いの中にイエス様を見ることとも言い換えられます。ヨハネ15:12-13を読みましょう。
d. 互いの中にイエス様を見る (ヨハネ15:12-13)
12 私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の戒めである。13 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。(ヨハネ15:12-13)
友のために自分の命を捨てることとは、文字通りの意味もありますが、これまでお話ししてきたことに当てはめると次のようになると思います。まず、友と共に悩み苦しみ、一緒に祈り、そのために自分の時間や労力を惜しまないこと。次に、自分を傷つけた友のことを神様は赦して愛しておられることを受け入れ、自分の憎しみや悲しみに支配されないこと。最後に、友のために自分が慣れ親しんだものを捨てる覚悟を持ち、自分が変えられることを恐れないこと。これらは、神様でありながら人となられ、罪人とされ、神様にも見捨てられる絶望を味わったイエス様の愛を、お互いの間で再現することです。そのために、ユアチャーチでは、日曜日の礼拝後のフェローシップの時間や平日のミニチャーチを大切にしています。私たちは、互いの中にイエス様を見て励まし合うために、ここに集められていると信じています。そして、それが、目に見えないイエス様の目に見える体としての教会の役割だと信じています。
それでは、三つ目の誓約、世界を愛し世界に仕えるということについて考えていきましょう。まず、マタイ25:31-46のイエス様のたとえ話を読みたいのですが、長いので一部だけ抜粋して読みます。
3. 世界を愛し世界に仕える
a. 誰に対しても主に対するように接する(マタイ25:31-46)
…34 そうして、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時からあなたがたのために用意されている国を受け継ぎなさい。35 あなたがたは、私が飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、よそ者であったときに宿を貸し、36 裸のときに着せ、病気のときに世話をし、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』37 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつ私たちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。38 いつ、見知らぬ方であられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。39 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』40 そこで、王は答える。『よく言っておく。この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである。』… (マタイ25:31-46)
イエス様がすべての人のために十字架に架かられたと知った私たちは、その愛が届いていないところにそれを届ける役割を与えられています。それは世界の果てまで行く宣教師になるという意味ではなく、身近な人々の中で誰に対してもイエス様に対するように相手のことを尊重し仕えることによって果たせます。それは、自分には何の見返りもなく、相手に特に変化をもたらすこともないかもしれません。それでも、私たちが誰かの小さな悩みや困りごとに関心を持つことで、この世界は変わります。神様は私たちのそのような小さな愛の働きを確かに見ておられて、喜んでくださいます。
さらに、神様の赦しを知っている私たちは、この世界に溢れる憎しみや敵意の中でも果たすべき役割があります。ルカ6:27-36を読みます。
b. 敵を愛する (ルカ6:27-36)
27 「しかし、聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。28 呪う者を祝福し、侮辱する者のために祈りなさい。29 あなたの頬を打つ者には、ほかの頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。30 求める者には、誰にでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り戻そうとしてはならない。31 人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。32 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。33 また、自分によくしてくれる人によくしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。34 返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも、同じだけのものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。35 しかし、あなたがたは敵を愛し、人によくしてやり、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。36 あなたがたの父が慈しみ深いように、あなたがたも慈しみ深い者となりなさい。」 (ルカ6:27-36)
ここでイエス様が言われていることは、私たちにとって実践するのが何と難しいことでしょうか。人から敵意や憎しみを向けられて、恐怖や怒りを感じない人はいません。不当に侮辱されたり搾取されたりしたら、怒りを感じて当然だと思います。でもイエス様は、「その連鎖の中に留まっていてはいけない、その連鎖をあなたがたが断ち切りなさい」と言われます。
イエス様が十字架で教えてくださった神様の愛は、罪人の罪を自らが背負って赦す、無条件の愛です。その愛を受け取るかどうかも、神様は私たちに委ねられました。見返りを求めず、一方的に注ぎ、何度でも赦し、受け入れてくださる愛です。それは、私たち人間の常識からすれば、愚かで、不公平に思えるほど公平で、理解しきれないほど大きな愛です。でも、それを受け取った人たちを通して、この世界は変えられてきました。私たちもその人たちに連なっており、神様は私たちを用いてこの世界にご自分の愛が支配するところを広げられます。
最後にマルコ4:30-32を読みます。
c. この世界で神様の国を見る (マルコ4:30-32)
30 また、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。31 それは、からし種のようなものである。地に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、32 蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」 (マルコ4:30-32)
神様の国とは、神様の愛の支配するところです。世界の現実を見れば、そんなのは幻想と思えるかもしれません。それでも、神様の国は確かにすでにこの世界に始まっています。からし種は、粒マスタードを思い起こすとわかりますが、直径2ミリくらいの小さな種です。イエス様は、神様の国とは最初はそのように小さく、吹けば飛んでなくなってしまうような頼りない種から始まると言われています。
私たちがこの世界を愛するということは、そのようなものです。神様を信頼することによって起こる私たちの心のわずかな成長や、私たちの人間関係での小さな変化が、この世界に与える影響はあまりに取るに足りないと思われます。でも、それは確かに神様の国の始まりです。そのわずかな変化が、誰かの心を動かし、社会を動かし、世界を変えていきます。それは、長い時間をかけて起こり、私たちが生きている間に結果を見ることはないかもしれません。でも、だからこそ私たちは、目に見える変化にとらわれず、まだ見えない神様の国の成長に希望を置いて、それぞれの置かれた場所で、神様を愛し人を愛して生きることを続けることができます。
この歩みに加わりたいと思われる方、ユアチャーチで共に歩みたいと思ってくださる方は、カヴェナントにサインしてメンバーになってください。もし何か気になることや疑問に思うことがれば聞いてください。これからの一年、それぞれの生活に、またユアチャーチの歩みに、神様が何を見せてくださるのか、期待しましょう。
(祈り)主イエス様、あなたは私たち一人ひとりをよくご存知です。あなたが私たちと出会ってくださったことを本当にありがとうございます。今私たちは新しい一年を始めるにあたり、この一年をどのように送るのか、あなたが私たちに望まれていることは何か、改めて考えるときを迎えています。どうかそれぞれに必要なことを、それぞれに分かるように、それぞれの心に語りかけてください。ユアチャーチがどのように変わるべきなのか、守るべきことは何なのか、教えてください。どうかまずは、この後の礼拝の時間、一人ひとりがあなたと豊かなコミュニケーションの時間を持つことができますように。あなたの霊をもう一度注いでください。主イエス様、あなたに感謝して、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。
要約
ユアチャーチのメンバーシップ(会員制度)は自動更新ではありません。年に1回、この教会のメンバーとして歩むかどうか、それぞれ決めることにしています。ユアチャーチのメンバーは3つの誓約を立てます。第一に神様を愛して神様に仕えること、第二に互いに愛し合い仕え合うこと、第三にこの世界を愛し世界に仕えること、です。これらが具体的に何を意味するのかは、一人ひとりが神様との関係の中で考え、実践します。愛すること、仕えること、というのは、とても抽象的で主観的なもので、時に独善的になってしまう危険があります。そのため、今回はこの3つの誓約の中身に関わるイエス様の言葉をたくさん紹介します。一人ひとり、他人と比べることなく、自分と神様の一対一の関係の中で、これからの1年の歩みをどうしていきたいか、考えましょう。
子どもたち(保護者)のために
ユアチャーチカヴェナントは、私たちが神様を信頼して生きるとはどういうことかを集約したものでもあります。3つの誓約を、子どもたちに分かりやすい言葉で紹介してください。「神様を愛する」「人を愛する」「世界を愛する」とは具体的に何をすることなのか、考えてみてもいいかもしれません。