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日曜礼拝・英語通訳付
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カヴェナントに生きる力はどこから?
(ユアチャーチカヴェナントII)
永原アンディ
先週は、カヴェナントについてのメッセージを聞きました。今日もカヴェナントに関するお話を続けようと思います。と言っても、内容を繰り返すわけではありません。
カヴェナントの三つの柱を覚えているでしょうか。神様を愛する、互いに愛し合う、世界を愛する、ですね。それでは、去年カヴェナントのメンバーであった人にお聞きしますが、自分はカヴェナントの誓約を100%を守れた人は手をあげてみてください。では50%・・・、自分に問うとすれば、数%というのもおこがましいと思ってしまいます。でもそれは正しい感覚です。イエスに比べれば、私たちの愛の力は乏しいどころか、無に等しいというのが本当のところでしょう。
しかし神様は、そのような私たちにこそ、この誓約に署名することを勧めておられます。神様は私たちにその成果を期待されているのではなく、その意思を持って生きることを期待されているからです。そして、私たちは少しずつでも愛において成長できる力の源を持っているからです。
今日お話ししたいのは、カヴェナントを実践するための力の源泉についてです。これは神様の恵みの源泉でもあります。
A. 礼拝
私たちがカヴェナントに生きる、つまり愛に生きるための力は残念ながら内側からは湧いてきません。
神様が自分を生かしていてくださることを信じない人にとって、人生はまさにディールです。自分の持つ力を用いて自分にとっての最大利益をできるだけコストをかけずに得ることを目指します。そのために奪えそうなら奪い、邪魔な者は追い払うのです。弱者は自分を守るために災いに遭わないようじっとうずくまるように生きなければなりません。そこには愛の働く余地はないのです。
しかし、本当は私たちは愛という井戸を持っているのです。多くの人がそれに気づかないか、無視しますが、それを見出したものは幸いです。この水は涸れることがないからです。
ヨハネによる福音書4章に、イエスがこの井戸について語った興味深いエピソードが記されています。ヤコブの井戸と呼ばれた実際の井戸で水汲みをしていたサマリア人の女性に、イエスは声をかけます。「水を飲ませてください」。そこから二人の対話は始まります。イエスはそれをきっかけに彼女に本当に伝えたいことを語り始めます。
イエスは答えて言われた。「この水を飲む者は誰でもまた渇く。しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」(ヨハネによる福音書4:13,14)
この言葉を聞いた女性は、イエスが彼女の人生にとってとても重要なことを語ろうとしていると悟り、信仰について質問します。「サマリア人はこの山で礼拝すべきと言い、ユダヤ人はエルサレムだと言っています。」 本当に礼拝すべき場所はどこかという質問です。もしイエスがエルサレムだと答えれば、女性はやはりイエスも一人のユダヤ人にすぎないと結論して会話はそこで途切れてしまったでしょう。しかしイエスの答えは「この山でもエルサレムでもないところで礼拝する時が来る」という意外なものだったのです。そして、23,24節でこう付け加えたのです。
しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真実をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真実をもって礼拝しなければならない。」
女性は、これを聞いて、イエスが単なる預言者ではないことを察します。そして、キリストと呼ばれるメシアがやがてこられると言われていることをふと思い起こして口にすると、イエスは「あなたと話しているこの私がそれである」と告白されたのです。イエスが自身をメシアだと告白したのは十二使徒の他にはこの女性だけです。 永遠のいのちの水が涸れることなく湧き出る泉は、特定の山やエルサレムという場所なのではなく、霊と真実を持って捧げる礼拝なのだということです。
使徒パウロはローマの信徒への手紙12:1でこう説明しています。
こういうわけで、きょうだいたち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたの理に適った礼拝です。
なぜ私はいつも、礼拝を最優先にしましょうと言うのでしょうか、それはこのことがなければ私たちの魂は干上がってしまうからです。そして、礼拝とは日曜日に厳かに捧げる儀式でも、牧師の説教をありがたく拝聴する講義でもありません。霊と真実を持って捧げる礼拝とは、顔と顔を見合わすようにして、私たちが神様の前に立つことです。それは、いつでも、誰とでも、一人でも、1日にほんの少しの時間でもすべきことです。日曜日の礼拝の時間の中でそれが起こるのは、私たちが、すべてのことを脇に置いて、心を尽くして、思いを尽くして、力の限りに主に向かって歌うときです。
多くのクリスチャンは牧師の話が礼拝の中心だと思っています。だからただのお話とは言わず「説教」というのです。けれども私はそうは思いません。この後の歌うときこそ「礼拝の頂点」だと信じています。一番真剣になってほしいときです。お話ししている時に寝ていたって構いません。メッセージは後で読むことができます。しかしワーシップタイムの中で、神様に向かって何も求めず、語りかけられる言葉を何も受け取らないなら、勿体なさすぎます。
たとえば、私が数人の人々と、今でも時々歌うことのある More love More power という歌を本気で歌った時に何が起こるか知っていますか?それは、愛にも力にも欠ける数人が教会がを始め、そしてそれが30年以上続き、多くの人にイエスの愛を伝え続けることができる、ということが起こるのです。
だから今日もこの歌の詞にもあるように、心を尽くして、思いを尽くして、力の限りに主に向かって歌いましょう。
B. 教会という名の家族
もうひとつのことをお話ししましょう。教会には色々な機能があります。
聖書を学ぶ学校ともいえるでしょうし、魂を癒す病院ともいえます、宗教的行事を行う寺院、神の国の製品の素晴らしさを紹介するアンテナショップともいえるでしょう。しかし、それらは教会の最も大切な機能ではありません。最も大切なのは”家族”という機能です。なぜなら、愛に生きる、すなわちカヴェナントに生きるためのもう一つの力の源は、この教会と呼ばれる”家族”だからです。ヨハネによる福音書19:26,27を読みます。
イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「女よ、見なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」その時から、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。
この日、親しくはあったけれど他人であった、イエスの母マリアと弟子たちは家族とされたのです。実はもっと以前にも、イエスは、神様の意思を行う人は誰でも彼の家族だという考えを言い表していました。
イエスの母ときょうだいたちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。時に、群衆がイエスの周りに座っていた。「御覧なさい。お母様と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、イエスは、「私の母、私のきょうだいとは誰か」と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここに私の母、私のきょうだいがいる。神の御心を行う人は誰でも、私の兄弟、姉妹、また母なのだ。」 (マルコによる福音書 3:31-35)
これがイエスの、家族としての教会というコンセプトです。使徒パウロも、イエスの意思に従って教会を、信仰による”神の家族”と呼んでいます。
ですから、あなたがたは、もはやよそ者でも寄留者でもなく、聖なる者たちと同じ民であり、神の家族の一員です。あなたがたは使徒や預言者から成る土台の上に建てられています。その隅の親石がキリスト・イエスご自身であり、キリストにあって、この建物全体は組み合わされて拡張し、主の聖なる神殿となります。22 キリストにあって、あなたがたも共に建てられ、霊における神の住まいとなるのです。(エフェソの信徒への手紙 2:19-22)
この家族はキリストが基礎となり、さまざまな背景を持つ人々が組み合わされ建てあげられる家族で、それは神様の住まいでもあるというのです。
人は一人で生きてゆくことのできない存在です。それぞれの弱いところを補い合いながら皆が幸せに暮らせるように、私たちをさまざまなサイズの社会の中に置いてくださっています。私たちが置かれている様々なコミュニティ、大きくは地球、大陸、国、地方、町、そして家族です。
日本では、共に暮らしている家族の単位を世帯と呼びますが、今最も割合の多いのは二人でも、三人でもなく、一人世帯です。今は40%弱ですが、2050年には45%くらいになると予測されています。
また、一人ではなくても様々な理由から、守られるべき家族からの守りを得られない人も多くいます。
イエスは、地上で歩みを終えられるに当たって、母マリアをで弟子たちに委ねられました。私は、教会の第一の使命は、それを必要とする人のための家族であることだと思っています。もちろん、実際の家族が本当の家族ではないと言っているわけではありません。肉親も共に、教会という大きな家族の一員です。しかし、肉親がこの世に一人もいなくても、教会という家族があるのです。
健康な家族の特徴は、一人一人をその属性で判断しないところです。能力、肌の色、国籍、年、学歴、職業、地位、財産、性自認、性指向でさばくことがあってはなりません。実際の家族でもなかなかそうはいかないものですが、この家族は違います。私たちは皆、もはやよそ者でも寄留者でもなく、聖なる者たちと同じ民であり、神の家族の一員なのです。
この家族の一員であるという恵みが、私たちに大きな安心を与えてくれます。誰も認めてくれなくても神様とこの家族に認められている、愛されているという事実が、私たちを励まし、何度失敗しても愛し続けることを諦めずに生きられます。
神の家族の一員として、家族が親密であるに越したことはありませんが、みんなと等しく親しくなる必要はありません。兄弟姉妹が多くいれば、自然と気の合う合わないがあって、しょっちゅう行動を共にする人たちもいれば、なんとなくいつもひとりでいる人もいます。誰とでも話をするのが好きで、いつもリヴィングルームにいる人もいれば自分の部屋に篭りっきりの人もいます。それでも大丈夫なところが家族の良いところです。
人はどうしても違いを強く感じてしまいがちですが、イエスを愛し、イエスに従って歩んでいるという共通点は、あらゆる相違点を無意味にしてしまうことを忘れないでください。
(祈り)神様、私たちをあなたの家族にの一員に加えてくださったことをありがとうございます。
そして、この目に見える家族を与えてくださってありがとうございます。
そして、心からの礼拝を捧げる機会を与えてくださっていることをありがとうございます。
この家族の中で、礼拝の中で私たちの魂はいのちの水を得て、愛し続けることができます。
私たちが、カヴェナントを守り、私たちを通してあなたの香りが世界に広がりますように、私たちを用いてください。
イエスキリストの名前によって祈ります。
要約
私たちのうちに、ユアチャーチカヴェナントを実践できる愛はありません。それでもこの誓約をするのは、神様が私たちにただ成果を期待されているのではなく、その意思を持って生きることを期待されているからです。そして、私たちは少しずつでも愛において成長できる力の源を持っているからです。それは霊と真を持って捧げる礼拝であり、また教会という神の家族です。
話し合いのために
1) 教会どのような意味で家族だといえますか?
2) 礼拝の本質はどのようなものですか?
子どもたち(保護者)のために
エフェソ19-22を読んで、教会が大きな家族であること、自分たちもその一員であることを伝えてください。