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日曜礼拝・英語通訳付
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命の木に連なる葉
永原アンディ
また箴言のシリーズに戻りますが、今日の話は来週行われるハドル・ミーティングを意識したものでもあります。ハドルはユアチャーチカヴェナントに署名したメンバーのミーティングです。 ユアチャーチが神様の思いに従って歩むことができるようにいろいろなことを話し合い、祈るミーティングです。
今日の箴言は私たちが“教会”であることの意味と、教会が神様の思いに従って歩む指針となる価値観を教えてくれています。
今日は11章の中からいくつかの箴言に注目してお話するので、全く触れない部分も多いです。もし触れなかった部分で疑問や聞いてみたいことがあれば、ご遠慮なく牧師たちに聞いてみてください。
1. 求められる正しさとそれに応えられない私たち
11章も前回の10章と同様に「正しい人」と「悪き者」との対比が目につきますが、今日は、神様の目から見て、何が正しく、何が悪とされるのか確認してゆきたいと思います。
神様に喜ばれる生き方をしたいですか?神様を信じる人なら当然そう思うでしょう。不思議なことに聖書の神様を信じない人でも、ほとんどの人はこれからお話しする神様に喜ばれる生き方を人のあるべき姿だと考えます。このことは、神様がすべての人をご自身に似せて作られたことの証拠だと思います。私たちはこれを「良心」と呼びます。しかし同時に、私たちの「良心」はとてももろいことも事実です。はじめに注目していただきたいのは20節です。この箴言は、神様を喜ばせる生き方と悲しませる生き方を直接的に表現しています。
主は心の曲がった者をいとい誠実な道を歩む人を喜びとされる。
ここでは、正しい人とは誠実な人のことであり、悪い者は心の曲がった者です。そして神様が喜ぶ、正しい人の歩みとは誠実な歩みであることがわかります。
1節には、誠実さの具体例の一つを紹介しています。
主は人を欺く秤をいとい正確な量り石を喜ばれる。(1)
私がまだ小学生のころ、つまり昭和の中頃までは、デジタル計量器などはもちろんなくて、重さを測るのにさまざまなシーンで天秤やバネばかりが使われていました。バネばかりの歴史は300年にも満たないのですが、ここに出てくる天秤の歴史は古く、5000年以上前からエジプトや西アジアで使われていました。
商品とおもりを両端に載せて重さを測るしくみで、古代エジプトでもかなりの精度をもった秤が存在していたそうです。
しかしどれほど精密な秤でも、不正なおもり、ここで言われている「量り石」を用いれば人を欺くことができるわけで、実際にそのような不正が横行していたのです。今、うちにある体重計は100g単位で体重が測れるだけでなく、筋肉量や脂肪、しかもそれらがどの部分についたものかまで正確に教えてくれるのですが、それは絶対違うだろうなという数値もあるのでいまいち信用できません。 そこだけはマーケティング的な要請で正確さを犠牲にしているのだと思います。ちなみに、それによると、私の体年齢は40代だそうです。
どんなに技術が進歩しても、自分に都合のいい不正な情報を伝えて人を騙そうとする行為は無くなりません。そのような犯罪は自分には関係ないと思う人も多いかもしれません。確かに、偽の情報で人を欺きお金を騙し取ったりはしないでしょう。しかし、正しいことでも自分に不利になることなのであえて黙っていたとうことはあるのではないでしょうか。
また、私たちの自分を測るスケールと他人を測るスケールは異なります。私たちは自分には甘く、人には厳しいのです。このような傾向はどこから来るのでしょうか。それは聖書の言葉で言えば、誰もが例外なく持っている「罪」であり一般的な言葉で言うなら自己中心性です。今この瞬間にも、力を持つ者が自分のスケールで測った「正義」で聖戦を叫び、無実の人々の命を奪っています。
昨年、スーパーマーケットの棚からお米が一斉に姿を消したことがありました。日本の米の流通は他の農作物と異なり複雑で、多くの利害関係が絡み合っています。それぞれが自分たちの利益を第一に考え、消費者に適正な価格で安定的に供給することを軽視しているのです。26節になんと書いてあるでしょうか?
穀物を売り惜しむ者は人々に呪われこれを売る人の頭には祝福が与えられる。
とあります。このような行いは、法には触れなくても神様は嫌われます。それでは、次に紹介する箴言の共通点はどこにあると思いますか。
9 神を敬わない者の口は友を堕落させるが正しき者の知識は助け出す。
11 町は、正しい人の祝福によって栄え悪しき者の口によって崩れる。
12 浅はかな者は友を侮り英知ある人は沈黙を守る。
13 中傷して歩く者は秘密を漏らす真実な思いを持つ人は事を覆い隠す。
これらの共通点は、私たちの口がもたらす災いについて述べている点です。自分を弁護するために、自分の権利を主張するために、相手を論破するために、私たちの口は危険な武器となります。口から出る言葉が人を死に追いやることさえ起こります。またそれは11節にあるようにコミュニティーを破壊します。教会もまた例外ではありません。
11章では、他にも、謙遜であること(2)、惜しまず与えること(24)、慈しみ深いこと(17)を誠実の現れと見、反対に傲慢(2)、強欲(16)、残忍(17)を誠実の対極として神様が嫌われ、悲しまれる曲がった心の表れであることが記されています。
2. イエスとつながることによって
ここまで確かめてきた「誠実さ」についての神様の基準を考えるなら、私たちは、神様を喜ばせて生きることを諦めるしかないようにも思えますが、そんなことはありません。イエスは端的にこう言っています。
「誰も、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を疎んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」 (マタイ 6:24)
富に仕えるとは、神に仕えることを拒絶し自分を神として、つまり自己中心的に自分の欲望にしたかって生きることです。それでは、神様に対しても人に対しても誠実ではありえません。神様に喜ばれて、誠実に歩みたいと思っていても、いつの間には物質的に富むことを優先してしまいがちな私たちです。
けれども、イエスと離れず近くで生きることを意識し続けることによって、私たちは誠実さにおいて成長することができます。24,25,27節を読みます。
24 惜しまず与えても富の増す人があり物惜しみをしても乏しくなる者もある。
25 祝福する魂は肥え他者を潤す人は自分も潤う。
27 善を探し求める人は主が喜びとすることを尋ね悪を求める者には悪が訪れる。
惜しまず与え続ける、人々を祝福してやまない、善を追求し続ける歩みが、私たちの誠実を成長させてくれます。そのために必要なことは訓練や修行ではありません。必要なのは、イエスという木に繋がっていることです。それはキリストの体、つまり教会という木であるとも言えます。最後に三つの箴言を紹介しましょう。
14 民は、指導者がいなければ倒れ助言者が多ければ救いを得る。
これが私たちに教会が必要な理由です。そして教会の責任あるメンバーの一人となることが、富ではなく、この教会の主であるイエスを頼りとして生きることなのです。
28 富を頼みとする者は倒れるが正しき者は樹木の葉のように茂る。
30 正しき人の結ぶ実は命の木知恵ある人は人々の魂を捉える。
どうぞ、ことしもユアチャーチカヴェナントを誓い、神様の喜ぶ誠実な歩みを続けてください。イエスとその体である教会に繋がって豊かに実を実らせましょう。イエスは言われました。
私につながっていなさい。私もあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、私につながっていなければ、実を結ぶことができない。
(祈り)神様、あなたの体である教会の一つの現れてあるユアチャーチを私たちに用意してくださったことをありがとうございます。
あなたの目から見れば聖くも、正しくもない私たちを受け入れてくださり、家族の一員としてくださったことをありがとうございます。
あなたに繋がっていることによって、あなたに喜ばれて歩め、また豊かに実を結ぶことができます。
どうか私たちの心を導いて、利己心に支配されず、あなたを主として忠実に歩むことができるように導いてください。
イエス・キリストの名によって祈ります。
要約
神様の誠実さに比べたら、わたしたちのそれは比べようもなく心許ないものです。私たちには自己訓練や努力によって神様を満足させるレベルに到達することも不可能です。しかし、イエスとその体である教会に繋がっていることによって、神様に喜んでいただけ、人生において良い実を収穫することができます。
話し合いのために
1) 神様が私たちに求める誠実さとはどのようなものでしょうか?
2) なぜ私たちは教会のメンバーになるべきなのですか?
子どもたち(保護者)のために
初めに20節を読んで神様の喜ぶ人間の行動、反対に神様を悲しませる行動がどのようなものか考えさせましょう。子供でも大人でも、自分の力では神様の喜ばれるような歩みをすることができないことを知らせ、28,30節、ヨハネ15:4をよんで、イエスと教会に繋がっていることを励ましてください。