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日曜礼拝・英語通訳付
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対立と混乱の中で
(ヨハネ15:18-16:4)
吉野真理
今日は久しぶりにヨハネによる福音書のシリーズに戻りたいと思います。ヨハネ15:18-16:4です。この箇所は注意して読まないと誤解してしまう箇所だと思います。早速読んでいきましょう。いつものように少しずつ読んでいきます。まず、18-21節です。
A. 神様の働きを担う上で覚えておくべきこと
1. イエス様を憎んだ「世」は、イエス様が救いたいと願った「世」(18-21)
18 「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前に私を憎んだことを覚えておくがよい。19 もしあなたがたが世から出た者であるなら、世はあなたがたを自分のものとして愛するだろう。だが、あなたがたは世から出た者ではない。私があなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。20 『僕は主人にまさるものではない』と、私が言った言葉を思い出しなさい。人々が私を迫害したなら、あなたがたをも迫害するだろう。私の言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。 21 しかし人々は、私の名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる。私をお遣わしになった方を知らないからである。
読んだ通り、今日の箇所の大きなテーマは迫害です。でも、現代の日本でキリスト教徒に対する迫害はありませんし、他の国ご出身の皆さんも迫害を経験したことのある方はここにはいないと思います。私たちは、この箇所で語られているような憎しみや迫害の対象ではなく、迫害の危機が差し迫っているわけでもありません。ですから、この箇所をそのまま私たちの状況に当てはめて考えることはできないのですが、誤解してはいけないポイントがあると思います。それは、イエス様はこれらの言葉を通して、弟子たちに迫害から逃げなさいと言っているのではありませんし、迫害者を憎んだり見捨てたりして良いと言っているのでもないということです。イエス様は別の箇所でこう言われています。マタイによる福音書5:43-44です。
あなたがたも聞いている通り、「隣人を愛し、敵を憎め」と言われている。しかし、私は言っておく。敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。(マタイ5:43-44)
この教えの通り、イエス様は十字架の上でも、ご自分を苦しめる者たちの罪を赦してくださいと祈られました。今日の箇所で言われている通り、イエス様は「世」に憎まれ、拒まれましたが、その「世」こそ、イエス様が愛して救おうとされた「世」です。そのために、イエス様は十字架に架けられてご自分の命を献げられました。
「世」という言葉は少し曖昧ですが、「この世界」「人間の社会」という意味で捉えて良いと思います。それは、人間の罪に支配された世界です。人間の罪とは何かということは、続く箇所で考えたいと思いますが、その前に19節のイエス様の言葉に注目したいと思います。
あなたがたは世から出た者ではない。私があなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。
イエス様を信じる信仰は、私たちの生き方を180度転換させます。イエス様を信じるということは、それまでは自分を中心に自分の望むままに生きてきた生き方を、これからはイエス様を中心に自分の全てをイエス様に捧げていく生き方に変えるということです。それは、今日の箇所の表現で言うならば、「世」に属することをやめて、イエス様に属して生きるということす。人からの愛を求める生き方から、神様と人を愛することを優先する生き方に変わることとも言えます。そんなことは私たち自身の力では不可能で、イエス様が私たちを選び出してくださるから可能になることです。そして実際、そのような生き方はこの世界に生きる多くの人の価値観とは相入れないもので、理解されないこともあります。また、神様の愛を運ぶ器として、良い意味で他の人とは違わなければいけないとも言えます。
でも、この「違い」は、対立や分断を起こすためのものではなく、「敵を愛する」愛をこの世界で実現していくためのものです。それこそが、人に憎まれても拒まれても行くべき方向を見失わずに、神様の愛を伝え続ける生き方です。イエス様が私たちを選んでくださったのは、私たちがそのような者に生まれ変わるためです。イエス様を憎んで殺した世界が、イエス様の愛によって変えられるように、迫害の時代でも平和な時代でも、すべきことはずっと同じです。
22−25節に進みましょう。
2. 罪の自覚がない人の心を動かすことはできない(22-25)
22 私が来て話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない。23 私を憎む者は、私の父をも憎む。 24 誰も行ったことのない業を、私が彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、その業を見て、私と私の父を憎んでいる。 25 しかし、それは、『人々は理由もなく、私を憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである。
ここで「彼ら」と呼ばれているのは、イエス様のことを憎んで排除しようとした人々のことですが、彼らには具体的に2種類の人々がいました。まず、当時のユダヤ教指導者たちで、律法学者やファリサイ派と呼ばれた人たちです。彼らはイエス様の人気が高まって自分たちの地位や名誉がイエス様に奪われることを懸念して、イエス様に無実の罪を着せました。もう一つのグループは、イエス様がユダヤ人をローマ帝国の支配から解放する政治的リーダーになることを期待した群衆です。彼らは、イエス様が自分たちの期待には応えてくれないことが分かって失望し、イエス様を十字架につけろと怒りの声を上げました。この二つのグループの共通点は、両者とも自分たちの利益を優先していたことです。一方はそのためにイエス様を最初から排除し、他方は最初はイエス様を利用しようとしました。
イエス様は、「彼らは自分の罪について弁解の余地がない」と言われています。なぜなら、彼らは直接イエス様のことを見聞きして知っており、その上で拒んだからです。彼らは、自分の都合を優先することが当然と考え、それが間違いであるとイエス様に指摘されても、認めませんでした。その結果、イエス様の様々な奇跡のわざを見聞きしてもイエス様を信じず、むしろ憎しみに支配されてしまいました。
同じように、私たちが人に神様の愛を伝えようとしても、伝わらないことがあります。自分の間違いに直面できない人には、その人の言動が神様の愛に反していることを伝えようとしても、伝わりません。それは私たち自身も気をつけなければいけないことで、私たちも自分がもともと自己中心的な性質を持っていることに無自覚になれば、同じ過ちに陥ります。自分の罪を自覚していない人には、イエス様の十字架が意味を持たなくなってしまうのです。
それでは、次の2節は最後に読むことにして、16:1-4を先に読みます。ここを読むと、私たちの罪の性質がもっとはっきり分かります。
3. 自分の正義を神様の正義とする過ち(1-4)
16:1 これらのことを語ったのは、あなたがたをつまずかせないためである。 2 人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。 3 彼らがこういうことをするのは、父をも私をも知らないからである。 4 しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、私が彼らについて語ったのだということを、あなたがたに思い出させるためである。」
ここで注目していただきたいのは2節の言葉です。「あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。」これは実際に起こったことでした。たとえば、イエス様に出会う前のパウロは、熱狂的なユダヤ教徒として、イエス様を信じた人々を「男女を問わず縛り上げ、連行する」迫害者でした。(使徒言行録9:1-2)パウロを含め、当時の一部の原理主義的なユダヤ教徒たちにとって、自分を神様と等しい存在としたイエス様は神様への冒涜者であり、そのイエス様を信じる人々を殺すことは神様の意志に適うことでした。
神様を信じる者として、最も慎重にならなければいけないのは、自分の信じる正義は必ずしも神様の正義とは一致しないかもしれないということです。私たちは誰でも、特定の信仰を持っていてもいなくても、自分が正しいと信じていることがあります。でも、信仰があることによって、自分の正義が神様の正義だと思い込んで、一方的に誰かを断罪して、その過ちに気が付かないということが起こってしまいます。その過ちが、同じ神様を信じる者同士の間で起こると、私たちは混乱し、傷つきも大きくなります。イエス様がそのことをここで弟子たちに予告したのは、そのような内部の対立と混乱を私たちは残念ながら繰り返してしまうからです。
私たちは、自分の正義と神様の正義を常に分けて考え、自分の正義とは違う正義を持つ人に耳を傾ける姿勢を持たなければいけないと思います。
それでは、今日最後の部分です。これまでお話ししてきたことは、すべて、私たちが自分の力だけではできないことです。聖霊様の助けが必要です。26-27節に戻ります。
B. 私たちは聖霊様の助けによって神様の愛を証する(26-27)
26 私が父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方が私について証しをなさるであろう。 27 あなたがたも、初めから私と一緒にいたのだから、証しをするのである。
今日お話ししてきたように、神様の愛を証していく働きを担う上で必要なのは、憎しみや対立の中で何が神様の正義と愛なのかを見極めていくことです。そのためには、まず自分自身の正義を神様の正義と勘違いせずに、自分の正義とは違う正義を持つ人々と対話することも大切です。でも、その全てにおいて、私たちには聖霊様の助けが必要です。神様のことを教えることができるのは神様の霊、聖霊様だけです。私たちは、その時々の自分の感情や、自分の慣れ親しんだ文化、無意識の偏見によって、何が正しいのかを正しく判断することができないものです。私たちにできるのは、そのことを忘れないで、自分の判断に頼らず、聖霊様に頼ることです。聖霊様は、必ず私たちの思いを導いて、すぐにではないかもしれませんが、何が神様の望まれることなのか、何が神様の喜ばれることなのかを教えてくださるはずです。
今日最初に読んだように、イエス様は私たちを世から選び出してくださいました。それは、私たちにご自分の愛を世に伝える働きを委ねるためです。この世界はイエス様を殺した人間の罪が支配しているように見えて、時に絶望的な気分にもなりますが、イエス様が愛し救いたいと願われている世界でもあります。私たちは、自分の小ささを自覚しながらも、イエス様の愛が起こす奇跡に期待して、それぞれの場所でイエス様の愛する人々を愛し続けましょう。
(祈り)主イエス様、あなたが十字架で苦しまれたことによって、あなたは私たちにあなたと共に生きる新しい命を与えてくださいました。どうか、その愛の大きさを畏れながら、あなたが委ねてくださっているあなたの愛の働きを忠実にになっていくことができるようにしてください。あなたの霊を注いでください。私たちが間違える時には、教えてください。どちらに進むべきか、誰に何を言うべきなのか、言わないべきなのか、あなたに聞きますから、こたえてください。主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。
要約
イエス様が十字架でご自分の命を献げて証された神様の愛は、自分は神様を正しく理解していると思い上がっている限り理解できません。私たちは、内部対立や価値観が混乱する中でも、自分の力によらず聖霊様に頼ることによって、何が神様の愛と正義なのか見極めていかなければいけません。
話し合いのために
1) あなたの信仰のために誰かと対立したことはありますか?それはイエス様の愛に基づく対立でしたか?それともあなたのプライドや恐れによるものでしたか?
2) イエス様に対する「理由のない憎しみ」についてどう考えますか?
子どもたち(保護者)のために
子どもたちの間でケンカが起きた時、子どもたちはどうやって解決しているでしょうか?誰が正しくて誰が間違っているのか、どうやって判断しているでしょうか?仲の良い子の間違いに気がついたらどうするでしょうか?または仲の良い子に裏切られてしまったらどうするでしょうか?大切なのは、大人の判断に頼ることでも、誰かをひいきにすることでもなく、自分で考えて判断することです。その時にイエス様を頼って、イエス様なら何と言われるか、頑張って想像してみることです。