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日曜礼拝・英語通訳付
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愛が正義を規定する
箴言 12
永原アンディ
今日は箴言の12章に紹介されている箴言の中からいくつかの箴言に注目してお話ししようと思います。初めに二つの箴言を紹介します。
人間は悪によってしっかりと立つことはできない。正しき者の根は揺らぐことがない。(3)
正義の道筋には命がある。この道を踏む人に死はない。 (28)
この二つの箴言が今日の主題です。「正義」の名で行われている暴虐が世界中に満ちあふれているにもかかわらず、ここに私たちの希望があります。ここに書かれている正義は、もちろん、今、世界の暴君たちが自分勝手主張している正義ではなく、神様が求める正義です。ここには、世界に暴虐の嵐が吹き荒れていても、神様の正義に根を下ろしている者は耐えることができ、その道に歩み続けることによって命を保つことができるとあります。
それでは、神様の正義は彼らの正義とはどう違うのでしょうか。どうしたらそれを知ることができるでしょうか。
日曜日の礼拝で語られる説教者の言葉がそれなのでしょうか。伝統的に、日曜日の朝の礼拝で語られるお話は「説教」と呼ばれてきました。神学校では「説教学」という科目があり、多くの基礎的な聖書や教義の学びの後に総まとめとして学ぶ科目です。キリスト教では「神の言の説教」とも言われ、非常に大切にされていますが、それが強調されるあまりに弊害も生まれます。
例えば、「神の言」の権威と、「神の言」を講壇から語る牧師の権威が混同され、あたかも牧師が神様と信じる一人一人の仲介者のようになってしまいます。すると、牧師の言葉=神の言のような錯覚に陥り、牧師に逆らうのは神様に逆らうことだと言い出す者が現れます。また、その説教者の正義が神様の正義として語られたりします。
牧師になったばかりの頃、ある先輩牧師に、説教では「・・・と思う」と言ってはいけない、神様の言葉らしく断定的に語りなさいと言われたことがありました。しかし牧師は神様ではないし、神様の口でもありません。
というわけで、私がお話しすることは、イエスの意見ではありません。イエスの意思だと私が信じていることをお話ししているのです。ですから、私が皆さんに期待することは、私に同意することではなく、皆さん一人一人が、自分にイエスはどう語りかけているかを聞こうとすることなのです。
また、皆さんが知るべきことは、「誰の意見が神様の意見に一番近いか」でもありません。そうではなく「イエスは私にどう語りかけているのか」をSNSではなく、聖書を読んで考えてみていただきたいということです。神様の求める正義を知ろうとするためにも、このことは欠かせません。
皆さんもよくご存知だと思いますが、SNSやネットニュースの特性は、自分に耳触りの良いものが表示されやすいのです。耳にする多数の声は正しく聞こえてしまいがちです。このあたかも狭い空間で音が反響するように氾濫する、誤った情報や偏った意見を正しいと思い込む危険性をエコーチェンバーと呼びます。それはインターネットやSNSがなくても起こってきました。例えば、罪のないイエスを重罪人として十字架につけろという叫び、熱狂的に歓迎されたナチス政権の誕生、日本が無謀な戦争に突き進んだこと、どれも社会全体がエコーチェンバーの響きの中で、滅亡に向かって歯止めの効かない暴走が始まりました。
それらの結果はどうだったでしょうか。ナチスも日本も崩壊し、一方で正義の名の下に罪人として処刑されたイエスは復活され、今では多くの人の心に王として生きて働いておられます。これらのことを7節の箴言が妥当であることを証明しています。
悪しき者は覆されて、いなくなる。正しき者の家は立ち続ける。
イエスがこの世界に来られる以前の旧約聖書に神様の正義を人々に伝えたのは「預言者」と呼ばれる人々です。神様が立てられた預言者は、時の権力者の不正義をはっきりと批判して、迫害され、命を奪われました。イエス以前の最後の預言者であったバプテスマのヨハネも王に殺されています。
そして、神様の正義を示すのが預言者であるなら、イエスは究極の預言者とも言えます。実際、イエスの生涯は預言者的に、間違った正義を人々に押し付けている、権力者、政治家、宗教家を厳しく批判しました。イエスの正義は独善的でも、人を傷つけるものでもありませんでした。身分や人種によって分け隔てされず、むしろ弱い立場に立たされた人々の側に積極的に身を置かれました。
しかしそれは、単なる感情的な同情心からくるものではなく、神様の意思を誰よりも熱心に聞くことによって可能だったのです。イエスはこのように言っています。
私は自分からは何もできない。聞くままに、裁く。そして私の裁きは正しい。それは、私が自分の意志ではなく、私をお遣わしになった方の御心を求めているからである。」 (ヨハネによる福音書 5:30)
このイエスの言葉は、私たちにも神様の御心を、聖書の言葉を通して、誰かの言葉や、行いを通して知ろうとすることの大切さを教えてくれます。牧師の「説教」の言葉だけではありません。神様は私たちが注意深く聞こうとするなら、子供を通しても、異なる信仰を持つ人々を通しても、無神論者や不可知論者を通してさえ、語りかけてくださいます。
諭しを愛する人は知識を愛する。懲らしめを憎む者は愚かしい。(1)
無知な者の目には自分の道がまっすぐに映る。知恵ある人は忠告に聞き従う。(15)
正しき者は友に尋ねて道を探す。悪しき者の道は人を惑わす。 (26)
誰かを通して神様の意思を聞こうとしないなら、それは自分の好みや判断で正義を決めることになります。イエスは、ご自身が「御心を聞いて行う」者であることを伝えただけでなく、私たちにも「御心を聞いて行う」者となりなさいと命じています。
天におられる私の父の御心を行う人は誰でも、私の兄弟、姉妹、また母なのだ。」(マタイによる福音書 12:50)
それはイエスがそうであるように、私たちにも、この世において預言者の役割が与えられている、語るべき言葉があるということです。今日のテキストにも語る言葉の力を教える箴言が多く紹介されています。
真実を語る人は正義を現す。偽りの証人は欺く。(17)
あたかも剣で刺すかのように軽率に語る者がいる。知恵ある人の舌は癒やしを与える。(18)
悪を耕す者の心には欺きがある。平和のための助言には喜びがある。(20)
良い言葉は人を立て、悪い言葉は人を倒します。
私たち・教会が良い言葉で弱っている者を強め、虐げられている者を助け、絶望している者に希望を与えるのです。
また同時に、私たちは人を支配しようとする者、不当に差別する者、搾取する者を諌める預言者であることをイエスご自身の言葉から確認したいと思います。
「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられようか。もはや、塩としての力を失い、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。
あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。
また、灯をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家にあるすべてのものを照らすのである。 (マタイによる福音書 5:13-15)
さて、お話の題にもかかわらず、今日は「愛」という言葉を一度も使わずにここまでお話ししてきたことにお気付きでしょうか。神の愛を語らないなら確かに「説教」ではありませんね。しかし神様にとって「愛」と「正義」は別々のことではありません。皆さんはイエスの教えの核心が「愛」であることをよくご存知だと思います。
イエスは言われた。「『心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の戒めである。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つの戒めに、律法全体と預言者とが、かかっているのだ。」(Matt 22:37-40)
最後の40節に、この愛に律法と預言者がかかっているとあります。それは愛することに矛盾することは正義ではあり得ないということです。
さて隣人とは誰でしょう。イエス以前には隣人とはユダヤ民族同胞のことでした。つまり異邦人やサマリア人、ユダヤ人でも律法の守れない羊飼い、収税人、汚れている、罪人とされていた人々は愛する必要のない人々だったのです。しかしイエスはこの隣人の意味を全ての人に広げたのです。
「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と言われている。 しかし、私は言っておく。敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。 (マタイによる福音書 5:43, 44)
全ては全てです。愛する必要のない人、隣人ではない人は存在しません。しかし悲しいことに、イエスを主と呼ぶ人の中にも、いまだに人種、性別、性指向性、性自認などを理由に差別する人々が相当数いるのです。聖書にそう書いてあるからと彼らは主張しますが、それはとても表面的な間違った読み方です。
聖書は文脈や時代的、文化的背景を無視して表面的に読めば矛盾だらけの書物です。そのような読み方をすれば、どんなことにも賛成できるし、どんなことにも反対できます。
イエスはどのような人を友と呼ぶのでしょうか?その基準は毎週教会に通うかどうかでも、クリスチャンかどうかでも、プロライフかプロチョイスかでも、同性愛者か異性愛者かでも、トランスジェンダーかシスジェンダーかでもありません。
飢えている人に食べ物を与える人、病を癒す者、見知らぬ旅人を歓迎する人、牢に囚われている人を訪問する人です。イエスは、それらのことを自分にしたことでもあるのだとさえ言われました。それが私たちに期待されている、隣人を愛することであり、なすべき正義です。
(祈り)神様、私たちを愛し、導いていてくださることをありがとうございます。
私たちに戒めを与え、道を逸れる時に警告してくださることをありがとうございます。
私たちがどのような時にも、自分の正義ではなくあなたの正義を知り、それに基づいて行動することができるように助けてください。
この社会があなたの正義に向かって、少しづつでも前進させるために私たちを用いてください。
イエスキリストの名によって祈ります。
要約
神様が私たちに求める正義は、イエスが実践された愛に基づく正義です。イエスの名を借りた正義ではありません。旧約聖書の時代、世の中に不正義がはびこり人々を苦しめたとき、神様は預言者を立てて正義を求めました。イエスが地上におられた時には、イエスご自身が正義を体現されました。今、預言者の働きはキリストの体である教会に託されています。
話し合いのために
1) 神様の求める正義を知るためにできることは?
2) 神様の正義が実現するためにできることは?
子どもたち(保護者)のために
初めに、3節と28節をを読みましょう。子供たちの日常生活の中での正義・不正義の実例を考えさせてください。そのあとマタイによる福音書25章31節以下から、イエスの教える正義を伝えてください。