2016/11/6 神様の計画と悪魔の力

池田真理
(ルカ22:1-6, エフェソ6:10-18 )

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神様の計画と悪魔の力

聖書を読んだことがなくても、ユダという人物の名前を聞いたことがある人は多いと思います。イエス・キリストの弟子でありながら、イエスを裏切った人です。今日読む聖書の箇所は、そのユダの裏切りが始まった場面です。

A.「ユダにサタンが入った」?  (ルカ 22:1-6)

1 さて、過越祭と言われている除酵祭が近づいていた。2 祭司長たちや律法学者たちは、イエスを殺すにはどうしたらよいかと考えていた。彼らは民衆を恐れ神様の計画と悪魔の力いたのである。3 しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。4 ユダは祭司長たちや神殿守衛長たちのもとに行き、どのようにしてイエスを引き渡そうかと相談をもちかけた。5 彼らは喜び、ユダに金を与えることに決めた。6 ユダは承諾して、群衆のいないときにイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。

ユダはこのあと実際に、イエス様の逮捕に加担します。そして、イエス様は死刑の宣告を受けて、十字架に架けられることになります。なぜユダが裏切ったのか、その理由がここでは「ユダにサタンが入った」と言われています。日本語でサタンというのは聞きなれないかもしれませんが、悪魔のことです。悪魔は英語ではデビルとも言われますが、サタンもデビルも元となっている原語が違うだけで、意味に違いはありません。ですから、これは「ユダに悪魔が入った」ということです。これだけ聞くと、ユダが悪魔に取り憑かれて、ユダは悪くないのに悪い考えを持たされた、というように聞こえます。でも、これからお話ししていくように、その解釈は間違っています。ユダに悪魔の力が働いたことは事実でも、それはユダにも責任があることです。そして、このことは私たちすべてにも言えます。私たちも、自分で自分に悪魔の力を招き入れることがあるということです。どういうことか、ユダと神様の関係、ユダと悪魔の関係を追って、考えていきたいと思います。

1. ユダと神様

まず、ユダは自分の意志でイエス様を裏切ったのかどうかというと、確かにそうだと言えます。ユダにはイエス様を裏切ることも、信じ続けることもできました。これは創世記で神様が人間をどのように造られたかにさかのぼります。神様は私たち人間を、神様の設計通りに全自動で動くロボットのようには造りませんでした。私たちが神様に従うことも従わないことも自分で決めることができるのは、神様が私たちを自分の意志を持つ存在として造られたからです。なぜそのように造られたのかの理由はただ一つ、神様が私たち一人一人と愛し合う関係を持ちたいと望まれたからです。愛すること、信じることというのは、誰かに強制された時点で本物ではなくなります。愛さなくてもいいのに愛すると決めること、信じなくてもいいのに信じると決めること、そこに本当の愛と信頼があります。それは同時に神様の側ではリスクも伴います。神様は私たちと愛し合いたいと願っていても、私たちは神様の愛を拒否することができるからです。そして実際、創世記にあるように、アダムとイブは神様に背を向けて、神様に逆らいました。それが私たち人間の罪です。神様を離れて、自分の好きなように生きようとする性質です。この罪の性質を、私たちもユダも同じように持っていました。

だから、ユダの裏切りというのは、神様の懸念が現実になったという意味で、神様の想定内のことと言えます。でも、神様が予定していたわけでもありません。ユダについて、この後イエス様はこう言われます。(ルカ22:21-22)

私を裏切る者が、私と一緒に手を食卓に置いている。人の子は、定められた通り去っていく。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。

イエス様が人々に捕らえられて殺されるという計画は、ユダの存在に関係なく、実行されることになっていました。それがイエス様が生まれた理由であり、最初から定められていた神様の計画です。ユダが裏切ろうと裏切らなかろうと、それは起こらなければいけないことでした。だから、ユダの裏切りというのは、神様の計画の中で決定的な出来事ではありません。でも、イエス様にとって悲しみをさらに増やす出来事だったことには違いありません。マタイやマルコの福音書では、イエス様はユダについて「生まれなかった方がその者のために良かった。It would be better for him if he had not been born.」(マタイ26:24、マルコ14:21)とも言われています。これは、ユダがこの後激しく後悔して自殺してしまうという悲劇を予想して、ユダのために嘆いている言葉だと思います。

少し長くなってしまいましたが、ここで最初に確認しておきたかったことは、ユダは自分の意志でイエス様を殺す計画に加わったということです。それは私たちもユダも持っている罪の性質によるものです。それでは、なぜ聖書は「悪魔がユダに入った」という言い方をするかというと、悪魔の力がユダに働いたことも事実だからです。それは、ユダがそれを許したということです。このことを次に考えてみましょう。

2. ユダとサタン 

ユダという人物について、聖書にはあまり多くのことは記録されていません。「イスカリオテのユダ」というのは、ユダの出身地に関係がある呼び方のようですが、彼の人物像について特別な意味を持っている呼び方ではありません。また、イエス様が選んだ十二弟子の一人である彼がなぜイエス様を裏切ることになったのか、論理的な説明は聖書にはありません。ただ、イエス様と最初に出会ってから共に旅を続ける中で、彼の中で何かが変化していったことは確かです。ユダも最初はイエス様の教えや奇跡に感動してついていったはずです。でも、彼のイエス様に対する思いは、どういうわけか冷めていってしまいました。そして、イエス様に従うよりも、自分の身を守ること、自分の好きなように生きることを優先しました。そこに悪魔が入り込む隙ができました。  この危険は私たちにもある危険です。私たちはみんな、自覚的かどうかにかかわらず、何かを信じて、何かを中心にして生きています。特に信仰を持っていなくても、日々物事を判断し、決断していく上で基準にしているものがあります。それは自分自身だったり、偉大な人物だったり、特定の思想かもしれません。聖書は、私たちのそういう価値基準が神様以外のものになっている場合は全て、悪魔を近づける危険性があると教えています。自分の頼っているもの、自分の中心にあるものが、本当に頼れるものなのか、自分の一生を任せるのに価するものなのか、そんなの気にしないで大丈夫、というのは危険です。私たちは本来、神様なしには誰も生きることも、希望を保つこともできません。私たちがそのことを忘れたり、分からなくなったりすれば、悪魔を喜ばせるだけです。そして、最終的に私たちがユダと同じように後悔と絶望のうちに滅びることが悪魔の目的です。私たちが希望を失ったり、神様を疑ったりする時、悪魔はこう言います。「誰もお前のことなんて気にかけてない。神様はお前の願いなんて聞いてない。」そして時にはこうも言います。「神様に従っても何の得にもならない。自分勝手に生きた方がずっと楽だろう。」ユダも、こういう声に耳を傾けていたのだと思います。これがすぐに悪魔の声だと分かるならいいのですが、なかなか聞き分けられないのが私たちの現実です。私たちは神様から離れようとする罪の性質を持っているからです。

では、私たちは自分の罪と悪魔を恐れて、びくびく生きていかなければいけないのかというと、そうではありません。それは、神様と悪魔の戦いにはすでに決着がついているからです。

3. 神様とサタン

今日最初の方で、創世記で神様は人間をどういうふうに造ったかという話をしました。でもそこで触れていなかった問題があります。それは、アダムとイブを罪に誘った蛇の存在です。この蛇は悪魔の使いです。ですから、神様は最初から悪魔が人間に力をふるうことを許したと言えます。そして、その頂点はイエス様の十字架です。イエス様が抵抗することもなく、十字架で苦しみ死なれた時、神様は全く弱く無力でした。それは、神様が悪魔の力が働くことを許した結果、悪魔が神様にまで勝利してしまったかのようでした。でも、そうではなかったことを、私たちは知っています。真実は、神様は私たちを罪から救い、悪魔の力から解放するために、あえて無力になったということです。神様は全能の方、不可能なことはない方だというのは、自分の力をコントロールできるということも含むはずです。神様は、私たちのために、自分の力を抑えたということです。そして、イエス様は私たちの身代わりになって罪の罰を受けました。でも、イエス様は死なれたままではおられず、復活されました。それによって私たちの罪は赦され、神様の悪魔に対する勝利は確定しました。だから、罪の力も悪魔の力も、神様にはすでに負かされています。もう私たちが恐れる必要はなくなりました。にもかかわらず、私たちの戦いは続いています。それは、すでに勝利が確定している戦いですが、敵の残党との戦いが散発的に起こっているようなものです。最後にこのことについて、エフェソ6章からお話しします。

B. 私たちの戦い (エフェソ6:10-18)

10 最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。11 悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。12 わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。13 だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。14 立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、15 平和の福音を告げる準備を履物としなさい。16 なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。17 また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。18 どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。。

ここにははっきりと、私たちの戦う相手が誰か言われています。それは人間ではなく悪魔です。悪魔はうまく自分の存在を見せないままで、私たちを滅ぼそうと様々な策略で攻撃してきます。でも、私たちにはこの悪魔の攻撃に対抗して立つための完全装備が神様によって与えられています。それは何よりもまず、神様を信じて、神様に頼ることです。今日お話ししてきたように、悪魔の最終目的は、私たちを神様から引き離すことです。だから、私たちが神様から離れないように気をつけていれば、悪魔に近づく隙を与えることはありません。逆に、私たちがユダのように神様から目を離せば、私たちのうちにある罪の性質が悪魔を招き入れることになります。神様が私たちに与えてくださっている装備は、私たちを守るものが多いですが、一つだけ武器になるものがあります。「霊の剣、すなわち神の言葉」です。神の言葉とは聖書のことでもありますが、それ以上に、イエス様ご自身、そして十字架で示された神様の愛そのものです。イエス様が私たちの罪を赦し、罪深い私たちをこのままで受け入れてくださったことを知るなら、私たちは神様の愛に生きることができます。神様に愛されていることを喜び、神様を愛して生きる新しい生き方です。そうやって生きている人に、悪魔は手出しできません。私たちが神様から離れて絶望することが悪魔の喜ぶことですが、反対に私たちが神様と共にいて、どんな時でも希望を失わず喜んでいることが悪魔の一番嫌がることです。だから、悪魔に対抗するために必要なのは、悪魔のことを知ることではなく、神様のことを知ることです。神様がどんなに私たちを愛してくださっているか、何を悲しんでおられるのか、イエス様の十字架の愛に照らし合わせて、いつも確かめましょう。そして、どんな時でも希望を失わず、神様は良い方であると信じられるように、祈り続けましょう。それは簡単なことではなく、忍耐力のいる戦いですが、神様の勝利はもう決まっているので、恐れるものはなにもありません。

メッセージのポイント

イエス様を裏切ったユダの罪は、私たちすべてが持っている罪の性質から来ています。神様から離れて自分勝手に生きようとする性質です。悪魔(サタン)はこの私たちの罪を喜び、私たちが神様から離れて滅びるように誘います。でも、イエス様の十字架によって、神様は悪魔に勝利して、私たちが悪魔に支配されないようにしてくださいました。だから私たちは、悪魔の力を恐れることなく、イエス様を信じて戦い続けます。

話し合いのために

1) 悪魔が悪くて、ユダに罪はないのでしょうか?

2) 私たちが悪魔と戦う武器は何ですか?

子供達のために

ユダは裏切り者として悪名高いですが、私たちとユダは根本的には同じだと教えてください。私たちは誰でも、神様を疑って、神様から離れることがあります。神様はそのことを悲しみますが、怒ることはありません。喜ぶのは悪魔です。でも悪魔がどんなものか、あまり知る必要はありません。それよりも、神様は何を喜ばれるのか、何を悲しまれるのか、そのことに心を集中しましょう。そうすれば、悪魔は近づいてきませんし、気にする必要もありません。