ウェイン・ジャンセン
(コリントの信徒への手紙24:1-10, 創世記 2:7)
ビデオとオーディオ:今週は技術的問題で視聴いただくことができません。申し訳ありませんが以下のテキストをお読みください。メッセージの原文(英語)はこちらでご覧になれます。
壊れやすい器にいれた宝
1 こういうわけで、わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。
2 かえって、卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます。
3 わたしたちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです。
4 この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです
5 わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。
6 「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。
7 ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。
8 わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、
9 虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。
10 わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。
創世記2章 7 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。
私たち人間は、自分たちのことを無敵の存在だと思うようになりました。他の動物たちと比べて、自分たちには知性があり、この世界の中で他の生き物を支配する種族だと誇っています。事実、神様は私たちをこの地球をリードしていく種族として造られました。創世記1:26で神様はこう言われています。
「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
私たちには、誇るべきものがたくさんあります。神様は私たちをご自分に似せて造られ、地球の全てを支配できるように造られました。でも、リーダーシップには責任が伴います。私たちは神様のルールに従い、理想の世界を守るように求められていました。でも、私たちは神様の心に逆らうことを選びました。それは、イブが意図的に神様に逆らい、神様のようになれるという誘いに耳を貸した出来事に象徴されています。このために、人間は不死ではなくなり、神様の命の息を受けたにもかかわらず、他の全ての動物と同じように、やがて死んで土に返ることになりました。
パウロは、コリントの人々への第二の手紙で、私たちを土の器にたとえています。神様は陶器職人で、私たちは工場で生産された器ではなく、神様によって一人一人違うように造られました。私たちはみんな特別な人間として造られ、それぞれ違った賜物を持ち、多くの違いを持っています。パウロが宝物と呼んでいるのは福音のことです。ビリー・グラハムという有名な牧師が「福音はただ一つだ」と言ったことがありましたが、その福音というのはヨハネ3:16に要約されています。
16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
私たちみんな、これが福音だと知っています。でもそれをどのように理解するか、どのように他の人に伝えるかは、私たちの間でいつも同じではありません。なぜなら、やはり、私たちはみんなそれぞれ違う人間だからです。
日常生活を考えてみれば、私たちは色々な器を使っていることに気がつきます。箱、缶、ビン、袋。みんな違う容器で、全て別々の特徴を持ち、何を中に入れられるかは限られています。二つ比べてみるとしたら、まずペットボトルはどうでしょうか。ペットボトルは耐久性の高いプラスチックでできていて、密封できるキャップがついています。これは液体を入れるには最適の入れ物です。漏れる心配がありません。では一方、バスケットはどうでしょうか。バスケットは果物を入れるには最高の入れ物です。通気性があり、果物にカビが生えたり腐ってしまうのを遅らせることができます。このように、それぞれの容器はそれぞれが造られた目的に適っていれば良い働きをします。でも、目的に沿わないものには使えません。密封されたプラスチックボトルの中に果物を入れれば腐ってしまいますし、バスケットに液体を注いだところで、たちまち流れ出てしまいます。違う種類の容器は別々の性格と目的を持っているのと同じように、私たちもそれぞれ、神様に用いられるために別々の性格と目的を持っています。
一つ言えることは、神様は世界に良い知らせを伝えるために私たちを器として選んでくださったということを、私たちはとても誇りにしていいのだということです。でも一方で、私たちはとても弱く、傷ついた人間だと知っているので、謙虚にさせられます。神様が私たちの中に与えてくださった宝物にふさわしくないと感じることもあります。
ですから、私たちは神様のために生きる中で、健康なレベルのプライドと謙虚さを持つ必要があります。そして、悪魔の力が私たちのプライドを傲慢に変えないように注意し、私たちの謙虚さが絶望になることがないように、いつも気を付けていなければいけません。正しいレベルのプライドと謙虚さを持つために必要なのは、神様の子供として自分がどこに立っているのかを理解することです。それは、神様の目に良い霊的な生活を送ることができるように、私たちが努力し、毎日向き合っている挑戦です。
私が初めて、神様は私たちを一人ひとり、土の塵から作られたという真理を知ったとき、あまりいい気持ちはしませんでした。自分が泥の塊だなんていう考えが好きになれませんでした。また、「塵にすぎないお前は塵に返る」(創3:19)という言葉を読んで、屈辱的に思いました。私の周りにいる人が全て、みんなただの塵なのでしょうか?私たちがこの部屋でお互いを見ても、みんな塵にすぎないのでしょうか?それは物事の一面に過ぎません。肉体的には、その通り、私たちは単なる塵に過ぎません。私たちは自分がこの地球上に肉体的に生きている時間が限られていることを知っています。でも、生きているということは、単に心臓が鼓動を続けることではなく、脳が脳波を出し続けることだけでもありません。科学的な見方では、こういうことは私たちが生きているかどうかを決定するのに参考にする基準ではあります。でも、神様の見方では、生きているということは、創世記2:7で言われている、神様の息が私たちの中にあるということです。神様は「その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」今こうして私たちが生きているとみなされるのは、神様の霊が私たちの中で働いているからです。単に、私たちの体に血が通い、体温が37度に保たれているからではありません。
それから、塵から作られているということは、悪いことばかりではありません。なぜなら、塵は粘土になり、粘土は多くのものに形を変えることができるからです。これが、神様が私たちにしていることです。神様は私たちを素晴らしいものに造って下さっています。確かに私たちは塵にすぎず、私たちが死んだ時には、私たちの体は土に返ることになります。でも、神様の霊が私たちの中で働いているので、私たちは世界に神様の愛を伝えるための美しい担い手になることができます。
私たちは自分が罪人であって、不完全な者であると知っています。私たちは偉大な陶器職人に造られた土の器ですが、割れ目がたくさんあって、簡単に壊れてしまいます。なぜ神様は、福音という大切な宝を世界に伝える手段として、こんな私たちを選んだのでしょうか?その役割には、もっと完璧な者を選んだ方が良かったのではないでしょうか?
それでは、自分がどういうふうにキリストと出会ったか、初めて教会に行ったのはどのようにしてだったかを考えてみてください。大抵の場合、それはカリスマ的な派手な牧師があなたを教会に導いたということではないと思います。そういう場合もありますが。普通は、私たちは誰か他の人を通して教会に導かれます。また、クリスチャンの作家による本や聖書そのものを読んで教会に導かれたという人もいます。そして、もちろん、クリスチャンの両親に育てられて、自然と信仰を持つ人もいます。でも、多くの場合、教会に導かれるのは友達や知り合いを通してです。友達を教会に導く理由は、そこで自分が経験している信じる人たちの集まりに意味があり、本当の救いがそこにあることを経験して、それを知ってもらいたいと思うからです。その人たち自身、完璧な人間ではなく、彼ら自身も良く生きるために日々闘っているのであり、赦しと平和を求めていることに変わりありません。私たちは、誰かの器に割れ目があって、それにもかかわらず、その人がイエス様だけが与えることのできる平和と喜びを受け取っていると分かるとき、私たち自身も、自分に割れ目があっても、自分が望みさえすれば、同じようにこの贈り物を受け取ることができるのだと思えます。
私たちはクリスチャンとして神学を学びますが、学問的な勉強は霊的な生活よりも重要ではありません。神学は、私たちが霊的な存在であることを理解する助けになりますが、霊的な生活は神様の命の息によって与えられているものです。これが、アダムが命を持った方法です。神様の息、霊が私たちの中に生きているからこそ、私たちには命があります。霊が私たちの中にあるからこそ、私たちは神様の真理を人々に伝えることができます。
私は最近、アメリカ先住民について勉強しています。彼らはヨーロッパ人が北アメリカにやってくるまで、イエスが誰なのか知りませんでした。ヨーロッパ人は、このイエスを先住民たちに教えるのが自分たちの使命だと考え、それによって世界はより良い場所になると思っていました。実際、彼らには先住民たちと分け合うことのできる多くの素晴らしいものがありました。でも、そのやり方は神様の心に適うようにすべきでした。ヨーロッパ人は、先住民に福音という宝物をもたらすにあたって、自分たちは不完全な土の器であるということを覚えているべきでした。でも、多くの場合、彼らは自分たちが宗教の専門家だと自負し、先住民たちを自分たちのロジックに従ってできるだけ早くに改宗させなければいけないと考えました。ヨーロッパ人の方こそ、先住民たちから多くを学べたはずでしたが、彼らは耳を貸しませんでした。これが、彼らと先住民たちの間の信頼関係、親密な関係を阻みました。
私たちは、陶器職人によって土の塵から造られた土の器です。私たちの周りにいる人もみんな同じです。このことを知るなら、私たちはプライドを捨て、自分の周りにいる人たちの器を見て、空になっている器には少しだけ中身を注ぐことができます。同じように、私たちの近くにいる人たちの器に私たちを豊かにするものがあるなら、私たちがプライドを捨てれば、その人たちの働きから恵みを受け取ることができます。
私たちはこの地球で取るに足らない種族ではありません。神様は私たちを神様に似せて造られました。私たちは神様と対等ではありませんが、神様は私たちが神様の子供とみなされる権利を与えてくださいました。ヨハネの手紙第一3:1はこう言っています。
御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。
土から造られた私たちは、神様の霊を与えられて、世界中の人々を救うことのできる福音を自分のうちに持っています。私たちが神の子だと言うとき、それは傲慢さから言っているのではありません。そうではなく、私たちの罪の性質にもかかわらず、イエス様を知った私たちを神様がご自分の子供とみなしてくださっていることへの、謙虚な喜びです。
土の器は壊れやすく、壊れたときには役立たずに思えます。でも、私たちは壊れた破片を貼り合わせて、もう一度使えるようにすることができます。新品だったときと比べれば見た目は悪いかもしれませんが。それが私たちの姿です。私たちは、ヒビが入ったり、ときには壊れてしまう器です。でも、神様は私たちを元に戻すことができ、神様の福音という宝を他の人々に届けられるように、強くしてくださいます。修復された土器と全く同じで、傷跡は残ります。私たちが人生で経験してきた困難や、戦わなければいけなかった苦しみや霊的な戦いは、私たちの器にヒビや割れた欠片として残ることになります。でも、そういう傷跡にもかかわらず、私たちが自分自身の理解によるのではなく、神様の霊に信頼を置くなら、神様は私たちを壊れてしまった前よりももっと霊的に強くすることができます。私たちが自分の傷を抱えながらも愛と平和の福音を喜び、心の中にそれを持っていることを他の人たちが見るとき、彼らも私たちの歩む道に加わりたいと思うはずです。そして、神様の宝に満たされて、次はその人たちが別の人たちにそれを分けることができるようになります。
今日は、このことを心に留めましょう。私たちは肉体的には土からできています。でも、神様はその土を手にとって粘土にし、この部屋にいる一人ひとりを唯一のものとして形づくりました。神様は私たちを自分に似せて造られたので、私たちはこの世界で神様の子供として神様に似ている存在です。神様の子供として、私たちは真理と平和と喜びの福音を他の人たちに伝えるために与えられています。私たちは「土の器の衣装」を着て(土の器として)、神様の素晴らしい宝を他の人たちに届けることができます。最後に、私たちはこの世界では死すべき存在で、肉体的にはいつか必ずここを去るときが来ますが、私たちはイエス・キリストを通して永遠の命を受け取っており、霊的には永遠に生き続けます。
メッセージのポイント
私たちは傷つきやすい人間です。使徒パウロは、私たちは神様から与えられた最上の宝をおさめる粘土の器のようなものだと言っています。私たちは皆、多くの点で傷つき、欠けを持っており、元通りにされなければいけないこともあります。自分が不完全であることを知っているので、時には自分が神様の言葉を伝えるに値しないと感じます。でも、神様は私たちを愛して、ご自分の子どもとして呼び出して下さり、福音を世界に届けるために私たちを選ばれています。私たちの体は塵から造られ、最終的にはこの世界を去ることになります。でも、私たちはイエス・キリストを通して永遠の命が与えられており、永遠に神様と共に生きるのです。