イエス様を愛することは、他人のために自分の命を捧げること

池田真理

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イエス様を愛することは、他人のために自分の命を捧げること (フィリピの信徒への手紙 2:19-30)

 今日読む箇所は、パウロの手紙には珍しく手紙らしい箇所です。神学的な議論ではなくて、共通の友人たちのことについて書かれています。私たちはどうしても聖書の中でも有名なパウロやペテロなどの人物に注目してしまいますが、今日の箇所を読んでいくと、パウロの働きには多くの友人たちの存在が欠かせなかったことが分かります。そして、イエス様を信じて、イエス様を愛して生きるということは、多くの人と関わり、信頼関係を築いていくことだということが分かります。イエス様を愛するなら、一人でいてはいけないということです。私たちの中には、一人でいるのが好きな人と、大勢と一緒にいるのが好きな人、様々だと思います。それは神様の与えた個性なので変える必要は全くありませんが、イエス様を愛すると言いながら、誰とも関わらないということはありえません。一人ひとりが、自分に与えられている個性で、与えられている人間関係の中で、自分らしく、人々と愛し合うことができます。

 それでは読んでいきましょう。まずは19-24節です。

 

A. テモテとパウロとフィリピの人たち (19-24)

19 さて、わたしはあなたがたの様子を知って力づけられたいので、間もなくテモテをそちらに遣わすことを、主イエスによって希望しています。20 テモテのようにわたしと同じ思いを抱いて、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいないのです。21 他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています。22 テモテが確かな人物であることはあなたがたが認めるところであり、息子が父に仕えるように、彼はわたしと共に福音に仕えました。23 そこで、わたしは自分のことの見通しがつきしだいすぐ、テモテを送りたいと願っています。24 わたし自身も間もなくそちらに行けるものと、主によって確信しています。

 

1. パウロとテモテに共通していた生き方

ここから、パウロがテモテのことをとても信頼していたことがわかります。また、フィリピの人たちもテモテのことを知っていたようです。おそらくパウロとテモテは父と息子くらいに年齢は離れていたので、友人というよりも先生と弟子のような関係でもあったのかもしれません。でも、共に旅し、苦労を乗り越えてきた仲間という意味では上下関係はありません。なによりも、ここでパウロが言うように、二人はお互いに互いの人生の目的が同じであることを知っていました。20-22節にそれが何であるか、3通りの言い方がされています。
まず20 節、テモテはパウロと同じくらい、「親身になってあなたがたのことを心にかけて 」いるということ。次に21節には、他の人は「イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めている 」けれども、テモテは違う、つまり、テモテは自分のことを追い求めずに、イエス様のことを追い求めているということ。三番目に22節、テモテはパウロと一緒に「福音に仕えて」きたということ。この三つは全部イコールで結ぶことができます。イエス様を愛することは、自分を捨ててイエス様を愛することであり、他人を愛することであり、福音に仕えること、です。
21節でパウロは、「 他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めている」と言っていますが、これはおそらく誰か特定の人を指しているのではありません。イエス様を信じていると言っている人の中で、実はイエス様のことよりも自分の満足の方が重要になってしまっている人たちが多いということだと思います。私たちが自分の満足を求めるなら、それはもうイエス様を愛しているとは言えなくなってしまいます。そして、自分の満足を求めるなら、他の人を心から愛することはできません。でも、それがいかに難しいことか、いかに簡単に忘れられてしまうことか、パウロはよく知っていました。そして、そのなかでテモテは信頼出来る人でした。テモテはイエス様を愛する人でした。その点で二人は共通していました。二人の人生の目的は、自分自身の満足ではなく、イエス様の愛を信じ、その愛を伝えるために生きることでした。
私たちもパウロやテモテのようでありたいと願います。年齢も背景も違い、得意なことと苦手なこと、それぞれ違います。もしかしたらパウロは筆まめで、テモテはそうでなかったのかもしれません。パウロは不器用なおじさんでしたが、テモテは気遣いの上手な若者だったのかもしれません。でも、それぞれの違いを超えて、私たちには共通した人生の目的があります。自分のことよりも、イエス様を愛したいという目的です。そこから外れなければ、私たちはパウロとテモテのような信頼関係を保ち、また強めていくことができます。

 

2. 互いに信頼し、励ましあうことができる

 さて、パウロはテモテを信頼していただけでなく、フィリピの人たちのことも信頼していました。それは今日の箇所だけではなく、この手紙全体から言えることですが、今日は19節に注目です。「わたしはあなたがたの様子を知って力づけられたいので、間もなくテモテをそちらに遣わ」したいと思うと言っています。」これは他のパウロの手紙には決して見られない言葉です。他の手紙ではパウロはいつも励ます側です。パウロの手紙はいつも手紙の送り先の人たちを励ますためで、パウロは心配している側です。でもフィリピの人たちには違いました。フィリピでは、パウロから伝えられたイエス様の愛を人々がちゃんと受け取って、そこから離れていませんでした。パウロがいなくなっても、彼らの間にイエス様の愛が生きて働き、彼らはイエス様のことを信頼して歩み続けていました。パウロは、フィリピの人たちがイエス様のことを信頼していることを、信頼していたと言えます。

 私たちが互いに、自分でも他の特定の誰かでもなく、ただイエス様にだけ信頼を置くとき、本当の意味でお互いを信頼することができます。そして、そのイエス様に基づく信頼関係の中で、私たちは互いに励ましあう必要があります。目に見えないイエス様を信頼し続けるのは、時に難しくなります。そんな時、目に見える友人がイエス様を固く信頼しているのを見て、もう一度自分の中のイエス様への信頼を取り戻すことができます。パウロですら、そういう励ましを必要としていました。そうでなければ、わざわざテモテをフィリピに送ったりしないで、手紙でことを済ませていたはずです。うまくいっているなら放っておいても良かったんじゃないでしょうか。でもパウロは、テモテという信頼する同僚を通して、直接フィリピの人たちが変わらずにイエス様を愛している様子を聞きたいと願いました。パウロは自分が弱いということを知っていました。イエス様への信頼がゆらいでいたわけではありませんでしたが、自分が励ましを必要としているということが分かっていました。そうやって、励ましあう存在を求めることは何も間違っていません。むしろ私たちすべてに必要なことです。自分が弱っている時には助けてもらい、自分が元気な時には誰かを励ますことができます。励ますといっても、それは具体的になにかアドバイスするとか何かをしてあげるとかいうよりも、まず自分自身がイエス様を信頼している姿を見せるということだと思います。パウロにとって、テモテやフィリピの人たちが変わらずにイエス様を信頼していることが、なによりの励ましになったようにです。その上で具体的にできることがあれば、イエス様が教えてくださいます。

 それでは後半に入っていきたいと思います。エパフロディトという新しい人物が登場します。25-30節を読んでいきましょう。


B. エパフロディトとパウロとフィリピの人たち (25-30)

25 ところでわたしは、エパフロディトをそちらに帰さねばならないと考えています。彼はわたしの兄弟、協力者、戦友であり、また、あなたがたの使者として、わたしの窮乏のとき奉仕者となってくれましたが、26 しきりにあなたがた一同と会いたがっており、自分の病気があなたがたに知られたことを心苦しく思っているからです。27 実際、彼はひん死の重病にかかりましたが、神は彼を憐れんでくださいました。彼だけでなく、わたしをも憐れんで、悲しみを重ねずに済むようにしてくださいました。28 そういうわけで、大急ぎで彼を送ります。あなたがたは再会を喜ぶでしょうし、わたしも悲しみが和らぐでしょう。29 だから、主に結ばれている者として大いに歓迎してください。そして、彼のような人々を敬いなさい。30 わたしに奉仕することであなたがたのできない分を果たそうと、彼はキリストの業に命をかけ、死ぬほどの目に遭ったのです。

 

1. エパフロディトの命をかけた行動

  エパフロディトという人について、聖書ではこのフィリピの人々への手紙にしか出てこないので、私たちはあまりよく知りません。フィリピ4:18には、「そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています」という一節があります。その1節と今読んだ箇所を合わせて考えると、エパフロディトはフィリピの人たちの代表として、獄中のパウロに贈り物を届けるために送り出された使者だったということが分かります。当時は牢獄にいる囚人の身の回りのことまで牢獄で面倒は見てくれなかったので、囚人の生活を支えるのは囚人の身内や友人でした。フィリピの人たちは、パウロが捕まったと聞いて、パウロのために必要なものを集めて、エパフロディトに託しました。そして、おそらく、エパフロディトはその旅の途中で重病にかかってしまいました。なんとかパウロの元にたどり着いたものの、いつの時点かは分かりませんが、死にかけるほどだったと言われています。
パウロは彼について30節でこう言っています。「わたしに奉仕することであなたがたのできない分を果たそうと、彼はキリストの業に命をかけ、死ぬほどの目に遭ったのです。」ここからは、エパフロディトがパウロやテモテと同じ思いを持っていたことが分かります。イエス様への愛、パウロへの愛、フィリピの人たちへの愛です。この三つはイコールで結ぶことのできる愛です。エパフロディトはイエス様を愛していたからパウロを愛し、またフィリピの人たちを愛していました。そして、パウロやテモテと同じように、自分のことを顧みずにこの愛のために命をかけました。
イエス様はあるところでこう言われました。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ15:13)私たちはエパフロディトのように、文字通り自分の命を危険にさらすような状況にはあまり置かれないかもしれません。それでも、イエス様を愛し、イエス様の愛する友人たちを愛するということは、自分の命よりもその人たちを愛することだということを覚えておく必要があります。イエス様がすべての人のために十字架で死なれて命を捧げられたように、私たちも自分の命を捧げます。自分の時間や労力を、他人のために使うことを惜しまないということです。

今日は、パウロとテモテ、フィリピの人たち、エパフロディトの生き方から学んできました。最後に、パウロ自身が少しだけ自分の心情を語っているところから、この生き方の喜びと悲しみについてお話ししたいと思います。

 

2. 互いに信頼し、励ましあうことができる

27-28節に注目してください。

27 実際、彼はひん死の重病にかかりましたが、神は彼を憐れんでくださいました。彼だけでなく、わたしをも憐れんで、悲しみを重ねずに済むようにしてくださいました。28 そういうわけで、大急ぎで彼を送ります。あなたがたは再会を喜ぶでしょうし、わたしも悲しみが和らぐでしょう

私はここを読んではっとしました。パウロはこれまでこの手紙の中で、あれだけ「私は喜んでいます!だからあなたたちも喜びなさい」と言ってきたのに、ここには彼の悲しみが現れています。もしエパフロディトが死んでしまったとしたら、その時はそれでもパウロは神様を信頼して、エパフロディトの信仰を称えたでしょう。でも、大切な友人が自分のために死んでしまったという事実は、人間として辛いことに変わりありません。もしかしたらパウロはこれまでにも、そういう経験をしてきたのかもしれません。また、友の死だけではなく、多くの教会でパウロを悲しませたりがっかりさせたりするような出来事が起こっていました。パウロはどんな時でもイエス様を信頼して、手紙を書き、旅をし、労苦をいといませんでしたが、悲しむことがなかったわけでは決してありませんでした。喜んでいます、喜びなさい、と言っていると同時に、悲しみがありました。それはパウロは強がりだったということではなくて、イエス様を信頼するということは喜びと悲しみが一緒にあるということです。イエス様を信頼することは、悲しみの中に喜びを見出すことだということです。
人と関われば、様々な形で悲しみを味わうことは避けられません。誤解しあったり衝突しあったり、または予期しない形で別れを経験したりします。それでも、イエス様を信頼して人と関わり続け、愛し合う中に、私たちの本当の喜びがあります。予期しない別れがあれば、予期しない出会いもあります。誤解もあれば、和解もあります。それぞれがイエス様に信頼を置いて、自分のことではなくイエス様のこと、そして他の人のことを心にかけて、愛し合うことができますように。神様が一人一人の心に働いて、私たちをもっとイエス様に似たものに変えてくださるように、祈り求めましょう。

 


メッセージのポイント

 イエス様を信じてイエス様に従って生きていくということは、他人と関っていく生き方です。イエス様が愛しておられるように、他人を愛し、他人と共に励ましあっていくことです。人と関われば様々な形で悲しみを味わうことは避けられません。それでも、イエス様を信頼して人を愛し続ける中に、本当の喜びがあります。

 

話し合いのために

1) あなたにとって他人を愛し、他人のために自分の命を捧げるとは、具体的にどういうことですか?

2) 「主において」希望し、確信するとはどういうことですか?

 

子供たちのために

私たちの中には、ひとりでいるのが好きな人と、人と一緒にいるのが好きな人の両方います。それは神様がそれぞれに与えてくださっている個性なので変える必要はありません。大切なのは、ひとりでいるにしても、人と一緒にいるにしても、自分のことだけでなく、他の人のことを思いやることです。テモテやエパフロディトはパウロほど知られた人物ではありませんが、それぞれに与えられた役割のなかで、イエス様を愛し、他の人たちを愛しました。子供達も、それぞれの与えられた個性と役割のなかで、イエス様を愛し、他の人たちを愛することができると励ましてください。それが具体的に一人ひとりにとってどういうことなのか、話し合ってみてください。