イエス様と共に前進あるのみ!

池田真理

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イエス様と共に前進あるのみ! (フィリピの信徒への手紙 3:1-14)

 

 今日はパウロが自分の過去をふりかえるところから読んでいきます。パウロは、自分が自分の過去に対してどのように思っているかを伝えることが、フィリピの人たちの励ましになると考えました。またそれは、私たちが過去に戻ることがないようにと教えてくれる言葉でもあります。私たちは、イエス様と出会う前と後で、生き方の根本が変わりました。でも、私たちの中にはいつも昔の生き方に戻ろうとする性質があります。そっちの方が慣れているし、魅力的に思えるからです。まず1-3節を読んでいきましょう。

A. 過去の生き方:自分を誇る生き方 (1-7)

1 では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい。同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです。2 あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。3 彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。

 ここでパウロは、ある間違った教えを批判しています。割礼の問題です。この問題については、去年私たちはガラテヤ書で繰り返し聞かされました。ユダヤ人たちが、自分たちの習慣である割礼を異邦人たちにも受けさせようとした問題です。この問題はフィリピの人たちにも多少影響を与えていたようです。だからパウロは手紙の最後でこの問題に触れる必要がありました。ガラテヤほど深刻な影響はなかったものの、この問題は何度注意しても繰り返し出てきて、人々を迷わせました。ある意味で、割礼を受けることには魅力があったからです。それは、自分を誇ることができるという魅力です。パウロの言葉を詳しく見ていきましょう。4-7節です。

4 とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。5 わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、6 熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。7 しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。

 割礼を受けることは肉に頼ることだとパウロは言っています。肉に頼るとは少し独特な言い方ですが、具体的にどういうことか、5-6節で分かります。生まれてすぐに割礼を受け、ユダヤ教の律法をよく勉強し、その教えに従って生きることです。一言で言うなら、ユダヤ人として正しく行動することです。パウロは自分がこの点にかけては非常に熱心で、非のうちどころのない者だったと言っています。私たちはユダヤ人ではありませんが、この昔のパウロと同じように間違ったことに熱心になって、間違ったところに自分の誇りを見出そうとしてしまうのは同じです。それは人によって社会的地位だったり知識だったり、様々なものの可能性があります。または、自分が努力して獲得する能力だったり、人に褒められるような行動をすることかもしれません。共通しているのは、そういうものを誇ることは、自分のためだという点です。自分を誇るために役に立つものに、私たちは魅力を感じます。自分は優れていると証明することができるものに、私たちは惹かれてしまうということです。それは裏返して言えば、自分の力で自分は優れていると証明しなければいけない、証明できると信じているということです。それが肉に頼る生き方です。自分を誇るために自分の力に頼って生きることとも言えます。

 イエス様を知って、私たちはそういう生き方をしなくていいと知りました。そういう生き方に限界を感じたからイエス様と出会えたとも言えるかもしれません。でも、自分の力に頼れること、自分を誇れることは、相変わらず私たちにとって魅力的なことです。それが何度注意しても繰り返し起こってくる誘惑だということを、パウロは知っていました。だから、それはもう私たちは過去に捨ててきた生き方であって、今は違う生き方をしているじゃないか、と思い起こさせてくれています。続きを読んでいきましょう。7-11節です。

 


B. 今とこれからの生き方:イエス様を誇る生き方

1. イエス様を知ることがあまりに素晴らしいから (7-11)

7 しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。8 そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、9 キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。10 わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、11 何とかして死者の中からの復活に達したいのです。

 ここに、今日一番私たちが心に留めておきたい言葉があります。8節の言葉です。「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています。」私たちは、イエス様を知ることのすばらしさをどれくらい感じているでしょうか。それはもちろん、イエス様を信じると決心する時のことだけではありません。パウロは、迫害者から伝道者に変えられて、おそらくこの時点ですでに20年くらい経っていました。でも、今でもイエス様を知る途中で、イエス様についてまだ知らないことがあると感じています。それは10節を英語で読むともっとはっきり言われています。「I want to know Christ」日本語だと少し曖昧になってしまいますが、パウロは「私はキリストを知りたい」とはっきり言っています。そしてそのためなら、自分の誇りだったものを全て失っても惜しくないし、実際それは全て何の役にも立たないゴミだとパウロは言います。私たちも、これくらいイエス様のことを知りたいと願い、そこに全てをかける価値を感じているでしょうか。

 おそらく私たちの多くは、過去の生き方にとらわれています。自分の力で頑張らなければいけないと思い、自分の力を誇りたいと思い、必要のないことに熱心になっています。でも、イエス様を通して私たちに教えられた神様の愛は、無条件の愛です。イエス様が十字架で苦しまれたのは、私たちが何か優れていたからではありません。神様の方で一方的に、私たちがただこのままで愛されていることを教えるために、実行されたことです。私たちが神様のことを知らないうちから、神様の方は私たちのことをよく知っていて、愛してくださっていることを教えるためです。イエス様は、本当なら私たちが背負うべきだった罪の罰を、自ら身代わりになって引き受けてくださいました。このイエス様の愛の大きさを理解するということが、イエス様を知るということです。それは、私たちが一生をかけても理解しきれないほど大きな愛です。その愛を受け取るために、私たちは自分の力に頼ることをやめなければいけません。私たちが自分の力で頑張って手に入れなければいけない愛なら、それはもうイエス様の愛ではありません。

 残りのパウロの言葉を読んでいきましょう。12-14節です。

 

2. 不完全なままで、前進するだけ (12-14)

12 わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。13 兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、14 神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。

 パウロ自身も、イエス様の愛が完全に分かっていたわけではありませんでした。パウロにとっても、イエス様を知ることは毎日の挑戦でした。でも、自分の人生の目指すべき方向はどちらか、はっきり分かっていました。そして、目指す方向がはっきりしているから、まだそこに到達していなくても、前と後ろを見分けることができました。目指すべきなのは、イエス様の愛に生かされ、愛されていることを喜んで生きる人生です。そして、後ろに置いてきたのは、自分が愛されるに値する人間だと自分で証明する生き方です。パウロも含め、私たちは全員、この二つの間にいます。パウロは言っています。「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」

 でも、皆さんの中には、今はとても前を向いて走ることはできないと思う方もいるかもしれません。イエス様に愛されていることが分からなくなって、私たちは動けなくなる時があります。そんな時でも、私たちは自分の力でどうにか前を向いて走り始めなければいけないのでしょうか。そうではありません。私たちは自分の力に頼ることをやめました。動けないと思う時、愛されていることが分からなくなる時は、ただイエス様の助けを求めましょう。もう一度教えてくださいと求めましょう。そういう時自分は前に進んでいないと感じたとしても、イエス様の愛の中で生きることが私たちの目標なら、実はイエス様から見れば私たちは大きく前進しているのかもしれません。

 最後にもう一度10-11節のパウロの言葉を読みたいと思います。

わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。

イエス様を知ることは、死者の中からの復活の力を知ることです。そして、苦しみの中でその力を体験することです。だから、イエス様を信じて、イエス様を誇りにして、前を向いて歩み続けましょう。

 


メッセージのポイント

私たちはつい、自分の能力や社会的地位や道徳性を誇りにしたくなりがちです。でも、イエス様と出会い十字架の愛を知って、そういう人間的な誇りが私たちを救うことはなく、かえって邪魔になると知りました。私たちにできることは、ただイエス様に愛され生かされていることを喜びながら、不完全なままでも前を向き続けることです。

話し合いのために

1) 私たちは何を目指して前進しますか?
2) どうしても前進できないと思う時、どうすればいいですか?

子供たちのために

パウロは、自分はユダヤ教徒としては「非のうちどころのない」優等生だったといいます。でもイエス様を知って、それが何にも役に立たないことだと知りました。みんなは、自分は優等生だと思うでしょうか?他の友達と比べて自分は優れていると思うことはなんでしょうか?それをイエス様はどう見ておられるのでしょうか。学校という場所はどうしても他人との比較がされる場所ですが、みんなはなるべく他の友達と自分を比べて優れているか劣っているかではなく、ただイエス様に喜ばれるかどうかを考えてみるように励ましてください。(きょうだいの間でも競争があると思います。)イエス様はみんなが他の人より優れている点があるから喜ばれるのではありません。劣っているから嫌われるのでもありません。他の人から見てどうであろうと、大切なのはみんなが心の中でイエス様のことを好きでいることです。