神を待ち望め!

永原アンディ

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神を待ち望め! (詩編42, 43)

 

 渋谷駅に日本で一番有名な犬の銅像があります。「ハチ公」です。飼い主が亡くなっても毎日待ち続けたと言われるハチ公は、アメリカでもRichard Gereの主演で映画になりました。権威に忠実であるべきことを教える教育勅語的道徳教育に利用されてきましたが、実際のところは、ただ「飼い主が大好きだった」のだと思います。インターネットで検索するのはやめたほうがいいと思います。「その真実はこうだった」みたいな諸説が満載で夢が壊れます。待ち続けたハチの銅像の前は、日本で一番有名な待ち合わせの場所でもあります。スマートフォンも携帯電話もない時代の待ち合わせを経験したことのある人は、ここにどの位いるでしょう。その頃は、相手が来なくてもそこで、イライラしたり、心配になったりしながら待ち続けるしかありませんでした。

 聖書はスマートフォンどころか電話もない時代に書かれていますが、この詩人は神様とやりとりできる、スーパースマートフォンを持っていたようです。神様を信じているのに、持っているスーパースマートフォンをマナーモードにしたまま、神様はいくら待っても来てくれないとブツブツ言っている人が結構います。大好きなイエスにつながっていられるように、今日はあなたも持っているスーパースマートフォンの使い方を学びましょう。

 42編と43編は元来一つの詩であったとも考えられています。そこでまとめて取り上げることにしました。合わせて見ると、9節(礼拝することによって主との関係を保つこと)を中心として、厳しい現状、神の臨在、信仰の告白が織り成す、多層のサンドイッチのような構造を持った、いかにも詩らしいテキストですが、私たち一人一人の現実を良く表しています。

詩 42 1 【指揮者によって。マスキール。コラの子の詩。】

2 涸れた谷に鹿が水を求めるように神よ、わたしの魂はあなたを求める。

3 神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て神の御顔を仰ぐことができるのか。

4 昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。人は絶え間なく言う「お前の神はどこにいる」と。

5 わたしは魂を注ぎ出し、思い起こす 喜び歌い感謝をささげる声の中を祭りに集う人の群れと共に進み神の家に入り、ひれ伏したことを。

6 なぜうなだれるのか、わたしの魂よなぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう「御顔こそ、わたしの救い」と。

7 わたしの神よ。わたしの魂はうなだれて、あなたを思い起こす。

ヨルダンの地から、ヘルモンとミザルの山から

8 あなたの注ぐ激流のとどろきにこたえて深淵は深淵に呼ばわり砕け散るあなたの波はわたしを越えて行く。

9 昼、主は命じて慈しみをわたしに送り 夜、主の歌がわたしと共にある わたしの命の神への祈りが。

10 わたしの岩、わたしの神に言おう。「なぜ、わたしをお忘れになったのか。なぜ、わたしは敵に虐げられ嘆きつつ歩くのか。」

11 わたしを苦しめる者はわたしの骨を砕き絶え間なく嘲って言う「お前の神はどこにいる」と。

12 なぜうなだれるのか、わたしの魂よなぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう「御顔こそ、わたしの救い」と。わたしの神よ。

(43)1 神よ、あなたの裁きを望みます。わたしに代わって争ってください。あなたの慈しみを知らぬ民、欺く者よこしまな者から救ってください。

2 あなたはわたしの神、わたしの砦。なぜ、わたしを見放されたのか。なぜ、わたしは敵に虐げられ嘆きつつ行き来するのか。

3 あなたの光とまことを遣わしてください。彼らはわたしを導き 聖なる山、あなたのいますところにわたしを伴ってくれるでしょう。

4 神の祭壇にわたしは近づきわたしの神を喜び祝い琴を奏でて感謝の歌をうたいます。神よ、わたしの神よ。

5 なぜうなだれるのか、わたしの魂よなぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう「御顔こそ、わたしの救い」と。わたしの神よ。

 


A. 魂の渇きがあることは正常です (2-3)

2 涸れた谷に鹿が水を求めるように神よ、わたしの魂はあなたを求める。3 神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て神の御顔を仰ぐことができるのか。

 イエスが自分の歩みにどう関わっていてくださるのか確信を持てなくなってしまうことが起こります。イエスがおられることを知っているのに感情的にはそう思えない時、私たちの魂は渇きます。魂の渇きは主を礼拝すること以外に癒す方法はありません。だから私たちは何よりも礼拝を優先させるのです。

 恐ろしいのは渇きを正しく自覚できないでいることです。水分補給にビールではまずいのです。間違ったもので満たそうとすれば魂を壊します。例えば良い行いや、熱心な学びは、それ自体は悪いものではありませんが、魂の渇きを癒すことはできません。ユアチャーチがイベントや奉仕活動やバイブルスタディーではなく礼拝を提供するのはこの理由からなのです。礼拝こそ主を信じる者に与えられているスーパースマートフォンなのです。活用できているでしょうか?

 


B. 現実は甘くない、が・・・ (4, 7b-8, 10-11, 43:1-2)

4 昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。人は絶え間なく言う「お前の神はどこにいる」と。

ヨルダンの地から、ヘルモンとミザルの山から 8 あなたの注ぐ激流のとどろきにこたえて深淵は深淵に呼ばわり砕け散るあなたの波はわたしを越えて行く。

10 わたしの岩、わたしの神に言おう。「なぜ、わたしをお忘れになったのか。なぜ、わたしは敵に虐げられ嘆きつつ歩くのか。」11 わたしを苦しめる者はわたしの骨を砕き絶え間なく嘲って言う「お前の神はどこにいる」と。

(43)1 神よ、あなたの裁きを望みます。わたしに代わって争ってください。あなたの慈しみを知らぬ民、欺く者よこしまな者から救ってください。2 あなたはわたしの神、わたしの砦。なぜ、わたしを見放されたのか。なぜ、わたしは敵に虐げられ嘆きつつ行き来するのか。

 私の神はどこにいるのか?神様なんて幻想に過ぎなかったのではないか?詩人は豊かな礼拝の体験(5節)を持っていたにもかかわらず、他人から見れば、「お前の神はどこにいるのか?」と言われるほどの苦しい状況に置かれています。自分でも、神様に忘れられている(10)、さらには、拒絶されている(43:2)と感じています。呼びかけても答えてもらえないかもしれない、ブロックリストに載せられているかもしれない。そう感じるような時にも、主に呼びかけてほしいのです。主は必ず答えてくださいます。それは聖書の約束であり、私の経験でもあります。私にも5節にあるような、礼拝の原体験があります。だから、困難があっても諦めずにここまでこられたのです。もしあなたがそのような礼拝体験をしていないなら、今朝の礼拝がそのようなものになることを祈ります。


C. 自分の魂に言い聞かせるべきこと (6-7a, 12, 43:5)

詩 42 1 【指揮者によって。マスキール。コラの子の詩。】

6 なぜうなだれるのか、わたしの魂よなぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう「御顔こそ、わたしの救い」と。7 わたしの神よ。わたしの魂はうなだれて、あなたを思い起こす。

12 なぜうなだれるのか、わたしの魂よなぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう「御顔こそ、わたしの救い」と。わたしの神よ。

(43) 5 なぜうなだれるのか、わたしの魂よなぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう「御顔こそ、わたしの救い」と。わたしの神よ。

 6節、12節、43:5節には同じ言葉が繰り返されています。それは、自分の心に言い聞かせて、心を奮い立たせようとする言葉です。私たちも覚えておき、自分に対して語りかけたい言葉です。それは主との会話を再開させようという意思です。それは、困難に心を奪われて勝手にオフにしてしまったスーパースマートフォンのモードをオンにするスイッチです。不思議なことに一度モードをオフしてしまうと、オンにすること自体が億劫になります。これは悪魔の妨害といってもいいと思います。億劫がらずに何度でも、この言葉で自分を励まし続けることが、どんな状況の中でも、どこにいても、自分を礼拝モードに引き戻すトリガーになってくれるでしょう。その内容は「正直な自分の状態の告白と、ご自身を表してくださいという率直な願い」です。

 


D. 礼拝で渇きを癒そう (9, 5, 43:3-4)

9 昼、主は命じて慈しみをわたしに送り 夜、主の歌がわたしと共にある わたしの命の神への祈りが。

5 わたしは魂を注ぎ出し、思い起こす 喜び歌い感謝をささげる声の中を祭りに集う人の群れと共に進み神の家に入り、ひれ伏したことを。

3 あなたの光とまことを遣わしてください。彼らはわたしを導き 聖なる山、あなたのいますところにわたしを伴ってくれるでしょう。4 神の祭壇にわたしは近づきわたしの神を喜び祝い琴を奏でて感謝の歌をうたいます。神よ、わたしの神よ。

 最初にお話ししたように、この渇きは問題の解決によって癒されるものではありません。どんなに聖書の知識を溜め込んでも、教会の活動に参加しても癒されません。この渇きは、神様と連絡を絶たず、待ち望み告白し続けること、つまり礼拝し続けることによって満たされるものです。9節はこの詩の中心です。そこには、詩人の神様との交流があります。困難の中にあってもちゃんとスーパースマートフォンでFaceTimeしているのです。彼は5節で過去の豊かな礼拝の記憶を思い起こし、43:3-4で、どんな状況にあっても礼拝し続けることを決意しています。

 私たちにも同じプロセスが必要です。しかし、心からの礼拝を捧げ続けることはそう簡単なことではありません。他の事、他の人を忘れて、主に歌い、主の言葉に耳を傾ける事に集中しなければ礼拝している事にはなりません。礼拝は学びや活動によって与えられるような満足感を与えてはくれません。むしろ自分が空っぽであることを知らされます。しかし、そこに主の命が注がれ魂の渇きがいやされるのです。

 


メッセージのポイント

イエスが自分の歩みにどう関わっていてくださるのか確信を持てないことが起こります。イエスがおられることを知っているのに感情的にはわからない時、私たちの魂は渇きます。この渇きは、問題の解決によって癒されるものではありません。待ち望み告白し続けること、つまり礼拝し続けることによって満たされるのです。

話し合いのために

1)魂の渇きを覚えた経験をシェアしましょう
2)あなたの神様はどこにいますか?

子供たちのために

イエス様はどこにいるのか話し合ってみましょう。見えないけれど確かにおられて、私たちと語り合ってくださることを電話などの例を用いて伝えてください。その会話が祈ること、聖書を読むこと、主を信じるほかの人たちと話し合うことを通してなされることを伝え、イエス様とのコミュニケーションを持つことを励ましてください。