イエスの決心

池田真理


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イエスの決心 (マルコによる福音書シリーズ2/1:9-13)

9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。10 水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。11 すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。12 それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。13 イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。

 


1. 洗礼を受ける決心 (9)

9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。

 イエス様がヨハネから洗礼を受けたということは、マルコだけでなく、すべての福音書が記録しています。でも、おそらく福音書が書かれた当時から、イエスが洗礼を受けたという話は多くの人にとって戸惑いを感じさせるものでした。ヨハネの洗礼は罪の悔い改めの洗礼であり、神の子イエスが悔い改めるというのはおかしいんじゃないかという戸惑いです。イエスはこの世界に生まれてきた時から、最初から神の子であったはずです。なぜ、ヨハネの洗礼を受けたのでしょうか?ヨハネには荒れ野で人々に悔い改めを呼びかける役割を任せておいて、自分はヨハネとは関係なく活動を始めることはできなかったのでしょうか?
この疑問への答えは、イエス様が神の子であると同時に一人の人間であったという事実にあると思います。イエス様がヨハネの洗礼を受けたのは30歳頃だったと言われています。それまでの30年をどのように過ごしてきたのかは、私たちには分かりません。聖書が教えてくれることはただ、30歳くらいになったイエス様がある日、ヨハネの洗礼を受けるために故郷のナザレからヨハネの元にやってきた、ということだけです。イエス様は生まれた時から神の子なので、罪の赦しは必要ないですし、悔い改める必要もありません。それでもヨハネの洗礼を受けにやってこられた理由は、そうすることによって、神様の意志に従いますという意思表示をするためだったのだと思います。イエス様は神の子ですが、神様の意志通りにしか動かないように設計されたロボットではありません。私たちと同じように、自分の意志を持った人間でした。だから、なぜ30歳の時だったのかは私たちには分かりませんが、イエス様は自分の意志でヨハネの洗礼を受ける決心をされました。そして、悔い改める必要のない神の子が、悔い改める必要のあるすべての人間と同じようになられました。これは、最終的にはすべての人間の罪のために十字架で死なれたイエス様の、私たちへの愛の最初の表明です。
このイエス様の行動に、神様が応えます。神様の応えは、励ましと試練の両方でした。もう一度10-11節を読みます。

 


2. 神様の応答

a) 励まし (10-11)

10 水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。11 すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

これは神様からイエス様への励ましです。「あなたはわたしの愛する子であり、あなたとわたしと霊はいつも一緒だ」という確認です。天が裂けて、天の声が聞こえるという壮大な光景ですが、こういうことはこの後のイエス様の活動においては1回しかありませんでした。イエス様が神の子であるということを人々に信じさせたいなら、いつでもこういう壮大なことをして、いつでも天の声を聞かせてくれれば簡単なのに、と思いますが、それは神様の望みではありませんでした。でも、イエス様が活動を始める最初においては特別だったのだと思います。イエス様がヨハネの洗礼を受けて、人間を愛して人間に仕えますという意思表示をしたのに対して、神様は特別に栄光を表しました。十字架に続く苦しい道のりを始めるにあたって、それが最初からイエス様の目的であるということ、それが将来の栄光への道であるということを再確認したということです。
でも、この栄光ある壮大な場面の直後に起こったのは荒れ野の40日間でした。12節の最初の言葉は、日本語では「それから」となっていますが、英語では「すぐに At once」となっています。ヨルダン川で洗礼を受けて、天の声を聞いたイエス様は、すぐに荒れ野に導かれたのでした。12-13節をもう一度読みます。

b) 荒野に送り出す (12-13)

12 それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。13 イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。

 前回、道は荒れ野から始まるというお話をしました。イエス様が活動を始める前にヨハネが現れければならなかったこと、それも荒れ野で始まらなければいけなかったとお話しました。それと共通するのですが、イエス様も荒れ野から始めなければいけませんでした。神の子であるイエス様も、神様の霊によって最初に導かれたのは荒れ野でした。そこでイエスはサタン(悪魔)から誘惑を受けたと言われています。誘惑が具体的にどういうものだったかはマタイやルカに詳しく書かれています。でもマルコは書いていません。それは、サタンという存在そのものが誘惑とも言えるからです。サタンは、神様を疑うこと、神様の意志に反すること、神様に逆らうことなら何でも喜びます。イエス様がサタンから誘惑を受けたというのは、イエス様が神様に従わないように誘ったということです。

こうして、神様はイエス様に特別な励ましを与えると同時に荒れ野の試練を与えました。天から声を響かせ、確かな栄光を現した直後に、わざと自分が見えないところにイエス様を送り、「あなたは私が見えなくなっても私に従い続けるか」と問いかけられました。神様は私たちにも同じようにされます。私たちは時に、「あなたは私の愛する子」という神様の声をはっきり聞くことができます。そんな時は、山の頂上で遠くの景色まではっきり見通せるように感じます。それは神様の憐れみであり、私たちはその瞬間を感謝し喜びます。でも同時に神様は、私たちを荒れ野に送り出し、わざとご自分のことが分からなくなるように、私たちを試す時があります。そこで私たちの目は不安や孤独でかすんで、すぐ近くの枯れた土しか見えなくなります。でも、前回のヨハネもそうでしたが、イエス様が送られた荒れ野も、私たちが送られる荒れ野も、神様の必然です。神様との関係をより深くし、神様のことがもっとよく分かるように、そう望んで下さっている神様の愛によるものです。だから、神様が私たちに与えてくださる頂上の栄光も、荒れ野の試練も、両方受け取りましょう。どちらも、神様の意志にかなうことです。

 


3. 神様に従う決心

 今日最初に、イエス様がヨハネの洗礼を受けたのは、イエス様が神の子であると同時に人間でもあったからだとお話しました。それは、自分は人間の罪を償うために十字架への道を歩みますという、イエス様の意志の表明であり決心でした。神の子でありながら、神様の意志に逆らう自由を持っていた人間イエスの決心です。その決心は、荒れ野の40日間で改めて問い直されました。神の子としての栄光を断たれて、荒れ野の孤独の中で、それでもあなたは私に従うか、と問われました。マルコは、サタンの誘惑にイエス様がどう打ち克ったのか、結果を書いていません。神の子イエスがサタンに負けるはずがなかったからです。ですから私たちも、イエス様の人間性ばかりに注目することは避けなければいけません。イエス様は最初から神の子であったのであり、サタンの誘惑に打ち勝つことによって神の子の身分を手に入れたわけではありません。それでも、イエス様はサタンに誘惑を受ける余地のあった人間であったということも事実なのです。そして、そうである以上、イエス様が自分の意志でサタンの誘惑を退け、荒れ野で神様を信じ続ける決心をしたのだと言えます。

 ヘブライ人への手紙で、イエス様についてこう書かれているところがあります。

(ヘブライ4:15)この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。 

(ヘブライ5:7-8)キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。

 今日読んだこの荒れ野の誘惑の場面について考えていると、イエス様が逮捕される直前にゲッセマネの園で必死で祈られた姿を思い出します。死んだ友人のために涙を流された姿も思い出します。イエス様は、私たちが人間として感じる喜びも悲しみも、葛藤も迷いも知っている方です。そして、悲しみの全てを背負って十字架に架かられました。

 私たちはこのイエス様を本当に知っているでしょうか?イエス様は、私たちのために神様から見捨てられました。それは人間が経験する最大の絶望という荒れ野です。その荒れ野でも、イエス様は神様に従い、私たちを見捨てませんでした。イエス様は私たちを見捨てない決心をしてくださっています。私たちはどうでしょうか?私たちは、荒れ野でイエス様を求め続けることができるでしょうか?荒れ野でも、「あなたは私の愛する子」と呼びかける神様の声を思い出して、信じることができるでしょうか?できるように、祈りましょう。


メッセージのポイント

イエス様は神の子であると同時に私たちと同じひとりの人間でした。神様の意志通りにしか動かないように設計されたロボットではなく、イエス様の意志で、神様の意志に従う決心をしなければいけませんでした。そのイエス様の決心に、神様は励ましと試練の両方で応えます。私たちもイエス様と一緒に、神様から励ましと試練の両方を受け取りましょう。そして試練の中で神様に従う決心をしましょう。

話し合いのために

1) イエス様はなぜヨハネの洗礼を受けたのですか?
2) 神様はなぜ私たちに試練を与えるのですか?

子供たちのために

 ぜひ9-13節全体を読んでみてください。注目していただきたいのは、11節と12節の落差です。神様からの素晴らしい励まし(天が裂け、霊が降り、「あなたはわたしの愛する子」という声が聞こえる)の後に起こったのは、荒れ野での40日間でした。辛いことが起こるのは、神様が意地悪だからではありません。神様は、私たちにどんな時でもご自分を信頼してほしいので、私たちと関係を深めるために、私たちに辛いことを経験させます。どんなことが起こっても、「あなたはわたしの愛する子」という呼びかけは変わりません。子供たちにも、辛い時こそ神様を信頼するように励ましてください。