静まれ、私が神である事を知れ!

永原アンディ


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静まれ、私が神である事を知れ! (詩編 46)

 

 前回の45編の内容を覚えていますか?「神様は王であり、私たちは王妃」だという事をお話ししました。今日の46編は、王である神様は、どんな状況の中でも、唯一信頼を寄せることのできる存在であるということが歌われています。このテキストの、“歌われた詩”らしい構造を確かめながら全体を読みましょう。

1 【指揮者に合わせて。コラの子の詩。アラモト調。歌。】
2 神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。

3 わたしたちは決して恐れない 地が姿を変え山々が揺らいで海の中に移るとも
4 海の水が騒ぎ、沸き返りその高ぶるさまに山々が震えるとも。〔セラ

5 大河とその流れは、神の都に喜びを与える いと高き神のいます聖所に。
6 神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。夜明けとともに、神は助けをお与えになる。

7 すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ。神が御声を出されると、地は溶け去る。

8 万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。〔セラ

9 主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される。
10 地の果てまで、戦いを断ち弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。

11 「力を捨てよ、知れわたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」

12 万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。〔セラ

 

2、8、12節と主への信頼の告白が繰り返されます特に8、12節は完全に繰り返しです。

2 神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる

8 万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。〔セラ

12 万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。〔セラ

この3つの節の間に2つの部分があります。前の方の3~7節は世界の見えている姿です。

3 わたしたちは決して恐れない 地が姿を変え山々が揺らいで海の中に移るとも

4 海の水が騒ぎ、沸き返りその高ぶるさまに山々が震えるとも。〔セラ

5 大河とその流れは、神の都に喜びを与える いと高き神のいます聖所に。

6 神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。夜明けとともに、神は助けをお与えになる。

7 すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ。神が御声を出されると、地は溶け去る。

この部分だけを見てもサンドイッチのような構造です。真ん中の神様のおられる現実を人間の2つの対照的な態度ではさんでいます。3、4節は神様とともにいる者の、7節は神様に背を向ける者の態度です。

8節と12節に挟まれた9~11節は私たちが期待できるこれからの世界についてと、その世界を見るためにしなければならないことが書かれています。

9 主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される。

10 地の果てまで、戦いを断ち弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。

11 「力を捨てよ、知れわたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」


1. 神様の創造した秩序が崩れるように見える世界 (2-8)

 地球環境を見ても、国際関係を見ても、国内の政治状況を見ても、自分や自分の周りの人々を見ても、神様が全てを作られた「極めてよかった」(創世記1:31)はずの世界はすっかり変わってしまったように思えます。自分を不幸にしたい人はいません。それなのに、幸せになりたいと願う人々の営みが、全体としては不幸な状態を招いているようです。しかし本当にもうこの世界には希望はないのでしょうか?この詩が歌われたのはイエスが生まれるより遥か昔のことです。問題は21世紀になって急に起こってきたことではないのです。20世紀の人も19世紀の人も、15世紀の、この詩の有名な賛美歌の作者でもある宗教改革者ルターの時代の人も、1世紀、イエスの時代の人も、そしてこの詩編が歌われた時代の人も、実は同じ感覚を持っていたのです。そして実際に起こっていることは違っても、神の意志もそれに対する人間の2種類の態度はどの時代も変わらないことが3-7節で分かります。皆さんは3、4節のような思いで生きたいと思いますか?それとも7節のように怯えていたいですか?答えは明らかだと思います。

 


2. 健康な世界観を持つために(8-12)

 この私たちが持ちたい態度を「健康な世界観」と呼びたいと思います。世界の様々な問題を見ようとしないで、「まあ良いか」と楽観的に日々の楽しみを追い求めるのでもなく、「もう絶望的だ」と悲観的になるのでもなく、客観的で冷静な見方です。この見方をする時、私たちは心から「主は私たちと共にいます。主である神は、私たちの砦の塔」思えるはずです。

 

a) 主の前に静まる

神様がすべてのことに計画を持って準備しているのに、私たちが先回りして、動き回り、いろいろなことをして失敗するという例が、聖書にはたくさんあります。神の民の歴史自体もそういうものでした。「神様を恐れずに人を恐れ、神様を信頼せずに人に頼る」「神様の思いを知ろうとせず、自分の思いで行動する」私たちが皆持っている性質です。民は神様の導きを信頼できず人間の王を求め、立てられた王も神様を信頼できず、敵国を恐れて他の強い国に助けを求め、結局滅ぼされてしまったことが列王記 (Books of Kings)、歴代誌 (Chronicles) に記されています。
新約聖書には、全く違う状況ですが本質的に同じ内容が、イエスの登場する一つのエピソードとして紹介されています。ルカによる福音書10:38-42です。

38 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。
39 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。
40 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
41 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。
42 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

 どんなに正しいと思えることでも、主の前に静まることなく、ただ突き進んでいるだけではいつの間にか自分勝手な方向に向かって行ってしまうことになります。だから、マリアのように主の前に出て、ほかのことを脇において静まるのです。マルタを諭した主は、この詩編の中では「静まれ」という言葉で人々を諭しています。新共同訳では「力を捨てよ」と訳されています。また「(していることを)やめよ」と訳している聖書もあります。元の言葉は「もういい!もう十分!」(enough)というニュアンスがあるようです。なのでどれも間違いではなく、まとめれば「いい加減、勝手に動き回らないで、私の前で止まって、まずは静かに聞きなさい」ということになるでしょう。それが私たちに必要なことです。そしてそれは、私たちの捧げる礼拝の本質です。

b) 主が神である事を知る

礼拝を自分のすべての営みの中心とすること。それが主を神と知ることの第一歩です。主に耳をすませ、目を向けるときに、主に向かって歌う時に、人の語るメッセージの背後に神の声を聞こうと耳を澄ますときに、主は語りかけてくださいます。そして私たちは大切な事実「主が神」であることを実感するのです。サムエルのようにはっきりとその声を聞けることは稀ですが、心に響く神の呼びかけを感じることは出来るでしょう。確信が持てなくてもがっかりすることはありません。礼拝から送り出されて世界に置かれる時、詩人と同じように「万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔」となんども告白しながら歩む時にそれが事実であることを、日常の中で体験できます。その礼拝と体験の繰り返しが「主が神であること」を私たちに確信させてくれます。

最後に健康な世界観を持った私たちの人生の目的について確認しておきましょう。主は、私たちの避難所であると同時に砦です。私たちは、ただ世界から逃げ隠れして、そこでホッとしているだけの存在ではありません。使命をもって、そこから世界に送り出されるのです。「愛」が危機に瀕している世界に出て行って愛することが私たちに与えられた使命です。

 


メッセージのポイント

誰もが幸せを追求しているのに、世界全体が病んでいるのは、幸せの求め方が間違っているからです。神様は、全ての人に「静まれ、私が神である事を知れ!」と呼びかけておられます。それは、全てのことを脇に置いて、神様の前に進み出ることを意味します。余計なものを持たずに神様の前に立てば、目に見える状況がどうであれ、神様が大きな力であなたを包み、守り、支えていることがわかります。

話し合いのために

1) 今一番恐ろしく感じていることは何ですか?
2) 「静まる」とはどういうことですか?

子供たちのために

 子供達にも恐れていることを聞いて見ましょう。でも大丈夫「主はわたしたちと共にいます。神はわたしたちの砦の塔」。私たちがすべきことは、まず神様の前に進み出て礼拝すること、と伝えてください。礼拝は、一人でも、家族とでも、ユアチャーチでみんなと一緒にでもできます。一人でお祈りしている時、それは神様を礼拝している時でもあるのだと教えてください。