イエス様は私たちの理性と霊と体に働かれる

池田真理


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イエス様は私たちの理性と霊と体に働かれる

(マルコ 1:21-34)

 今日はマルコの1:21-34を読んでいきます。28節までと29節以降はそれぞれ別々の話として聖書でも区切られていますが、実はこの21-34節全体は1日に起こった出来事です。これが全部1日のうちに起こったことだということを意識して読んでみると、イエス様の働きの完全さが見えてきます。イエス様は私たちの理性に働きかけ、霊に働きかけ、体に働きかける方です。それが何のためかということは最後にお話ししたいと思いますが、まずは一つずつ分けて考えていきたいと思います。最初に21-22節だけ読んでいきましょう。

 

1. 理性に (21-22)

21 一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。22 人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。

 ここで人々はイエス様の教えの何に驚いたのでしょうか?私やAndyさんが日曜日の礼拝でお話しする時は、あくまで神様について、イエス様についてお話しします。律法学者たちも同じでした。彼らも、旧約聖書を用いて、神様について教えました。でもイエス様は、「私がその神である」と教えたのです。私やAndyさんが「私は神である」と言い始めたら、迷わず逃げてください。人間がそういうことを言い始めたら、それはカルト宗教の始まりです。でも、イエス様はそう言ったのです。神様について知りたいなら、私を知りなさいと教えたのです。そして、旧約聖書で預言されてきた救い主は自分であるということも教えました。だから人々は驚きました。普通に考えるなら、イエス様の教えはとんでもない教えでした。そして実際、イエス様の言動は当時の宗教指導者たちの怒りを買い、神を冒涜しているとして十字架に架けられました。
イエスという歴史上の人物が神であるという教えに驚くのは私たちも同じです。神様という存在は漠然と誰でも感じているものだと思います。でも、それをイエス・キリストという具体的な存在として認識するかどうかは、一人ひとりの判断に委ねられています。イエスの教えは信じるに値することか、信じて大丈夫なのか、私たちは理性で考え、調べ、判断することができます。盲目的に信じるのではなく、誰か尊敬する人が信じているから信じるのでもなく、家族が信じているから信じるのでもなく、自分でイエス様を調べましょう。私たちには一人ひとりにその自由が与えられています。人生のどこかの地点で信じると決めることは大切なことですが、それは一度きりのことでもありません。一生を通してイエス様を疑う時期は繰り返しあると思います。聖書を完全に理解することも、誰にも一生かけてもできません。私たちは、自分の疑問を押し殺して信じ続ける必要はありません。理性を持って、イエス様を信じましょう。イエス様は、私たちに嬉しい驚きを何度でもくださって、応えてくださいます。
続きを読んでいきます。

 


2. 霊に (23-28)

23 そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。24 「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」25 イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、26 汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。27 人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」28 イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。

 霊的な世界があるということを、聖書は否定していません。むしろ、神様に対抗する霊的な存在がいること、それが人間にも悪影響を及ぼすということを積極的に認めています。それは悪魔(サタン)と呼ばれ、悪魔の霊が悪霊です。イエス様の時代には多くの病気が悪霊の仕業だと思われていたので、悪霊の追放として記録されている出来事の中には、現代の科学からすれば病気の治癒と言えるものもあると言われています。それでも、現代の私たちも悪魔と悪霊の存在を無視するわけにはいきません。それは私たちを神様から引き離し、身を滅ぼすように誘う存在です。私たちは、神様に従わないなら、悪魔に従っていることになります。神様を喜ばそうとしないなら、悪魔を喜ばすことになるからです。私たちは、自分を神様にしたい傾向を持っているので、元から悪魔を喜ばす方に傾いています。それは私たちの罪の性質で、悪魔はそれを喜びます。
イエス様は、そんな私たちと悪魔の関係を断ち切るために来られました。そして、ここが重要なのですが、悪魔もイエス様を知っていました。しかも、絶対にイエス様に勝つことはできないとも知っていました。悪魔には人間を支配することはできても、神様を支配することは最初からできません。だから、私たちは悪魔の存在や霊的な世界のことを、否定してはいけませんが、怖がる必要はありません。悪魔を怖がりすぎていると、自分の罪のことを忘れて、全てを悪魔のせいにするという間違いに陥ってしまいます。反対に、悪魔や霊的な世界なんてないと思っていると、自分の力を過信して、聖霊様の働きまで否定する間違いを犯します。イエス様は霊的な世界でも私たちを解放するために来られたことを覚えておきましょう。イエス様は、悪魔の霊ではなく神様の霊、聖霊によって私たちを満たし、守って導いてくださる方です。
この霊的なことと、最初にお話しした理性的に考えるということは、バランスを取るのがなかなか難しいことです。人それぞれ元々どちらに傾きやすいかが違います。理性的に論理的に考えるのが好きな人と、霊的な不思議な体験が好きな人と両方います。でも、その両方のバランスを取ることが大切です。イエス様が、言葉による教えで人々を驚かした直後に、悪霊追放という超自然的なわざによって人々を驚かしたというのは注目すべきことです。その両方が、私たちの救いに関係することなのです。

さて、ここまではカファルナウムという町のユダヤ人の会堂で起きた出来事でした。この後、一行はその町にあるペトロとアンデレ兄弟の家に行きます。読んできましょう。

 


3. 体に (29-34)

29 すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。30 シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。31 イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。32 夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。33 町中の人が、戸口に集まった。34 イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。

 悪霊のことがまた出てきましたが、そのことはもうお話ししたので、ここでは体の癒しについて注目したいと思います。イエス様は、まずペトロの義理の母の病気を癒しました。夕方になって日が沈むと人々が押し寄せたとありますが、これは、安息日が終わると同時に人々が押し寄せたということです。安息日には病気の癒しも求めてもいけないというのは、当時の律法学者たちの間違った教えですが、人々はそれを守り、日没まで待っていました。ユダヤ教の1日は日没で終わり、日没で始まったので、日が落ちれば安息日のルールからは解放されます。人々は、その日の会堂でのイエス様の一件を伝え聞いて、病気や悪霊に苦しんでいる家族や友人をぜひ癒していただきたいと思ったのでしょう。まだイエス様がどんな人かもよく分からないのに、大切な人が元気になってくれるなら何でもいいと思った人々の感情は、私たちにも想像できると思います。そして、イエス様は一人ひとりから悪霊を追い出し、病を癒しました。イエス様は人々を癒すのに何も要求しませんでした。私を信じたら癒してあげようなどとは言いませんでした。イエス様の癒しは無条件でした。それを望めば誰にでも与えられました。健康な心と体を取り戻して、みんな喜んだはずです。
でも、私はふと疑問に思いました。この人たちは確かにこの時は癒されたけれども、この人たちのうち誰も、この後で死ななかった人はいません。みんな、人間として当然ながら肉体の限界を迎えて死んでいったのです。一度は癒されても、また病気になって死んだ人も事故にあって死んだ人もいたでしょう。それならなぜ、ここでイエス様は、体の癒しというその時は奇跡でも一時的にしか続かない癒しを行ったのか。そして疑問はさらに広がり、イエス様の時代に生きた人たちはそれでも一度でも奇跡を経験できて、健康を少しでも取り戻せたかもしれないけれども、イエス様の死後に生まれてきた私たちはどうなるのか。イエス様が今いてくださればいいのにと思うことはたくさんあります。

 


4. 神の国で生きるということ

この疑問の答えは、イエス様がこの世界に来られた目的にあります。それは、神様の国をもたらすという目的です。イエス様がこの世界におられた当時に行った病気の癒しは、神様の国を少しでも人々に味わわせるためでした。肉体は時間の経過と共に衰えて弱くなりますし、病気や怪我で苦しむこともあります。心も体とつながっています。イエス様が人々の病を癒したというのは、実際の持続性はなかったにしても、それが神様の国での私たちの状態だということを教えるためです。そして、イエス様が癒さなかった病人はいませんでした。私たちが病で苦しむことは、神様の望みではないのです。ただし、強さは弱さの中で発揮されるとパウロが教えられたように、病の苦しみの中で神様がくださる恵みもあります。それにしても、病の苦しみを神様が無視しているわけではありません。イエス様は、神様の国では私たちの体は健康でいられるのだという約束を与えてくださったのです。
このことは体に限ったことではありません。私たちの体も心も、理性も霊も、すべては神様につくられたもので、本来は神様のものです。だから、それがすべて神様のものとして神様に支配されるときに、すべては健康に働きます。肉体に限界があるように、私たちの理性も霊も限界があります。罪の性質は一生私たちについてまわり、悪魔の誘惑もずっとあるでしょう。それでも、イエス様を礼拝し求めることによって、本来の健康な状態をその都度取り戻すことができます。
今日お話ししてきたことは、次の一言にまとめられます。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」(マルコ12:30)なぜなら、私たちの心も体も霊も精神も、神様を愛する時に、本来の健康な姿を取り戻すからです。完全な健康を取り戻すのは、神様の国が完全に実現するときを待たなければいけません。でも、それは私たちが自分の全てをもって神様を礼拝し愛するときに、すでに始まっています。

 


メッセージのポイント

イエス様は人々に言葉で教えましたが、同時に人々の病気を癒し、悪霊にとりつかれている人々を解放しました。私たちが理性と霊と体の全てをもって神様を礼拝するためです。どれか一つに偏ることのないようにしましょう。私たちの心も体も、理性も霊も、神様が与えてくださったものです。神様の国ではその全てが健康に働きます。

話し合いのために

1) あなたは理性と霊のどちらかに傾いていませんか?
2) 病気が癒される人と癒されない人がいるのはなぜでしょうか?

子供たちのために

イエス様のことを頭で考えて理解することも大事だし、イエス様の不思議な力(病気の癒しや心の癒し、科学や医学では解明できないような奇跡)を経験することによってイエス様のことを知ることも大事だと教えてください。子供達に悪霊や霊的な世界の話をするのは難しいですが、ポイントは悪霊たちもイエス様のことを知っていて、イエス様に勝てることは決してないので、私たちが怖がる必要はないということです。