おお神よ!おお主よ!(礼拝の原型)

永原アンディ


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おお神よ!おお主よ!(礼拝の原型)

(詩編54)

【指揮者によって。伴奏付き。マスキール。ダビデの詩。ジフ人が来て、サウルに「ダビデがわたしたちのもとに隠れている」と話したとき。】神よ、御名によってわたしを救い力強い御業によって、わたしを裁いてください。神よ、わたしの祈りを聞きこの口にのぼる願いに耳を傾けてください。異邦の者がわたしに逆らって立ち暴虐な者がわたしの命をねらっています。彼らは自分の前に神を置こうとしないのです。〔セラ
見よ、神はわたしを助けてくださる。主はわたしの魂を支えてくださる。わたしを陥れようとする者に災いを報いあなたのまことに従って彼らを絶やしてください。主よ、わたしは自ら進んでいけにえをささげ恵み深いあなたの御名に感謝します。主は苦難から常に救い出してくださいます。わたしの目が敵を支配しますように。

 詩編のユニークさの一つは、そこからイスラエルの神殿礼拝の様子を想像することができることです。その中に含まれる要素は、私たちの捧げる礼拝にも受け継がれています。そこには、賛美や感謝だけではなく、切実な嘆願、助けを求める叫びもあるのです。気をつけていないと、礼拝はすぐに形式的な、表面的なものになってしまいます。それは昔も今も変わりありません。 今日の詩編には、豊かな礼拝の要素がコンパクトに含まれています。これらを、ただ形として受け取り、引き継いでも意味はありません。私たちの礼拝の中で、願い、叫び、告白、感謝、信頼、そして決意が「形式的」なものではなく「心から」のものであるような礼拝を捧げたいのです。そのために、今日はこの詩編に見られる一つ一つの要素を確認してゆきましょう。

 


1. 基本的な願い (3, 4)

神よ、御名によってわたしを救い 力強い御業によって、わたしを裁いてください。神よ、わたしの祈りを聞き この口にのぼる願いに耳を傾けてください

 礼拝が、一人あるいは小さなグループでも捧げられるものなら、日曜日の朝、共に集って礼拝することにどのような意味があるのでしょうか?一人一人の悩みも願いも感謝も違います。先週のメッセージで教えられたように、教会は、性格も背景も異なる私たちがイエスによって集められた寄せ集め集団として始まりました。私たちが共にこの礼拝を捧げるのは、イエスが私たちを個人としてだけではなく、組み合わされた一つの体としても愛しておられるからです。そして一人一人は違っていても、共通の願いが存在することがこの部分でわかります。
それは「私を救い、私の無罪を宣言し、私があなたに向かって発する言葉を聴いて応えて下さい。」という、この節にあらわされている願いです。私たちは皆、危機に陥ることがあり、自分のあり方に自信が持てず、神様は本当に私の祈り・願いを聞いていてくださるのだろうか?と自信をなくしやすい者たちなのです。イエスが弟子たちにどのような祈りを教えられたか覚えていますか?「主の祈り」(マタイ6:8-13) です。それまで、弟子たちが知っていた祈りは、宗教家たちの、人に見せたり聞かせたりする偽善的な祈りや、言葉数が多ければ、聞き入れられると思っているように、くどくどと、長々と祈られる祈りでした。イエスはこう教えられました。

彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。』

このように、主の祈りにもこの詩編54編の礼拝のエッセンスが豊かに表されていて、「礼拝の心」とも言える内容です。今日 、特に注目したいのは、イエスが弟子たちに初めて教えたこの祈りの主語が「わたし」ではなく「わたしたち」であったということです。ここに私たちが定期的に集まって、共に礼拝を捧げる意味があります。人間の体を構成する器官のそれぞれが、神様の知恵によって創造された素晴らしい働きをするものですが、器官は体につながっていなければ、働くどころか生きていることもできないのです。それは神様に従って生きようとする人間にとっても同じことなのです。

 


2. 苦難を言い表す (5)

異邦の者がわたしに逆らって立ち暴虐な者がわたしの命をねらっています。彼らは自分の前に神を置こうとしないのです。〔セラ

 私たちのほとんどは、命を狙われれるような状況に置かれてはいないと思っているでしょう。しかし、原爆が投下された朝の広島市民もそうでした。戦時下とはいえ、暑い夏の普通どおりの朝を皆が迎えたのです。最初の爆発で命を失わなかった者も、自分も命を狙われたということを知り、痛みと苦しみに耐えなければなりませんでした。あの原爆よりはるかに強力な爆弾を、その気になれば、スイッチ一つで私たちの上で爆発させることができる者がいる事を私たちは知っています。そして、そんな事を平気でできるのは、神様のことなど気にもかけない者たちです。
私たちが恐れるのは、それだけではありません。私たちの平穏な日常を脅かすことのできるものはいくらでもあるのです。私たちはこんな状態なのです。もちろん神様はその状態もご存知ですが、分かっているから黙っていなさいとは言われません。「こんな酷い目にあっています。」「こんなに辛いのです」と、具体的に直面している苦難を伝えても良いのです。
イエスの弟子たちは、イエスと行動を共にする中で、困惑し、恐怖をおぼえて、何度もイエスにそうしました。例えばガリラヤ湖を船で渡っていた時、激しい波風を恐れて、眠っていたイエスを起こし「先生、先生、おぼれそうです」、イエスご自身は何も心配をしていなかったので眠っていたのに、弟子たちはイエスが一緒にいるから大丈夫だとは思えなかったのです。(ルカ8:24, 25)
しかし、この恐怖を言い表したときに、イエスがどう応えられたか、という記憶の積み重ねによって、彼らのうちのイエスに対する信頼が確かなものになっていったのです。それは詩人と同じ信頼です。そして、詩人はその信頼を、命を狙われているこの時にも言い表しています。それは6節、9節です。


3. 信頼の告白 (6, 9)

見よ、神はわたしを助けてくださる。主はわたしの魂を支えてくださる。
主は苦難から常に救い出してくださいます。わたしの目が敵を支配しますように。

 詩人は、直面している苦難の中で主を礼拝し、信頼を言い表わしています。あなたは主イエスをどのような方と思っているでしょうか?苦難や恐れの経験を通して、主イエスへの信頼を獲得しているでしょうか?弟子たちが、眠っていたイエスを起こした時、イエスは風と荒波を叱り、弟子たちに向かって「あなた方の信仰はどこにあるのか?」と言われ、弟子たちは、恐れ驚いて「いったいこの方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」と互いに言ったと記録されています。「信頼」ということにおいても、私たちは完璧になることはできません。しかし、増し加えていくことはできます。イエスが求められているのも完璧ではありません。成長していくことです。信頼は、体験によってしか得られません。聖書を読んでも、誰かに教えられても、体験しなければ自分のものにはならないのです。私たちは、礼拝の中で「信頼」を意識し、日常の中でそれを体験します。そして、その体験を、再び礼拝の中で魂に定着させるのです。そしてまた世界に出ていくのです。

 


4. 具体的な願い (7)

わたしを陥れようとする者に災いを報いあなたのまことに従って彼らを絶やしてください。

 詩人は、自分を苦しめているものに災いを下すように神様に求めています。命を奪って下さいと願います。これは祈りではなく呪いです。まだイエスを知らない詩人を赦して下さい。そして、これも旧約聖書の限界の一つです。ここでわたたちが学ぶことは「嫌な奴なら死を祈ってもいい」ということではありません。しかしここからも学ぶべきことがあります。それは、「具体的に願う」ということです。マタイ(20)、マルコ(10)、ルカ(18)の三つの福音書に記録されている盲人の癒しの記事があります。イエスは「何をしてほしいのか」と尋ねられました。もちろん盲人は「目を開けていただきたいのです」と答えました。イエスはなぜ、分かりきっていることを聞かれたのでしょうか?その答えは想像するしかないのですが、少なくともイエスは、私たちが願いを言い表すことを聞きたいと思っていらっしゃるということは確かです。本当はイエスは、私たちの願いはもちろん、それが正しい願いなのか、間違った願いなのかもご存知の上で、わかっているから黙っていなさいとは言わず、聞いてくださるのです。私たちもそれに応えて、言わなくてもわかってるとか、この願いは正しい願いなのか?とか勝手に悩んでいる暇があったら、願うべきです。そのことは結果がどうなろうと、あなたとイエスの距離をぐっと縮めるでしょう。この親密さは、活き活きとした礼拝に欠かせないものです。

 


5. 感謝の捧げもの (8)

主よ、わたしは自ら進んでいけにえをささげ恵み深いあなたの御名に感謝します。

この節で知ることのできる礼拝の大切な要素は「感謝の捧げもの」です。神様の深い恵み体験すれば、それに対する自然な思いは感謝です。旧約聖書の人々がささげたいけにえは感謝の気持ちを、自ら進んであらわしたものです。それでは私たちにとって、ささげるべきいけにえとは何でしょう?多くの人が礼拝で捧げられる献金を思い浮かべるでしょう。確かにそれは正解の一つです。お金は、教会が、今のこの社会の仕組みの中で、神様の意思を行ってゆくために不可欠なものです。しかしそれは、感謝の捧げものの核心ではありません。お金ではなく、労力を、時間をささげる、それもありますが核心ではありません。神様が望んでいる捧げものは、あなた自身なのです。それは、「おかれているところで神様の意思を行う者として生きます」という決心です。「自己実現ではなく神様の意思の実現に生きます。それが私の意思です。」このような思いを持って礼拝を捧げることが、今朝お話してきたことのなかでも最も大切なことです。その核心については、詩編の他のところでも

「神の御名を賛美してわたしは歌い御名を告白して、神をあがめます。それは雄牛のいけにえよりも角をもち、ひづめの割れた牛よりもなお主に喜ばれることでしょう。 (59:31,32)

と歌われている通りです。イエスは、これ以上大きな愛はないとして「友のために自分の命を捨てること」と言いました (ヨハネ15:13) が、人ごとのようにそういったわけではなく、私たちの友となってご自身を十字架で捧げられました。最後に、このことについて、最も適切に勧めてくれているパウロの言葉を聞いて、このあと心からの礼拝をささげましょう。

ロマ 12:1 こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。

 


メッセージのポイント

詩編はイスラエルの神殿礼拝を強く反映しています。その中に含まれる要素は、私たちの捧げる礼拝にも受け継がれています。祈りは礼拝の一部です。祈りも、礼拝も形式的に捧げるものではありません。どのような形であっても良いのですが、真の礼拝には、私たちの切実な願い・現実に負けない信頼・正直な告白・感謝とそれを表す捧げ物と、神様から私たちへの呼びかけ・私たちからの願いや告白や感謝に対する応答が存在します。

 

話し合いのために

1) 自分の前に神を置こうとしない者とは?
2) 私たちはどのような礼拝を捧げるべきですか?

 

子供たちのために

困った時、苦しい時、神様に助けを求めましょう。一人でも良いのですが、信頼できる大人や、友達に相談して、一緒に助けを求めることも良いことです。イエスさまが地上におられた時、弟子たちや周りの人たちもイエスさまに、懸命にお願いして助けてもらいました。(子供達にわかりやすい福音書の中の癒しの記事や、イエスと弟子たちとの会話の中から、助けを求める礼拝や祈りの実例を挙げると良いでしょう。そこには、この詩編に現れている6つの要素のいくつかが現れています。例えば突風を静めるイエス マルコ4:35、二人の盲人の癒し マタイ20:17、イエスの招きとザアカイの応答 ルカ19)