すぐ先は見えない、でも最終目的地は見える

池田真理


❖ 見る

第1礼拝(日本語)

第2礼拝(日本語・英語)

❖ 聴く

第一礼拝 (日本語)

第二礼拝 (日本語 / 英語)



すぐ先は見えない、でも最終目的地は見える

ヘブル人への第一の手紙 11:1; 8-10; 13-16

 皆さん、新年をどのように迎えられたでしょうか?それぞれ個人的に今年一年のうちに期待していることがあると思います。ユアチャーチでも、今年は地域プロジェクトがいよいよ始まりますし、去年から始まった性的少数者のための働きもさらに広げられるように期待しています。でも、個人としても教会としても、楽しみにしていることも不安に感じていることも、まだどうなるのか誰にも分かりません。また、予期せぬ悲しいことや困難が起こることもあるかもしれません。そんな中で私たちはどこを目指して進めばいいのか、今日は私たちの信仰の原点に戻るつもりでお話ししたいと思います。そのヒントとして、今日はヘブライ人への手紙11章から一部を読んでいきます。まず最初の1節です。


A. 私たちの望みはなにか?(1)

信仰とは、望んでいる事柄の実質であって、見えないものを確証するものです。

 (日本語は先月30年ぶりに新しく出版された協会共同訳の聖書です。これまで使ってきた新共同訳とはだいぶ違う訳です。新共同訳「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」)少し分かりにくい文章ですが、後半の内容から考えるとポイントは簡単です。見えないものを信じるのが信仰だということです。神様は私たちの目には見えません。でも神様は確かにおられると信じることが私たちの信仰です。そして、その神様はただ存在するだけでなく、イエス様を通して私たちを愛しておられるのだと教えてくれました。だから、私たちは神様を信じると言うとき、神様が愛の方であることを信じるとも言えます。それは、自分には悪いと思われる状況の中でも、まだ実現していない神様の良い計画を信じることでもあります。
 それが、今読んだ1節の前半「望んでいる事柄の実質 confidence in what we hope for」「望んでいる事柄を確信する」という内容に重なってきます。私たちは見えない神様を求めて、神様の良い計画の実現を願っています。それが私たちの「望んでいる事柄」です。私たちが今望んでいることは何か、今年一年に期待していることは何かと聞かれたら、一人一人違う答えがあると思います。そして、その望みや期待は、願い通りに叶うことも叶わないこともあるでしょう。でも、私たちの人生の最終目標は何でしょうか?人生にとって一番大切な願いは何でしょうか?その答えは、イエス様を愛している人全員に共通して一つです。イエス様の愛の実現です。神様の良い計画の実現、神様の国の実現とも言えます。イエス様が私たちを愛してくださっているように、私たちも人を愛して生きることが、私たちの周りに神様の国を実現します。私たちは、この一年を通して、このただ一つの最終目的地を目指すことができるでしょうか?それがどんな旅になるのか、ヘブライ人の手紙ではアブラハムを一人の例として説明してくれています。8-10, 13-16節を読みます。


B. アブラハムの旅と私たちの旅 (8-10, 13-16)

8 信仰によって、アブラハムは、自分が受け継ぐことになる土地に出て行くように召されたとき、これに従い、行く先を知らずに出て行きました。9 信仰によって、アブラハムは、他国人として約束の地に寄留し、同じ約束を共に受け継ぐイサク、ヤコブと共に幕屋に住みました。10 アブラハムは、堅固な土台の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し、建設されたのは、神です。

13 この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束のものは手にしませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声を上げ、自分たちが地上ではよそ者であり、滞在者であることを告白したのです。14 彼らはこのように言うことで、自分の故郷を求めていることを表明しているのです。15 もし出て来た故郷のことを思っていたのなら、帰る機会はあったでしょう。16 ところが実際は、彼らはさらにまさった故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。事実、神は、彼らのために都を用意しておられたのです。

1.  神の都、天の故郷を求める旅

 私たちはアブラハムと同じように、神様に呼ばれて旅を始めました。目に見えるこの世界に生きながら、目に見えない神様の国を求めて生きる旅です。それは、アブラハムが生まれ故郷を離れて外国の地で仮住まいをしたように、私たちも今はこの世界で仮住まいをしているということです。私たちの本当の故郷は神様の元にあります。目に見える人間やこの社会が与えてくれる安心には限界がありますが、神様の元では私たちは心から安心し、満足することができます。アブラハムもそのことを知っていました。
 でも、私たちはアブラハムの時代よりも恵まれた時代に生きています。アブラハムにはまだ知らされていませんでしたが、私たちには知らされている重要なことがあります。それは、神様の国はアブラハムの時代よりもずっと近くに来ているということです。イエス様によって神様の国はすでにこの世界に来ました。そして、イエス様を通して、神様の国はどういうところなのか、私たちには具体的に明らかにされています。マタイによる福音書の11:28-30を読みます。

2.  アブラハムが知らなくて、私たちが知っていること (マタイ11:28-30)

28 すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。29 私は柔和で心のへりくだった者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に安らぎが得られる。30 私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである。

 ここに、神様の国に住むとはどういうことなのか、神様の国はどういうところなのかが具体的に言われています。それはまず、私たち一人一人が「私の元に来なさい」というイエス様の声を聞くことから始まります。去年のマルコ福音書のシリーズで、イエス様が12人の弟子たちを選んだのは、彼らに特別な役割を与えるより前にまず、彼らを自分のそばに置くためだったとお話ししました。イエス様は私たちを、ご自分のそばに置きたいと願って呼んでくださっています。なぜなら、私たちがこの世界で多くの間違いを犯し、苦しんでいることを知っておられるからです。私たちは自分の罪と他人の罪によって、負わなくていい軛を負い、担わなくていい重荷を担っています。そんないらない荷物は降ろしたいと思っても、降ろせないものが多いかもしれません。私たちはそういう重荷を背負ったまま、イエス様の元に行きます。
 ただここで注意したいのは、イエス様は「休ませてあげよう」とは言っていますが、「重荷を降ろしなさい」とは言っていないという点です。反対に、「私の荷を担いなさい」と言われています。私たちは自分の荷物だけでも押しつぶされそうなのに、さらにイエス様の荷物まで背負わなければいけないということでしょうか?そうだとしたら、私たちは全然休めません。でも、ここにイエス様の真理があります。イエス様の荷物とは、十字架です。十字架とは、私たちの罪を赦す、イエス様の愛です。だから、イエス様の荷物を私たちが背負い、イエス様に学ぶとは、罪を知り、愛を知るということです。自分の罪を知り、それでも愛されていることを知ることで、はじめて私たちはいらない荷物を降ろしていくことができます。降ろしたくても降ろせない荷物を降ろす方法は、イエス様の十字架を知ることだということです。そして、イエス様に愛され、イエス様を愛することによって、私たちは心から休むことができ、魂に安らぎを得ることができます。
 アブラハムは神様の国、天の故郷を求めていましたが、そこに至る具体的な道を知りませんでした。私たちはイエス様という道を知っています。そして、イエス様のそばに行き、愛され、愛することができると知っています。私たち一人ひとりとイエス様の間に愛し合う関係があるとき、そこに神様の国は来ています。そして、同じように、イエス様が愛してくださっているように私たちが互いに愛し合うとき、そこに神様の国が来ています。私たちはそこが私たちの最終目的地だと知っています。といっても、人生の最期に行き着く場所という意味ではありません。今ここに、私たちがそれを求めれば実現する場所です。


C. 神様は私たちに願いを与えてくださる

 今年、ユアチャーチでは地域の人たちに向けた新しい試みが始まります。これは私の夢の始まりでもあります。それが神様が与えてくださった私の夢だということに、去年気付かされました。そのことを皆さんにお話ししておきたいと思ったところから、今日のメッセージを考えました。私は「これが神様の国なんだ」と感動した経験が1回あります。カナダのトロントにあるサンクチュアリという教会での礼拝でした。その教会はトロントの中心街にあって、社会的に弱い人たちを助ける働きをしています。子供連れの一般的な家族や近隣の大学に通う学生、ひどい格好をしたホームレスのおじさん、知的障害のある人や車椅子の人、みんなが一緒に歌い、聖餐式のパンをちぎり、礼拝していました。奇声をあげる人もいたし、私からすれば海賊のような姿をした怖そうな人たちもいました。そこで感じたことを言葉にするのは難しいのですが、一人ひとりがそこで受け入れられ愛されているという喜びを、初めてそこに行った私もなぜか感じることができました。それは、こんな私のことをイエス様は知ってくださっていて、愛してくださっているんだと初めて知った時の喜びをさらに大きくしたような感じでした。私はそれがあまりに嬉しかったので、そんな場所を自分でも作りたいと思うようになりました。そしてその思いが消えなくて、ベトナムでの仕事をやめ、神学校に入ったのですが、そこからが戦いだったのかもしれません。というのは、自分があまりに小さく、人を愛せない人間であるかを年々思い知ったからです。自分がイエス様にありのままで受け入れられたことが嬉しかったし、そのことを他の人に伝えたいと思っているのに、自分には一人の人もそのままで受け入れることなんてできませんでした。それで、サンクチュアリのことは一つの良い経験として留めておけばいいと思うようになっていました。でも、できないことばかりの中で、やりたいという願いは消えませんでした。それをやっと去年受け止められたような気がします。

信仰によって、アブラハムは、自分が受け継ぐことになる土地に出て行くように召されたとき、これに従い、行く先を知らずに出て行きました。

 私に何ができるのか、ユアチャーチに何ができるのか、見えていることはまだわずかです。また、みなさん一人ひとりの人生においても、すぐ先のことは見えないことの方がほとんどでしょう。でも、私たちは目指すべきところは知っています。そこをすでに見ていて、味わっています。一人ひとりにはできないことの方が多いですが、神様の国に住む幸せ、イエス様に愛され、ともに愛し合う喜びを、伝え続けていきましょう。私たちの中に神様が確かに与えてくださった願いを確かめながら、これからを楽しみにしましょう。


メッセージのポイント

今年はどんなことが起こるのか、良いことも悪いことも、私たちには予想がつかないことの方が多いです。でも、イエス様を通してこの世界にもたらされた神様の国がなくなることはありません。イエス様が私たちを愛してくださっているように互いに愛し合う喜びを知りましょう。そうすれば、どんな状況にあろうと私たちは神様の国に住む幸せを味わえるでしょう。いつもこの喜びを確認して、他の人にも伝え続けましょう。

話し合いのために

1) 去年「愛することは難しい」と感じた経験をシェアしてください。
2) 神様の国に住む幸せを味わっていますか?具体的に教えてください。
 

子供たちのために

今年楽しみにしていることがたくさんあると思います。ゆううつだな、と思っていることもあるかもしれません。でも、みんなはイエス様はどんな時でも変わらずにみんなのことを大好きだと知っています。アブラハムもそのことを知っていたので、神様の命令に従って行き先を知らないまま旅に出て、慣れない外国の地でも安心して住むことができました。みんなも、嬉しい時も不安な時もイエス様が一緒にいてくださるということを、今年もたくさん経験してください。自分で心の中のイエス様に話しかけて確かめてください。