「主を信頼しよう」と言い合おう!

「主を信頼しよう」と言い合おう!

(詩編 62)

永原アンディ

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 今日の詩編は「歌」としての形が、とてもわかりやすいものです。最初の一節は表題です。

【指揮者によって。エドトンに合わせて。賛歌。ダビデの詩。】
For the director of music. For Jeduthun. A psalm of David.

エドトンは人か楽器のメロディーの名前だと考えられていますが、どの仮説も決定的ではありません。本文は2節づつブロックになっていて、今の言い方で言うなら、同じメロディー、コード進行で1番、2番と歌った後、前とは異なるメロディーで後半部分が歌われたのだと思います。それでは、少しずつ分けて読んでいきます。まず1番の部分です。


A. 現実に隠された真実(2-9)

1) 自分の信仰と目に見える現実 (2-5)

2 私の魂はただ神に向かって沈黙する。私の救いは神から。
3 神こそ、わが大岩、わが救い、わが砦。私は決して揺らぐことがない。

4 いつまでお前たちは人に襲いかかり、一団となって殺すのか
倒される壁、崩される石垣のように。
5 彼らは人をその地位から引きずり下ろそうと謀り
偽りを喜び、口で祝福し、腹の底では呪う〔セラ

 「神様は完全に信頼できる方」と私たちは知っています。しかし一方で、自分が「敬虔なクリスチャン」「強い信仰を持っている」とは決して思いません。心配な事がないときには信頼しているけれど、問題が起こると信仰はどこに行ったのだろうと思ってしまうような私たちです。口に言い表す信仰の言葉と心のギャップがありすぎて、自分は不誠実なクリスチャン、自分は失格者なのではないかと感じてしまう人さえいます。まず最初に言っておきますが、そう感じるのは正常です!永く詩編の詩人たちの信仰を見てきましたが、自分と同じなのだと思ったのではないでしょうか?詩人だけではありません。イエスの弟子たちも、パウロも、自分がそうであることを知っています。自分の感情や肉体が恐ろしい現実に反応して、知っていたはずの神様の真理が怪しくなってしまうのです。詩人はそのような自分の心の揺れを正直に表現しています。ですから、どんな心の状態でもこう言って良いのです。

2 私の魂はただ神に向かって沈黙する。私の救いは神から。
3 神こそ、わが大岩、わが救い、わが砦。私は決して揺らぐことがない

この詩人が置かれていたような状況にあってもです。この後、今までの学びでおなじみの悪者に対する言葉が続いていますが、注目したいのは、それが遠く離れた敵国の悪ではなく、口では彼を祝福すると言えるほど近くに存在する人々だということです。近くにいる者や、一時は親しかった者からの攻撃はより辛いものでしょう。

2) 自分の信仰と神様の真実 (6-9)

そしておそらく同じメロディーがもう一度繰り返されます読んでみましょう。

6 私の魂よ、ただ神に向かって沈黙せよ。私の希望は神から。
7 神こそ、わが大岩、わが救い、わが砦。私は揺らぐことがない。

8 神にこそ、私の救いと栄光はある。
わが力なる大岩、逃れ場は神のもとに。
9 民よ、どのような時にも神に信頼せよ。
御前に心を注ぎ出せ。
神は私たちの避けどころ。〔セラ

 始まりの2節が、1番とよく似ていることに気付きます。しかしよく見ると、一番では「沈黙する・My soul finds rest」言い切っていたのに、2番では、「沈黙せよ・Find rest, O my soul」と、そう出来ない自分の心に命じています。1番では自信を持って「決して・never」と言っていたのもやめてしまいました。
  本筋ではありませんが、日本語では沈黙(silence)、NIVでは憩う(rests)は他の英語訳の多くでは「沈黙して待つ・waits in silence」と訳されている原語で、<黙っている><安らいでいる><待っている>の三つのニュアンスを持った言葉です。「口数多く言い立てず、リラックスして、神様が語られるのを待つ」ことは神様の前に立つ私たちの基本的な態度です。
 いずれにしても、そうすることが私たちには難しいということを詩人は正直に告白しているのです。私たちも、彼のように自分の心に言い聞かせなければ、恐れに、不安に、怒りに負けてしまう者なのです。
 詩人は自分に命じるだけでなく、悪い人々のことを嘆くのではなく、神様の素晴らしさを自分に言い聞かせています。そう、心に命じるだけでは不十分なのです。私たちの心はそんなにタフではありません。

「神にこそ、私の救いと栄光はある。わが力なる大岩、逃れ場は神のもとに」

と何度も言い聞かせる必要があるのです。そしてさらに、自分以外の人々にも呼びかけます。

「民よ、どのような時にも神に信頼せよ。御前に心を注ぎ出せ。神は私たちの避けどころ。」

 ここが今日のメッセージのタイトルの言っていることです。お互いに強い時もあれば弱さの中にいる時もあります。自分では「私の救いは神から、私は揺らぐことがない」と言えなくても、私たちは誰かに肩を支えてもらいながら、その人が「私の救いは神から、私は揺らぐことがない」というのを聞いて、主がいてくださることを感じることができるのです。
 詩人は自分が不安の中にあっても、人々に主を信頼しようと呼びかけているように、現代の説教者たちも同じです。実際に私も、かなり辛い中にいて、神様はどこに・・・と思いながら、お話ししている時がないわけではありません。しかし、それが偽善とは違うものであることを確信しています。皆さんも自分の信仰がどうであっても、人を励ましたい、慰めたいと思えるなら、躊躇せずに「神様の真実」を口にすればいいのです。


B. 時代を超える真実(10-13)

1) 強くなろうとするのではなく (10,11)

10 人間の子は息のようなもの。人の子は欺き、秤にかければ
共に息よりも軽い。
11 暴力に頼るな。略奪に虚しい望みをおくな。富が増えても、心を奪われるな。

 日本では「宗教は、特に弱い人間のためのもので、普通の人には要らない」と揶揄されることがあります。しかし、ここで言われている通りに、本当に強い人はいません。もっと強くなりたいので、頭を鍛えて、体を鍛えて、少しでも人より強くなろうとし、さらに強くなるために、相手が弱いと思えば暴力で支配しようし、チャンスがあれば相手のものを奪って自分のものとしようとします。富が増えれば、それを守ろう、増やそうとそのことばかりに心を奪われてしまいます。しかし、この競争はきりがありません。意味がないどころか有害です。かつて主にアメリカとソビエトが競って核兵器を増やし、1985年ころまでに地球上に蓄積された核兵器の総量は、広島型原爆の147万発に相当し、地球上の人類を35回以上殺せるほどの量になったほど、人類は愚かなのです。

2) 神様への信頼を深めよう (12,13)

ですから私たちがすべきことは、より多く持つことでもより強くなることでもありません。詩人の意見を聞いてみましょう。

12 一つのことを神は語り、二つのことを私は聞いた。力は神のもとのある、と。13 わが主よ、慈しみはあなたのもとにあり、あなたは一人一人に、その業に応じて報いをお与えになります。

 私たちがするべきことは、力ある神様、主への信頼です。力だけではありません。私たちに対する慈しみにおいても、愛においても、いつも変わらない主に、信頼を置く事が一番大切な事です。時代が変わっても、どんな国に住んでいても、どんな文化の中にいても、全ての人にとって、それが神様の真実なのです。
 
 だから、いつも、どんな時でも主に心からの礼拝を捧げ、弱っている時でも、自分に言い聞かせ、人々にも伝えましょう。「主を信頼しましょう!」


メッセージのポイント

神様を信頼することは、誰にとっても簡単なことではありません。私たちは、どんなに多くの恵みをいただいていても、感謝の思いがあっても、取り巻く現実に、恐れや不安や怒りで、神様への信頼を失いやすい者なのです。だからイエスは、私たちが目に見える現実によって真実を見失わないように、互いに支え合う、ご自身の体=教会をくださっています。

話し合いのために

1) よく似ている2,3節と5,6節ですが、どのような違いがありますか? 
2) どうしたらもっと強くなることが出来ますか?

子供たちのために

イエス様を信じるってどういうこと?困った時、辛い時、祈ったらイエス様は助けてくれた?どのように?親のために、家族のために、お友達のために祈ってあげたことがありますか?どのようなことを?それはとてっも大切で、皆さんにしてもらいたいことだけれども、祈るだけではなく「神様がいるから大丈夫だよ!」と励ますことが出来ます。神様がいることは信じていても「助けてもらえる気がしない」と感じることは、大人でも、子供でも、誰にでもあります。今度誰かが困っていたら、辛そうだったら、どうしたの?と聞いて、祈ってあげたり、「イエス様がいるから大丈夫、私はそう信じている」と言ってあげましょう。