ただ信じなさい!

ただ信じなさい!

(マルコ 5:21-43)

池田真理

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  前回、イエス様と弟子たちはガリラヤ湖の向こう岸の異邦人の土地に到着しましたが、イエス様が悪霊追放の奇跡を行なったために、すぐに追放されてしまったというお話を読みました。今日の箇所は、ガリラヤ湖をまた横断してユダヤ人の土地に戻ってきたところから始まります。イエス様が帰ってきたという噂はあっという間にユダヤ人の間で広まったようで、大勢の人が湖の岸辺に押し寄せました。最初に21-24節を読みます。


A. 絶望

1) ヤイロの絶望 (21-24)

21 イエスが舟で再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。22 会堂長の一人でヤイロと言う人が来て、イエスを見ると足元にひれ伏して、23 しきりに願った。「私の幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」24 そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけられた。大勢の群衆も、イエスに押し迫りながら付いて行った。

 ヤイロという人が登場しています。会堂長というのはユダヤ教の会堂(シナゴーグ)の取りまとめ役で、一信徒にすぎず、律法学者やファリサイ派の学者のような宗教専門家ではなかったそうです。おそらく自分の職業は別にあって、会堂での責任者も務めていたということだと思います。その娘が危篤状態でした。その娘さんは、最後に出てきますが、12歳だったとあるので、ヤイロは30代か40代のお父さんだったはずです。ヤイロはイエス様の足元にひれ伏して、しきりに願った、とあります。自分の娘が死んでしまうかもしれないという恐怖と絶望の中で、彼はイエス様に最後の望みをかけていました。他に誰も頼れない、誰もどうしようもない、そんな状況に彼はいました。
 そして、もう一人、同じように絶望的な状況に置かれている人が登場します。25-28節に進みます。

2) ある女性の絶望 (25-28)

25 さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。26 多くの医者からひどい目に遭わされ、全財産を使い果たしたが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。27 イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの衣に触れた。28 「せめて、この方の衣にでも触れれば治していただける」と思ったからである。

 この女性は、ヤイロとは違って、静かにイエス様に近づきました。ヤイロはイエス様の足元にひれ伏して、正面からイエス様に訴えましたが、この女性は声を出すことなく、ばれないように群衆に紛れ込んで後ろからイエス様に近づきました。そこには、この女性が長年苦しんできた病気が関わっています。出血が止まらないというのは、婦人科の病気だと考えられます。当時のユダヤ人の社会では、女性の月経は汚れたものとされて、月経期間中は身を隠していなければいけないという掟がありました。ですから、この女性は十二年間ずっと、病気に苦しむだけでなく、人前に出ることを制限され、社会的にも孤立してきたのです。多くの医者にかかり、全財産を使ったというのは、そんな状態から脱したいと願った彼女の苦しみの結果です。にも関わらず、ここまで病気は一向に良くなりませんでした。この女性は、体も心も傷つき、経済的にも社会的にも追い詰められた状態にありました。そんな時にイエス様の噂を聞いて、この人は、人前に出てはいけないという掟を破って、外に出ました。他の人に自分だということが分からないように、人混みに紛れて、少しずつイエス様に近づき、手を延ばしました。十二年間も汚れた者という恥を負わされて生きてきたこの人には、まだ、公衆の面前でイエス様に訴える勇気はなかったのです。そうする資格もないと思っていたのかもしれません。
 イエス様は、ヤイロの娘の元に急がなければいけませんでしたが、この女性に気が付き、立ち止まりました。29-34節です。


B. イエス様の救い

1) 病気の癒し以上の癒し「出会い」 (29-34)

29 すると、すぐ出血が止まり、病苦から解放されたことをその身に感じた。30 イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気付いて、群衆の中で振り返り、「私の衣に触れたのはだれか」と言われた。31 弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『私に触れたのは誰か』とおっしゃるのですか。」32 しかし、イエスは、触れた女を見つけようと、辺りを見回された。33 女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。34 イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。病苦から解放されて、達者でいなさい。」

 一人の女性の病気が癒されたことを、イエス様と本人以外は気付いていませんでした。だから、弟子たちはイエス様がまたつまらないことにこだわっていると思って、イライラしました。ヤイロも一刻も早くイエス様を自分の娘のところに連れて行きたかったはずです。ヤイロは焦り、弟子たちがいら立つ中で、イエス様はあくまで、癒された女性を見つけようとしました。「誰か癒されたみたいだが、先を急ぐから放っておこう」とは思われなかったのです。なぜでしょうか?それは、イエス様がただ病気を癒す方ではなく、私たち一人ひとりと出会い、知り合うことを望む方だからです。ここに、イエス様の救いの本質があります。
 イエス様の救いは、単に病気の癒しや問題の解決を与えるというものではありません。たとえ病気が癒されなくても、問題がすぐに解決しなくても、変わらない希望、それがイエス様の与えてくださる救いです。この女性にとっても、病気が癒されることも重要でしたが、それ以上に必要だったのは、神様は自分を覚えておられたという確信です。それはイエス様の言葉にあります。「あなたの信仰があなたを救った。安心しなさい。元気でいなさい。」これは、「神様はあなたを忘れていなかった。あなたの苦しみを知っておられた。そして、あなたが元気に暮らしていくことを望んでおられる」ということです。
 イエス様は、すべての人がこの確信を持つことができるように、自分自身を与えてくださいました。イエス様と同時代に生きた人たちには、目に見える姿で、耳に聞こえる言葉で、語りかけました。イエス様より後に生まれたすべての人たちには、私たちも含めて、十字架という出来事を通して、心に語りかけられています。「私はあなたに絶望の中で滅んでほしくない。だから、あなたの苦しみを引き受けて、あなたの代わりに死んだ。」この語りかけを聞くことが、どんな状況でも消えない希望の源です。それは、実際の苦しみがなくならなくても、私たちに現実と向き合う勇気をもたらしてくれるはずです。
 イエス様は、この女性にあくまで名乗り出ることを求めたように、私たちの心にも語りかけています。「あなたはどこにいるのか?あなたの苦しみは何か?」神様であるイエス様は、私たちのことは全部知っているし、私たちが何を苦しんでいるのかも全て知っています。それでも、私たちが自分でイエス様に自分の思い、願いを話すことを望まれます。私たちの思いをイエス様に告白し、イエス様の語りかけをよく聞きましょう。
 それでは、物語の続きに戻ります。残りの35-43節全部を読みます。

2) 死を超えた希望 (35-43)

35 イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」36 イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。37 そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、誰も付いて来ることをお許しにならなかった。38 一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、39 家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子どもは死んだのではない。眠っているのだ。」40 人々はイエスを嘲笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子どもの父母、それに自分の供の者だけを連れて、子どものいる所へ入って行かれた。41 そして、子どもの手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、さあ、起きなさい」という意味である。42 少女はすぐに起き上がって、歩きだした。十二歳にもなっていたからである。それを見るや、人々は卒倒するほど驚いた。43 イエスはこのことを誰にも知らせないようにと厳しく命じ、また、少女に食べ物を与えるようにと言われた。

 イエス様が女性とのやりとりに時間をとっているうちに、ヤイロの娘は死んでしまったという知らせが入りました。ヤイロは愕然としたでしょう。弟子たちも、そこにいた人たちもみんな、イエス様は間に合わなかった、とがっかりしたはずです。でも、そんなことはありませんでした。死さえも、イエス様にとっては取り返しのつかないことではなかったからです。イエス様は、死んでしまった女の子を生き返らせて、人々を驚かせました。
 この出来事は私たちに、死を超えた希望があるということを教えてくれています。イエス様にとっては、死もすべての終わりではなく、絶望ではありません。それは、イエス様の復活によって明らかになりました。ですから、この女の子の蘇りというのは、イエス様の復活の力を先取りして教えてくれているとも言えます。私たちはヤイロとは違って、どんなに願っても、死んでしまった大切な人が生き返るということを経験できることはないでしょう。また、自分自身が死にたくないと思っても、受け入れなければいけない時もあります。そんな時、もし肉体の死がすべての終わりだとしたら、私たちは絶望するしかありません。でも、そうではないと教えてくれているのが、イエス様の復活の出来事です。イエス様は死からよみがえり、肉体の死の先に復活の命があると教えてくれました。肉体の死は通過点に過ぎず、私たちは体が生きていても死んでいても、イエス様と一緒に生きることができます。それが私たちにすでに与えられている永遠の命です。だから私たちは、体が死ぬとしても絶望しません。生きていても死んでいても、私たちは同じ方に希望を置いているからです。

C. 信仰とは

 それでは最後に、今日の物語全体を振り返りたいと思います。今日の物語は一見、関係ない話が二つつながっているように思えます。ヤイロの話と、ある女性の話です。この二人は非常に対照的です。まず、最初の方にお話したように、ヤイロは正面からイエス様に助けを求めたのに対して、女性は後ろから静かに近づきました。これは、二人の社会的な地位の違いでもあります。ヤイロは男性、女性は女性。ヤイロはみんなをまとめる会堂長で、女性は長年人前に出ることを禁じられた汚れた人。だいたい、この女性の名前すら記録されていません。でも、二人には共通点が一つありました。それは、二人とも、絶望的な状況にあって、「もうイエス様しかいない」という必死な思いで助けを求めたことです。そして、二人の願いは両方とも叶えられました。ただし、二人に対するイエス様の言葉は少し違います。女性には「あなたの信仰があなたを救った」、ヤイロには「ただ信じなさい」です。これは別に、イエス様が女性の信仰をほめて、ヤイロの信仰が弱いと批判している訳ではありません。救いが起こる前と後の違いです。でも、「ただ信じる」とはどういうことなのか、それを教えてくれるのがこの女性です。女性は、「せめて、この方の衣にでも触れれば治していただける」と、イエス様に手を伸ばしました。人には理解されない苦しみを抱えて、イエス様の後ろ姿でもあきらめず、助けを求めました。それをイエス様は「信仰」と呼びました。イエス様はヤイロに言ったように、私たちにも「ただ信じなさい」と言っておられます。この女性のように、あきらめずに助けを求めて、信じなさいと。そこには、社会的地位の違いや、人に理解されているかいないかは関係ありません。「ただ私を信じなさい。死も恐れる必要はない。死の先にある、今すでに始まっている永遠の命を信じなさい。」私たち一人一人に語りかける、イエス様の声を聞きましょう。


メッセージのポイント

イエス様の与える救いというのは、単に病気の癒しや問題の解決というだけではなく、イエス様ご自身です。神様が私たち一人ひとりに関わり、命を捧げるほど私たちを愛してくださっているところに、私たちの救いがあります。それは、どんな絶望的な状況にあっても消えることのない希望です。死さえも、私たちは恐れる必要がありません。

話し合いのために

1) なぜイエス様はこの女性に名乗り出ることを求めたのしょうか?
2) この女性の信仰とは?

子供たちのために

全体は長いので、女性とイエス様の話の方にしぼってください。なぜ、イエス様は癒された女性が誰なのか、知ろうとしたんでしょうか?「あ、誰かが癒された、まあいいか」で終わらなかったのはなぜでしょうか?話し合ってみてください。イエス様は、ただ大勢の人の病気を治すことを目的にしていたのではなく、一人ひとりと関わって、知り合いになろうとしました。そして、助けを求めた女性に安心して新しい人生を歩んでほしいと願いました。イエス様は私たち一人ひとりと関わって、友達になることを、何より喜んでくださいます。