「何があったんだ?」と聞くイエス

❖ 見る

第1礼拝(日本語)

第2礼拝(日本語・英語)


❖ 聴く

第一礼拝 (日本語)

第二礼拝 (日本語 / 英語)


❖ 読む

「何があったんだ?」と聞くイエス

(ルカ24:13-31)

永原アンディ

 イースターの朝の出来事について、ここ数年、イエスの葬られた墓で起こった出来事についてお話ししてきましたが、今日は、ルカによる福音書の24章に記されている、その日の午後起こったことにフォーカスしたいと思います。最初に13-15節を読みます。

A. イエスがわからない

1) 第三者のように登場するイエス (13-15)

この日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいて来て、一緒に歩いて行かれた。

 ギリシャ語のクイズから始めましょう。スタディオンは今の英語にも引き継がれている言葉ですが、思いつく人はいますか?スタジアム(競技場)です。元の意味は「人々が立つところ」です。スタジアムには必ずあるスタンド(観客席)も同じ語源です。つまり元々は立ち席のみだったわけです。紀元前776年に始まった古代オリンピックの競技種目は約180m走一つだけでした。ですから競技場にはその直線コースがあるだけでした。この距離がスタディオンという単位にもなったのです。エルサレムからエマオまで、60スタディオン、11km弱ということになります。おそらくそこに彼らの家があったのです。

 そのエマオに向かう途中、復活したイエスは現れ一緒に歩き始めるのですが、なぜか彼らはそれがイエスだとは気づきません。イエス自身も「わたしだよ」と言わずに、他人の様に振舞っています。次に読む部分では「二人の目は遮られていて」とありますが、要は彼らが、復活したイエスが自分の前に再び現れることなど絶対にあり得ないと思っていたからでしょう。

2) 説明させるイエス (16-18)

そんな二人に、イエスはこう尋ねるのです。

しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。それで、二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、ここ数日そこで起こったことを、あなただけがご存じないのですか。」

 クレオパたちは、十字架の金曜日から復活の日曜日までエルサレムにとどまっていたようです。そして家に帰って行くのですが、全くハッピーではない事がわかります。空の墓が何を意味するのか?全く理解していません。イエスが十字架にかかって死んだことはエルサレム中の話題になっていました。それなのにイエスは、エルサレムの方からやって来たのに、知らないふりをして彼らの理解を試そうとしたのです。

3) 墓が空でも信じられない弟子たち (19-24)

イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、私たちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡し、十字架につけてしまったのです。私たちは、この方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の女たちが私たちを驚かせました。女たちが朝早く墓へ行きますと、遺体が見当たらないので、戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。それで、仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、女たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」

  彼らの理解の限界がはっきりとわかる説明です。彼らがイエスに期待していたことは、ローマ帝国の支配からのイスラエル民族の解放でした。確かにイエスの力あるわざや、言葉は当時の指導者たちには見られないものでした。でも、イエスが与えようとした解放は、彼らの期待とは次元の違う者だったのです。今でもイエスに同じ期待をかけて近づく人が後を絶えません。要は「自分の願いを叶えてくれる」ヒーローとしてのイエスです。イエスの十字架は、イエスが人々の期待していたヒーローとは全く違うことを示しています。実際イエスは、そんなことをするつもりはなく、避ければ避けられたのに、避けることなく十字架で死んだのです。彼らの失望の本質はここにあります。十字架が勝利とは思えない人々です。彼らにとっては、墓が空だったことなどあまり重要なことではありませんでした。それを見ても、せいぜい誰かが運び去ってしまった、誰だろう?という驚きであっただけで、復活の喜びなどでは決してありませんでした。そのような彼らの心の状態ではイエスに気付けるわけはありませんでした。しかし次のプロセスを経て彼らの目は開かれました。読んでゆきましょう。25-27節です。


B. どうしたらイエスを主と信じられるのか?

1) 頭で理解する (25-27)

そこで、イエスは言われた。「ああ、愚かで心が鈍く、預言者たちの語ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこれらの苦しみを受けて、栄光に入るはずではなかったか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書いてあることを説き明かされた。

 まず彼らがイエスに指摘されたことは、旧約聖書の預言を正しく受け止めていなかったということです。最もそれは彼らだけが責められることではありません。彼らを教えてきた宗教指導者たちもそうだったのですから。彼らの誤った聖書理解(当時はもちろん旧約聖書しか存在しませんでした)自体がイエスを受け入れられなかったということです。ここでのイエスの非難は、彼らだけではなく、当時のすべての人々に向けられていたのです。

 そして私たちも、この警告に耳を傾けなければなりません。それは、イエスの復活を信じている私たちでさえ、イエスは自分の願いを叶えるために来られたという誤解に陥ることがあるからです。自分の敵を倒してくれる、他の宗教を持っている人々を苦しませてくれる。自分に社会的、経済的成功をもたらしてくれる。まるで、議員や大統領の候補者に期待するような自分への利益を期待してイエスを探しても、本当のイエスは見えないのです。私たちが求められているのは、イエスのように神と人とに寄り添う生き方です。

 イエスは、旧約聖書からご自身について書かれていることを説明されたと27節にあります。どんなお話をされたのか興味深いですが、残念ながら具体的には書かれていません。旧約聖書のどこにもイエスへの直接的な言及はありません。しかし私たちは、旧約聖書の中に多くのイエスについての預言や、前触れを見いだすことができます。例えば前回お話しした「過越」の出来事もそうだったのです。それらがイエスの言動を記した新約聖書とともに読まれるようになって初めて、その真の意味を私たちが知ることができるようになったのです。以前にイエスというレンズを通して旧約聖書を読むというお話をしましたが、そうでなければ旧約聖書を正しく読めません。また一方で、旧約聖書を知らなければ、新約聖書の理解は浅いものになってしまいます。

 このイエスの話を聞いて「私たちの心は燃えた」(32)と二人は告白しています。しかし、それでもまだ彼らの心の目は開かれていませんでした。イエスをともにおられる神・主と信じるために、私たちにはもう一つのステップが必要なのです。28-31節を読みます。

2) 心に触れられる (28-31)

一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いています」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、祝福して裂き、二人にお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。

 もう彼らはエマオの村の入り口まで来ていました。弟子の家に近づいても、イエスはさらに先に進もうとなさいます。しかし、彼らは、イエスを行かせてはならないと感じたのでした。まだ目は開かれてはいません。それでもこの旅人を引き留めて、もっと話を聞かせて欲しかったのでしょう。

 しかし彼らが目を開かれたのは、続きのお話を聞いたからではありませんでした。それはイエスがパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった時でした。

 ここで私たちが心に留めるべきことは、主の言葉を聖書を通して正しく学ばなければならないのは当然のことだけれども、それだけではイエスを見ることはできないということです。それは別の方向を、イエスの道と誤解してついていってしまうということです。イエスは二人の目を、聖餐式によって開かれました。私たちにとっては礼拝を捧げることを生活の最優先事項にするということです。日曜日の朝は教会に来なけれないけませんという話ではありません。ここに毎週来て、お話を熱心に聞いていてくださったとしても、礼拝の歌を上手に、大きな声で歌ったとしても、心がイエスに向かっていないなら、それは礼拝ではありません。ほとんどここに来られなくても、一人でイエスの前に進み出て、イエスとほんの少しの時でも共に過ごすことを、日々の生活の中で大切にしているなら、礼拝を生活の最優先事項にしていることなのです。長さ、回数、場所が問題なのではありません。これからも、神の言葉を学ぶこと、礼拝することを大切にして、一人一人のために、十字架にかかり、三日目によみがえられたイエスと共に歩み続けましょう。


メッセージのポイント

「イエスキリストに従って生きている」「イエスと共に歩んでいる」そのような確信を持つためには神秘的な経験は必要ありません。そういったことを強調しすぎると、別の声をイエスと聞き間違えて失敗してしまいます。必要なのは、聖書に記された神の言葉を注意深く読み続けることと、聖霊が触れてくださることを期待して礼拝し続けること、聖餐に預かり続けることです。

話し合いのために

1) なぜイエスは他人事のように尋ねたのでしょう? 
2) なぜ弟子たちはなかなかイエスに気付けなかったのでしょうか?

子供たちのために

子供達にはこの箇所ではなく、マタイ28、マルコ16、ルカ24、ヨハネ20などの墓地での出来事を話してあげてください。