イエス様についていく覚悟はありますか?

❖ 見る

第1礼拝(日本語)

第2礼拝(日本語・英語)


❖ 聴く

第一礼拝 (日本語)

第二礼拝 (日本語 / 英語)


❖ 読む

イエス様についていく覚悟はありますか?

(マルコ 6:6b-30)

池田真理

 今日のタイトルは脅かすようなタイトルですが、脅かしているわけではないということをメッセージの最後に受け取っていただければと思います。早速読んでいきたいと思いますが、今日は聖書箇所がだいぶ長いです。この箇所は続けて読まなければ本来の意味がなくなってしまうので、一回にまとめました。本文に入っていく前に、そのことを今日はまずお話ししたいと思います。

0. なぜマルコはこの順番で書いたのか?

 今日の聖書箇所全体を少し眺めてみてください。13節まではイエス様が十二人の使徒たちを派遣する場面ですが、それ以降は突然、洗礼者ヨハネの処刑のエピソードに変わります。ヨハネの処刑は現在起こっていることではなく、ヨハネを処刑したヘロデが回想しているという形です。それから30節で十二人の使徒たちが帰ってきた場面に戻ります。これは、十二人の使徒たちの派遣の出来事の間に、ヨハネの死という出来事の回想が挿入されていることになります。なぜマルコはこの順番で書いたのでしょうか?そこには、マルコの明らかな意図があります。それは、イエス様に選ばれて派遣されていく弟子たちは、やがてヨハネと同じように殺されることになると示す意図です。イエス様についていくということは、イエス様と共に生きると同時に、イエス様と同じように死ぬことも意味します。それはちょうどヨハネが殺されてしまったのと同じです。マルコは、ここにヨハネの死のエピソードを挿入することで、この世界でイエス様についていくということの厳しさを、読者に示そうとしたのです。
 イエス様についていくのは厳しいことだと、皆さんは感じているでしょうか、いないでしょうか?今日の箇所では、イエス様についていくことの厳しさを二つの面から教えてくれます。一つは、私たちは自分にできないことをさせられるということ。もう一つは、私たちは自分の生きている間は自分の働きに対する報いは受けられないかもしれないということです。能力外のことをやらせて、しかも報いてくれないなんて、イエス様はブラック企業の社長のようですが、そうではないということを確かめていきたいと思います。まず、6b-13, 30節を読んでいきましょう。


1. イエス様は私たちにできないことを任せる

それから、イエスは、近くの村を教えて回られた。 7 イエスは、十二人を呼び寄せ、二人ずつ遣わすことにされた。その際、汚れた霊を追い出す権能を授け、8 次のように命じられた。旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、9 ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と。10 また、こう言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から出て行くまでは、そこにとどまりなさい。11 あなたがたを受け入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があれば、そこを出ていくとき、彼らへの抗議のしるしに足の塵を払い落としなさい。」12 十二人は出て行って、悔い改めを宣べ伝えた。13 また、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人を癒やした。

30 使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えてことを残らず報告した。

a. さわしくない者を選んで、ほとんど何も持たせずに送り出す

 私はこれまで聖書を読んできて、今日の箇所のように、イエス様が弟子たちを派遣するという記事に、何となく疑問を持っていました。弟子たちはイエス様のことをまだ全然分かっていませんでしたし、イエス様の十字架の出来事の前に彼らを派遣することに何の意味があるのか、よく分からなかったからです。でも、今回改めてこの箇所を読んでいて、気づかされました。イエス様は、私たちが到底ふさわしくないと思うような人を選んで送り出す方なのです。私たちは、この時点で彼らを送り出すのは早すぎる、と思います。でも、イエス様の考えは違うのです。
 弟子たちは、イエス様から、「今からあなたたちは私がしてきたように人々に教え、悪霊を追い出し、病人を癒しに行きなさい」と言われた時、どう感じたのでしょうか?とても戸惑ったと思います。自分にはそんな力はないと知っていたからです。また、イエス様は弟子たちにほとんど持ち物を持たせませんでした。食糧もお金も衣類も、旅をするなら普通は必要だと思われるものを全て、持って行かせてくれませんでした。旅先で出会う人々に頼るしかない状況に彼らを追い込んだと言えます。旅人をもてなすのは当時のユダヤ人の習慣だったので、現代の私たちの感覚をそのまま当てはめることはできませんが、それでもこの状況は弟子たちをとても弱い立場に置きます。自分の能力以上のことを求められて戸惑う弟子たちを、さらに弱い立場に追い込んで不安にさせるとは、イエス様は意地悪なんでしょうか。
 でも、弟子たちが実際に出て行ってみると、不足するものはなく、イエス様の言われた通りのことができました。それは単純に、彼らの力ではなく、イエス様の力が彼らに注がれたからです。そのことを誰よりも彼ら自身が驚かされ、確信して喜んだでしょう。
 このことは、イエス様についていくということの本質です。イエス様を信じるということは、それ自体が私たちの力でできることではありません。そして、イエス様の生きたように生きること、イエス様が考えるように考え、話したように話し、行動したように行動することを、私たちは目指していますが、それは本当は私たちにできることではありません。そして、その延長上には、時に、私たちには到底無理だと思うようなことをしなさいと言われる時があります。それは、私たちができないからこそ、やるように選ばれているとも言えます。そんな時、私たちがするべきことはただ一つ、イエス様を信頼して一歩を踏み出してみることです。イエス様は、私たちを支え、導き、必要を満たしてくださいます。そのように進むことによって、私たちは神様の素晴らしい働きに参加することができます。「私にはできません」と拒んでしまえば、私たちにできないことをさせてくださる神様の恵みを受け取ることはできません。

b. 良い関係を大切にし、悪い関係は主に委ねなさい

 イエス様は、弟子たちにもう一つ命令をしました。

 どこでも、ある家に入ったら、その土地から出て行くまでは、そこにとどまりなさい。あなたがたを受け入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があれば、そこを出ていくとき、彼らへの抗議のしるしに足の塵を払い落としなさい。

この命令を私たちに当てはめて言い換えると、「良い関係を大切にし、悪い関係は主に委ねなさい」ということです。私たちは様々な人間関係の中に生きています。弟子たちのように、私たちはその人たちのところにイエス様によって派遣されていると言えます。

 良い出会いは、神様からの贈り物です。一つの家に留まりなさいとは、神様が出会わせてくれた良い人たちのことを大切にしなさいということです。その人たちは、イエス様のことを共に喜び、お互いの嬉しいことも悲しいことも共にできる人たちです。教会の人たちと言ってもいいですが、今は近くにいなくても神様の家族と言える人たちはそれぞれにいるので、一つの教会に限定する必要はありません。でも、私たち自身もその人たちも人間なので、いつも良い関係でいるわけではないかもしれません。それでも、神様がもういいと言われるまでは、愛し合う努力を続けるべきです。神様が出会わせてくださった人たちを、自分の気分一つで軽く見てはいけないということです。

 でも、私たちにはどうしようもない時もあります。そんな時は、その人たちのことを全て神様に委ねましょう。「足の塵を払い落としなさい」というイエス様の命令は、ユダヤ人が異邦人の土地から出るときにしていた習慣に基づいています。彼らは間違っているが、彼らのことは神様の裁きに任せるという意味です。私たちはその人たちのために自分にできることをしたら、その後はその人たちのことについて責任を負う必要はありません。神様に委ねて、手を離していいのです。神様はその人たちのことを私たちよりもよく知っておられて、神様のタイミングで神様のやり方でその人たちにも教えてくださいます。それを期待して忍耐強く待つのも私たちの役割です。

 それでは最後に、マルコが伝えたかった、イエス様についていくことの厳しさのもう一つを見ていきましょう。ヨハネの処刑の回想、14-29節です。


b. 良い関係を大切にし、悪い関係は主に委ねなさい

 14 イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は、「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、あのような力が彼に働いている」と言っていた。15 他の人々は「彼はエリヤだ」と言い、また他の人々は「昔の預言者の一人のようだ」と言っていた。16 ヘロデはこれを聞いて、「私が首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言った。17 実は、ヘロデは、兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた。18 ヨハネがヘロデに、「兄弟の妻をめとることは許されない」と言っていたからである。19 そこで、ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。20 なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。21 ところが、良い機会が訪れた。ヘロデが、自分の誕生日に重臣や将校、ガリラヤの有力者たちを招き、宴会を催すと、22 ヘロディアの娘が入って来て踊りを踊り、ヘロデとその客を喜ばせた。そこで、王は少女に、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言った。23 さらに、「お前が願うなら、私の国の半分でもやろう」と固く誓ったのである。24 そこで、少女は座を外して、母親に、「何を願いましょうか」と言うと、母親は、「洗礼者ヨハネの首を」と言った。25 早速、少女は大急ぎで王のところに戻り、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願った。26 王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また列席者の手前、少女の願いを退けたくなかった。27 そこで、王はすぐに衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るようにと命じた。衛兵は出て行き、牢の中でヨハネの首をはね、28 盆に載せて持って来て少女に与え、少女はそれを母親に渡した。29 ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、やって来て、遺体を引き取り、墓に納めた。

 ヨハネの人生は、一見とても虚しい人生です。彼は捕まることが分かっていながら、ヘロデの間違いを指摘しました。それは勇気ある正しい行動でした。でも、彼の正しさは認められることなく、ただ疎まれ、恨まれてしまいました。ヘロディアの恨みというのは、彼女の後ろめたさと恐れによっています。本当は間違ったことをしていると知っているから後ろめたいし、でも手に入れた地位を手放すわけにはいかないという恐れです。そのために一人の人を殺してもいいと思ってしまうのは恐ろしいことですが、それが人間の残虐さです。そして、それはヘロデも同じです。ヘロデは、ヨハネを良い教師だと認めながらも、自分のメンツを保つためだけにヨハネを殺しました。正しさよりも自分の都合を優先し、人の命よりも自分のメンツを大切にするのです。ヨハネは、こんなつまらない理由で殺されてしまいました。彼の正しさが報われることはなく、権力者の都合によって、あっけなく殺されてしまったのです。それはまさしく、イエス様がたどる十字架の道と同じでした。
 これが人間の世界の現実だと、マルコは私たちに伝えています。イエス様の十字架の現実とも言えます。イエス様についていくということは、イエス様の十字架の道をたどるということでもあります。他人の自分勝手なつまらない理由で苦しめられ、苦労が報われない世界です。
 でも、それが全てではありません。ヨハネが捕まると分かっていながら正義を貫こうとしたのは、彼に自分の命よりも大切なものがあったからです。それは、主に従って生きるという生き方です。そして、イエス様が十字架の道を歩まれたのは、イエス様にも自分の命よりも大切なものがあったからです。それは私たちです私たちと新しい関係を結び、永遠に共に生きるために、イエス様は苦しみ死なれました。人間の歴史の中では、イエス様はただ当時の人たちに嫌われて処刑されてしまった過去の人物ですが、神様の見ている歴史の中では違います。ヨハネも、神様から見れば虚しい人生を送った人ではなく、最後まで主を愛して生きた祝福された人です。
 私たちにも、自分の命よりも大切なものがあるでしょうか?イエス様についていく喜びを、本当に受け取っているでしょうか?イエス様についていくことは、目に見えない神様の働きに参加することです。目に見えないので、人間の目から見ると、なんの成果もあげていないようで虚しく感じる時もあるかもしれません。傷ついて疲れてしまう時もあります。でも、神様の働きは私たちの見えないところでも進み続け、私たちが死んでしまっても続いていきます。私たちはみんな、この世界に期限つきで派遣されていて、期限つきで色んな人たちと関わっています。だから、今与えられている時間と機会を大切にしましょう。自分にはできないと思っても、イエス様がやりなさいと言われることなら、できます。目に見えない神様の働きを楽しみにして、歩み続けましょう。


メッセージのポイント

イエス様は、私たちが自分にはとてもできないと思うようなことをやらせる方です。それをするために必要と思われるものも、最初から全部そろえて与えてくれるわけでもありません。でも、イエス様に「行きなさい」と言われたら、ただ行かなければいけない時があります。それは目に見える結果を求めるのではなく、神様の目に見えない計画に参加する希望の旅です。

話し合いのために

1) 自分にはできないと感じても、イエス様はしなさいと言われていることはありますか? 
2) 生きている間に報われなくても希望があるのはなぜですか?

子供たちのために

6b-13を読んで、弟子たちの気持ちになってみてください。弟子たちはまだイエス様のこともよく分かっていなかったし、神様の計画なんて全然分かっていませんでした。それでもイエス様は彼らに自分がしていることと同じことをするように、力を与えて送り出しました。でも、旅に必要な持ち物は、ほとんど何も持って行かせてくれませんでした。イエス様の力に頼ること、イエス様を信頼することを知ってほしかったからです。子どもたちにも、自分に足りないものや苦手なことがあってもがっかりしないで、自分にできること以上にイエス様がしてくださることを楽しみにするように、励ましてください。