イエス様の憐れみ

Hole, William, 1846-1917 [Public domain]

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イエス様の憐れみ

(マルコ 6:30-44)

池田真理

 今日は有名な奇跡の物語を読んでいきます。早速少しずつ読んでいきましょう。最初に30-34節です。

A. 飼い主のいない羊のような私たち (30-34)

30 使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。31 イエスは、「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行き、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。32 そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで寂しい所へ行った。33 ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、方々の町から徒歩で駆けつけ、彼らより先にそこに着いた。34 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。

 最初に、この時の状況を確認しておきましょう。前回、イエス様は十二人の弟子たちを宣教のために近くの村々に送り出しました。今日の場面は、その弟子たちがイエス様のところに帰ってきたところから始まっています。イエス様の周りには多くの人が出入りしていて忙しすぎたので、イエス様は弟子たちだけを連れて休むために出て行こうとしました。でも、それは叶いませんでした。33節「ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、方々の町から徒歩で駆けつけ、彼らより先にそこに着いた。」この人たちが何をそこまで熱心にイエス様に期待していたのかは、ここには書いてありませんが、ヨハネによる福音書の同じエピソードの記録に、少しヒントがあります。

ヨハネ6:15「イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、独りでまた山に退かれた。」

 彼らがイエス様に望んでいたのは、自分たちの新しい王様になってくれることでした。このことは、聖書以外の歴史的な研究で明らかになっていることですが、彼らのイエス様に対する熱狂というのは、民族主義的な熱狂、ユダヤ教の原理主義に基づくものでした。今日のお話の舞台は、イエス様の故郷ガリラヤです。ガリラヤは、イエス様が生まれる前から、ユダヤ人のローマ帝国に対する抵抗運動の盛んな地域だったことが分かっています。そして、実際にこの後、イエス様の死後30年後にはユダヤ戦争が起こり、ガリラヤはユダヤ人とローマ帝国の全面対決の戦場となりました。そんなガリラヤにイエス様が現れた時、ガリラヤの人々は革命のリーダーが現れたと思ったのかもしれません。31節には「出入りする人が多くて食事をする暇もなかった」とありますが、これは単に癒しや教えを求める人々が出入りしていたのではなく、様々な人がイエス様に革命を起こす相談をしにやってきていたとも考えられます。彼らは危険な思想を持っていました。自分たちは選ばれた民族であるという誇りと、異邦人に支配されているという屈辱と怒り、自分たちは神様の代わりに裁きを下すのだというユダヤ民族中心の思想です。
 でも、イエス様は彼らを見て、「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた 」とあります。おそらく、彼ら自身は自分たちが迷子の羊のようだとは思っていなかったはずです。でも、イエス様からすれば、彼らは本当に必要なものを見ていない、間違った方向に進もうとしている、迷子の羊でした。
 私たちはみんな、彼らと同じです。私たちは危険な思想を持っているわけではないかもしれません。でも、誰でも、人生の進むべき方向、中心に置くべき大切なものは何か、無意識のうちに持っています。自分の命、お金、家族、仕事、いろんなものがあります。それぞれの価値観は違い、理想も違います。その中で、何が正しく、何が間違っているのか、本当に頼りになるものさしは神様しかいません。でも、私たちはどうしてもそれを忘れてしまって、それぞれのものさしを振り回してしまいます。それでは、危険な思想を持っていなかったとしても、互いの武器を振り回しているのと同じです。だから私たちも、イエス様からすれば、本当に頼りになるものを見ずに、間違った方向に進もうとしている、迷子の羊なのです。
 では、イエス様は迷子の羊をどのように導かれるのでしょうか。続きを読んでいきましょう。35-37節です。


B. 何もできない、する必要がないと思っている私たち (35-37)

35 そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちが御もとに来て言った。「ここは寂しい所で、もう時も遅くなりました。36 人々を解散し、周りの里や村へ行ってめいめいで何か食べる物を買うようにさせてください。」37 イエスはお答えになった。「あなたがたの手で食べ物をあげなさい。」弟子たちは、「私たちが二百デナリオンものパンを買いに行って、みんなに食べさせるのですか」と言った。

 弟子たちは当然の提案をしました。もう夕飯の時間なので、そろそろ解散にしましょうと。弟子たち自身も、本当は休むためにここまで来たのですし、疲れも空腹も限界だったのかもしれません。そんな弟子たちに、またイエス様は予想外の無理難題を持ちかけました。「あなたがたが食べ物をあげなさい。」弟子たちの驚きは、彼らの答えに現れています。「私たちがあげるのですか?これから大量のパンを買いに行けと言うのですか?」
 私たちは、この後の展開を知っているので、このイエス様の無理な提案と弟子たちの驚きを見過ごしてしまうことが多いと思います。でも、なぜ、何のために、イエス様はここで彼らと食事を共にしようとしたのでしょうか?人々は空腹だったかもしれませんが、病気の癒しや悪霊の追放とは違って、命に関わることではありません。弟子たちが考えたように、ここで解散にして、各自で夕飯を調達させることもできたのです。つまり、イエス様は、必要がないにもかかわらず、この大勢の人々と食事を共にすることを望まれたのです。なぜなのでしょうか?その答えは、やはり34節にしかありません。イエス様は、彼らを迷子の羊のように思い、憐れまれたのです。
 イエス様は、ガリラヤの人々の危険な思想をもちろん受け入れませんでしたが、彼らをただ拒否するのではなく、彼らに教え続けました。そしてさらに、意外なことを望まれました。彼らとピクニックすることを望まれたのです。それがイエス様の彼らに対する返答だったのかもしれません。ローマへの反逆を目論んで、目をギラギラさせている彼らを、夕暮れ時のピクニックに誘ったのです。しかも、それはこれから読んでいくように、神様の恵みの大きさを味わうピクニックでした。それがイエス様の憐れみであり、迷子の羊に対する導きです。
 私たちはこのことを、弟子たちと同様に驚き、なぜそんなことをする必要があるのかと疑います。そして、弟子たちが自分たちには到底そんなことをするほどのパンもお金も持っていないと思ったように、私たちも自分にはそんなことはできないと思います。私たちも疲れていて、お腹が空いています。私たちもイエス様を必要としていて、休みを必要としています。そして、目の前の人々の必要を満たすには、自分が持っているものはあまりに少なく、何の役にも立たないと思います。だから、できるわけがない、必要がないと思ってしまいます。でも、イエス様は私たちにも、「あなたがたがしなさい」と言われます。どうすればいいのでしょうか?残りを読んでいきましょう。


C. イエス様はそんな私たちを用いて、この世界を祝福される (38-44)

38 イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」39 イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。40 人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。41 イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで祝福し、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆にお分けになった。42 人々は皆、食べて満腹した。43 そして、パン切れと魚の残りを集めると、十二の籠いっぱいになった。44 パンを食べた人は、五千人であった。

 

 この翻訳ではパンを食べた人は5千人だったとありますが、前の新共同訳や英語の聖書では「男が5千人」とされているように、ここでは少なくとも男性だけで5千人、他に女性や子供もいたはずです。5切れのパンと2匹の魚が何の役にも立たないことは、誰が見ても明らかです。それでもイエス様はそれを用いて、半信半疑の弟子たちを用いて、人々に分け与えました。結果は、全員が満腹して、なお余りがあふれるほど出ました。迷子の羊も、戸惑う弟子たちも、みんな満足し、まだ余りがあったのです。
 私たちは、迷子の羊であると同時に、イエス様の弟子でもあります。間違った方向に突き進んでしまう時もあれば、自分には何もできないとあきらめてしまう時もあります。でも、その私たち全てを、イエス様はピクニックに、食卓に招いてくださっています。それも、私たちの持っているわずかなものを用いて、みんなが楽しめる食卓です。誰も不足することなく、みんなが満足して、さらに余りが出るほどの食卓です。
 現実には、世界に貧困があふれていて、誰もが満足して食べられているわけではありません。食べるものに困らなかったとしても、私たちは日々の生活のために苦労しています。そして、人生の意味を分からないままでいる、間違ったままでいる迷子の羊はあふれています。イエス様を知っていても、悲しいことや苦しいことがなくなるわけではありません。
 それでも、私たちはみんなイエス様の食卓に招かれています。そして、他の人をこの食卓に招くのは、私たちの役割です。イエス様の食卓には、尽きない恵みがあります。イエス様の内に、本当の満足と安心があります。私たちはそれを分け合うように、招かれています。それは、十字架で裂かれたイエス様の体、イエス様の愛を分け合うことです。イエス様の愛が尽きることはありません。そんな食卓があるとということを世界に伝えるために、イエス様は私たちを用いられます。「あなたがたがしなさい」とイエス様は言われました。私たちがわずかなものしか持っていないことを知った上で、そう言われています。それは、私たちのことも、豊かな食事に招くためでもあります。
 迷子の羊が迷子なのは、主人が誰なのか、どこに帰るべきかを見失っているからです。安心できて、満足できる場所があることを知れば、そこに戻ってくることができます。私たちは小さいですが、誰かのためにそういう場所になれます。私たちがなれるというより、イエス様が私たちを用いてくださいます。イエス様の招いてくださる食卓で、イエス様の裂かれた体、十字架の愛を受け取りましょう。決して尽きることのない恵み、人間の想像を超えた憐れみをいただきましょう。


メッセージのポイント

イエス様の憐れみ深さは、私たちの想像を超えています。私たちが間違った方向に進もうとしていても、イエス様は決してあきらめず、忍耐強く私たちを導こうとされます。私たちは弱く小さいですが、イエス様は私たちをこの世界に送り出して、私たちを用いて、神様の恵みの豊かさを味わわせてくれます。

話し合いのために

1) 「飼い主のいない羊のよう」とはどういう状態ですか?
2) イエス様はあなたをどう用いておられると思いますか?(他の人の意見も聞いてみましょう。)

子供たちのために

自分に自信がなくても、神様は私たちのことを大いに用いようとしています。それは私たちの能力や特技のことだけではありません。一人ひとりの存在自体のことでもあります。私たちは一人ひとり世界の中でとても小さい存在で、自分には何もできない、やっても意味がないと思ってしまうことがよくありますが、神様はそんな私たちを通して、この世界をより良くしようとされています。人と比べるよりも、自分にできないことを神様がどう助けて変えていってくださるのか期待するように、励ましてください。