「彼らがかわいそうだ」

Saint Anthony Catholic Church (Temperance, MI) – loaves and fish mural (trimmed)
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「彼らがかわいそうだ」

(マルコ 8:1-9) 池田真理

 今日のメッセージのタイトルは、今日の箇所に出てくるイエス様の言葉から取りました。「彼らがかわいそうだ。」この言葉にイエス様がどういう方かの全てが詰まっていると思います。イエス様は誰がかわいそうだと言っているのでしょうか。その答えが今日のメッセージの鍵です。

1 その頃、また群衆が大勢いて、何も食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。2 「群衆がかわいそうだ。もう三日も私と一緒にいるのに、何も食べる物がない。3 空腹のまま家に帰らせると、途中で動けなくなってしまうだろう。それに、遠くから来ている者もいる。」4 弟子たちは答えた。「この人里離れた所で、どこからパンを手に入れて、これだけの人に十分に食べさせることができるでしょうか。」5 イエスが、「パンは幾つあるか」とお尋ねになると、弟子たちは、「七つあります」と答えた。6 そこで、イエスは群衆に地面に座るように命じ、七つのパンを取り、感謝してこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。7 また、小さい魚が少しあったので、祝福して、それも配るようにと言われた。8 人々は食べて満腹になった。余ったパン切れを集めると、七籠になった。9 およそ四千人の人がいた。イエスは彼らを解散させられた。10 それからすぐに、弟子たちと共に舟に乗って、ダルマヌタの地方に行かれた。

 


A. 「彼ら」を憐れむイエス様

1. 「彼ら」は異邦人

 今日の箇所は、6章のイエス様が五千人に食べ物を与えたという話ととてもよく似ています。人数や細かい点で違いはあるものの、話の大筋は同じです。でも、決定的に異なる点が一つあります。それは、ここで集まっていた群衆はユダヤ人ではなく異邦人だった点です。前々回から引き続き、今日の箇所までが、異邦人の地域での出来事です。6章でイエス様が食べ物を与えた五千人の群衆はユダヤ人でしたが、今日の箇所の四千人の群衆は異邦人です。イエス様は、ユダヤ人の群衆と異邦人の群衆を同じように扱ったということです。
 これまでも時々お話してきましたが、当時のユダヤ人はユダヤ人でなければ神様に愛されていないと教えられていました。異邦人という言葉もユダヤ人ではない人全てを指します。神様の民に属さない異民族という意味です。実際には、ユダヤ人の中でも異邦人と仲良くしようとする穏健な人たちも多かったはずですが、ユダヤ民族中心主義を掲げる危険な人たちがいたのも事実です。どちらにしても、ユダヤ人は異邦人とは付き合うべきではないというのが、一般的なユダヤ人の前提理解でした。
 イエス様は、このユダヤ人の一般常識を何度も破りました。今日の箇所では、すでにもう異邦人の地域で異邦人を対象に教えたり病気を癒したりしていたので、完全に非常識な行動です。その上で、イエス様はお腹をすかせた異邦人の群衆を心配して、ユダヤ人の群衆の時と同じようにしようとされました。
 2-3節のイエス様の言葉をもう一度読みます。

2 「群衆がかわいそうだ。もう三日も私と一緒にいるのに、何も食べる物がない。3 空腹のまま家に帰らせると、途中で動けなくなってしまうだろう。それに、遠くから来ている者もいる。」

 イエス様と三日も一緒にいたというのは驚きですが、おそらく、イエス様に病気の癒しや悪霊の追放を求めてやってきた人たちが、そのままイエス様のそばを離れられずにいたのだと思います。デカポリス地方は広いので、イエス様に会いに行くために、数日の道のりを歩いてきた人たちもいたかもしれません。でも、イエス様と弟子たちには彼らに食事を提供する義務はありません。でも、イエス様は彼らを空腹のまま帰らせるのは心配でかわいそうだと思われました。6章のユダヤ人の群衆の時も同じですが、イエス様は自分がする必要のないことを、ただ彼らがかわいそうだからという理由でしました。6章の時は、飼い主のいない羊のような様子を憐れまれ、今日の8章ではお腹をすかせていることをかわいそうに思われたのです。実は、この二箇所で使われている「深く憐れむ」と「かわいそうに思う」という動詞は同じ動詞です。イエス様は群衆に深く心を動かされた、彼らを心から心配したという意味です。そして、そのイエス様の憐れみには、ユダヤ人と異邦人の差別は全くありませんでした。

 

2. 私たちも「彼ら」のひとりだった

 私たちは、今日のこのお話を理解する上で、私たちもこのイエス様の憐れみを必要としている群衆の一人だと思い起こすべきだと思います。私たちはこの群衆と同じように、それぞれがイエス様に助けを求めてここにいます。それは病気の癒しや問題の解決など、明確な必要の場合もあれば、虚しさや寂しさから解放されたいという内面的な必要の場合もあります。またはその両方かもしれません。イエス様はそんな私たちにもこう言われます。「あなたがかわいそうだ。」6章と同じように「あなたを深く憐れむ」と言い換えてもいいと思います。「私はあなたのことを深く心に留めていて、どうにかしてあげたいと思っている」という意味です。このイエス様の呼びかけは、私たちを自己憐憫の中にとどめることなく、こんな私のことをイエス様は知ってくださっているという安心と喜びを私たちのうちに生み出します。イエス様には私たちを助けなければいけない義務はありませんが、私たちが苦しんでいるのを放っておかれることはありません。「あなたがたのことを心配している」と言って、なんとかしようとしてくださっています。
 そして、そのイエス様の憐れみと愛には、なんの差別もありません。ユダヤ人から差別されていた異邦人をユダヤ人と同じように憐れまれたように、人間の価値観に左右されることはありません。時代や文化の常識にとらわれることもありません。イエス様は、人間的に何かが優れている人を愛するのではなく、何かを成し遂げた人を愛するのではありません。他の人がどう評価しているかは関係ありません。イエス様はただ、悩み苦しむ私たちに深く同情して、助けてくださる方です。私たちはみんな、このイエス様の憐れみによって救われました。また、何度も救われる必要があります。
 私たちの周りには、私たちと同じように、このイエス様の憐れみを必要としている人がたくさんいます。イエス様は時々、私たちの目を開かせて、そのことを教えてくれます。私たちにその人たちに目を向けるように直面させるとも言えるかもしれません。

 


B. 私たちを呼び寄せるイエス様

1. 「異邦人」の必要を満たすために

 1節にはこうあります。

イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「群衆がかわいそうだ。…

イエス様は、弟子たちを呼び寄せて言われたとあります。これは、6章の五千人に食べ物を与えた時とは状況が違います。6章では、食べ物がなくて群衆を解散させなければいけないと気づいたのは弟子たちの方でした。でもここでは、イエス様が先に気づいて、弟子たちに問いかけています。「食べ物がなくて困った、でも私は彼らがかわいそうだと思う。あなたたちはどうするべきだと思うか?」と。
 もしかしたら、ここが異邦人の土地で、異邦人の群衆が相手だったから、弟子たちは黙っていたのかもしれません。常識的なユダヤ人なら付き合ってはいけないとされている異邦人の群衆に囲まれて、慣れない土地で、彼らは完全にアウェーの状況にありました。だから、群衆を解散させなければいけないことも、食べ物がないことも、彼らには気を回す余裕がなかったのかもしれません。
 そんな彼らを、イエス様は呼び寄せました。そして、さあどうしようか、と問いかけたのです。「私は彼らがかわいそうだと思う」と。
 私たちも、イエス様と出会って、イエス様と歩む中で、ここでの弟子たちと同じような状況に立たされることがあります。それまでは自分とは関係がないと思って避けていた人たちが、実はイエス様の助けを必要としていることに気が付く経験です。それは社会的な問題に興味を持つことも含みますが、もっと身近なところでも起こります。
 もっとも身近なのは、家族です。家族の中で、それまでは見えていなかった問題に気がつくことがあります。家族は一見アウェーの環境ではないように思えますが、実は一番難しい人間関係です。一番理解し合えるはずが、一番傷つけ合ってしまうことが起こるのが家族です。家族だから分かり合えることがある一方で、家族だから見えないこともあります。私はイエス様に出会って、自分が家族のことを傷つけてきたことに少しずつ気づかされました。近いからこそ、認めることのできなかった、家族の苦しみに気づきました。でも、私とは反対に、家族に深く傷つけられた経験を持っている方もたくさんいると思います。自分を深く傷つけた家族のことを、イエス様は自分と同じように愛しておられるということを受け入れるのは、簡単ではありません。「彼らがかわいそうだ、心配だ」というイエス様の声を聞くのは、時には勇気のいる辛いことでもあると思います。もし今そういう家族の状況を抱えている方がいたら、一人で解決しようとする必要はありません。まずは、あなたが抱えている重荷をイエス様の前で下ろすようにしてください。そして、イエス様の弟子たちが最初から十二人もいたように、あなたもイエス様に一緒に従う仲間を作ってください。そしてその中で、「私はあなたのことを深く心に留めている、どうにかしてあげたいと思っている」というイエス様の声をよく聞いてください。それが結局は、「彼らがかわいそうだ」というイエス様の声を聞くことにもなります。
 私たちは、自分に注がれるイエス様の憐れみの大きさを知ることによって、他の人に注がれるイエス様の憐れみの大きさも知ることができます。「あなたを憐れむ」と言われるイエス様の声を聞くことの先に、「私は彼らを憐れむ」という声を聞くことができるのです。その声はすぐには受け入れがたいものです。弟子たちがイエス様の言葉に反論して、

「この人里離れた所で、どこからパンを手に入れて、これだけの人に十分に食べさせることができるでしょうか 」

、そんなことはとてもできません、と答えたように、私たちもイエス様に反論します。イエス様は彼らがかわいそうだと言うけれど、私はそうは思わないし、彼らのために私にできることはない、と思ってしまいます。でも、イエス様は私たちをただで赦されたように、その人たちのこともただで赦しています。私たちが何もしていないうちからイエス様が私たちを愛して憐れんでくださったように、その人たちが何もしていないうちからイエス様は彼らを憐れみ愛しておられます。そして、すぐにではなくても、私たちにも同じようになることを願っておられます。

 

2. 私たちにとって「異邦人」とは誰だろう

 一番身近な例として家族をあげましたが、私たちにとっての異邦人は他にもたくさんいます。それぞれが育ってきた環境、国、文化、教育の影響から自由な人は誰もいません。その中で私たちは誰でも、他の人たちに対する偏見や差別を持っています。偏見や差別は、多くの場合それが偏見や差別だとは認識されていません。偏見を持っている側、差別をする側の当然の権利だと思われています。それに自分で気づくのは難しいですが、イエス様は色々な機会や出会いを通して教えてくださいます。私たちに必要なのは、イエス様の近くにいようとすることです。そして、「彼らがかわいそうだ」というイエス様の声を聞くことです。その声に私たちは最初は戸惑いますが、その後のことはあまり心配する必要はありません。イエス様は、弟子たちの持っていたわずかなパンと魚を用いて、そして、まだためらっている弟子たちを用いて、異邦人の群衆の必要を満たしました。イエス様は、私たちにも同じようにしてくださいます。イエス様の憐れみの大きさに戸惑いながら、自分の愛の小ささを感じながら、それでもイエス様についていきたいという願いがあれば、それが全てです。イエス様は私たちのうちにある異邦人への差別を取り除いて、イエス様が愛しているように私たちも愛することができるように、私たちを内側から変えていってくださいます。
 私たちにとっての異邦人とは誰でしょうか?それぞれに、無意識のうちに排除し、見ないようにしている人たちがいるはずです。私たちに「あなたがかわいそうだ」と言われたイエス様は、同じように「彼らがかわいそうだ」と言われます。私たちの苦しみを知っておられるように、彼らの苦しみを知っておられます。私たちの罪を赦されたように、彼らの罪を赦しています。私たちを愛しておられるように、彼らを愛しています。イエス様の憐れみの大きさを知りましょう。そして、イエス様に愛されている喜びを他の人と分かち合いましょう。

 


メッセージのポイント

私たちは誰でも、育ってきた環境や教育の影響によって、他の人たちに対する偏見や差別を持っています。でも、イエス様はどんな偏見も差別も持たず、誰に対しても同じように憐れみを注がれる方です。私たち自身も、そのイエス様の憐れみによって救われました。イエス様の憐れみの広さを知り、自分の価値観の小ささや狭さを教えていただきましょう。そして、イエス様の憐れみによって満たされる喜びを、多くの人と共に分かち合いましょう。

話し合いのために

1) あなたにとってイエス様の憐れみとは? 
2) あなたにとっての「異邦人」とは誰でしょうか?

子供たちのために

この箇所は6章の「五千人に食べ物を与える」お話とよく似ていますが、対象が違います。6章ではユダヤ人でしたが、ここでは異邦人(ユダヤ人から見た「非ユダヤ人」「外国人)です。イエス様は、ユダヤ人が持っていた異邦人に対する偏見や差別を持たず、ユダヤ人も異邦人も同じように憐れみました。私たちにも、無意識のうちに差別したり見下している人たちがいると思います。みんなにとっての「異邦人」は誰か、話し合ってみてください。そして、2節のイエス様の「彼ら(群衆)がかわいそうだ」という言葉は、その人たちにも向けられていることを教えてください。また、私たち自身もイエス様の憐れみを必要としていることを教えてください。