「わたしは時を選び、公平に裁く」

 

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「わたしは時を選び、公平に裁く」

(詩編 75 ヨハネによる福音書 3:16-18) 永原アンディ

 

1 指揮者によって。「滅ぼさないでください」に合わせて。賛歌。アサフの詩。歌。
2 神よ、私たちは感謝します。あなたに感謝を献げます。その名は近くにあり、人々は奇しき業を語ります。
3 「わたしは時を選び、公平に裁く。
4 地とそこに住むすべてのもののすべてが揺らいでも わたしは自ら地の柱を堅くする」〔セラ

5 高ぶるものには「高ぶるな」と 悪しきものには「角を上げるな」と言おう
6 「角を高く上げるな。首を上げて傲慢に語るな。」
7 人を高く上げるものは 東からも西からも 荒れ野からも来ません。
8 神こそが裁く方。ある者を低くし、ある者を高く上げられます。

9 杯は主の手にあり 泡立つ酒には混ぜ物が満ちています。主がこれを注がれると 地上の悪しき者は皆 おりまで飲み干し、飲み尽くします。

10 しかし、私はとこしえに語り継ぎ ヤコブの神をほめ歌います。
11 「私は悪しき者の角をことごとく折る。正しき者の角は高く上げられる。」

 

 この詩の中心は3,4 (NIV 2,3)節です。ここに、預言的に語られた神様の言葉として記されている「神様の時」と「神様の裁き」について考えてゆきましょう。ここで神様は「私の“時”に私の“公平な裁き”をする」と宣言されています。このことを確信しているなら、私たちは逆境においても心の平和を保つことができます。それは口で言うほど簡単ではありませんが「神様の時」と「神様の裁き」について理解を深めれば、私たちの神様に対する信頼はより安定したものになります。

 しかし詩を読んで、何人かの方は「神様の時って何時なんだ!全然こないじゃないか!正しい裁きって何なんだ!悪い奴が好きなように振舞って、全然罰せられないじゃないか!」と思っていらっしゃると思います。

 

1. 神様の時

 神様のタイミングと私たちの望むタイミングとは違うということは、何度かお話ししてきました。しかしそれをもっと正確にいうなら、単にタイミングが合わないのではなく、「神様の時」と「私たちの時」の違いは本質的なものなのです。人間である誰かと「どうもタイミングが合わない」ということとは全く違います。急いでなんとかしてもらいたい自分に対して、神様はのんびりすぎるということではないのです。

 私たちの時間の基準は100年弱の人間の寿命です。その積み重ねとして記録された人類の歴史の流れを知識としては知っていますが、それぞれの体内時計の寿命も100年足らずで、私たちはこの時間を無意識のうちに基準として持っています。しかもこの時間は、決められた時代限定のものです。映画「バックトゥーザ・フューチャー」のように他の時代に移動することはできません。

 一方、神様は全てを創られた方で、時間もその一つです。私たちは、その中に置かれ生かされていますが、神様は時間からも自由です。それを表現する言葉が「永遠」です。

 「永遠」は私たちの理解を超えた現実ですが、それでも、「神様の時」として三つのポイントが私たちにも示されています。まず創世記に記されている、目に見える世界の始まり(創造)、そして世界の終わり(終末)です。そして創造と終末の間に最重要ポイントがあります。ご存知ですか?「イエスの時」です。それは、神様が、ご自身の創られた時間と空間の中に、一人の人として突入された時のことです。世界で最初のクリスマスから復活の後に天に帰られるまでの時その頂点が十字架と復活です。この時についてイエス自身も「わたしの時はまだ来ていません。 」(ヨハネ2:4)とか「わたしの時が近づいた。」(マタイ26:18)と言っています。イエスが来てくださったということは、神様が私たちの時に飛び込んできたということです。この「イエスの時」がただ一つ、すべての人に明らかに示されている「神様の時」です。この「イエスの時」は私たちが「神様の時」を実感できる、神の時と人の時の唯一の接点なのです。永遠の時を生きる主イエスが、私たちの時に入って来てくださったので、私たちはイエスに従って歩むことによって、永遠を生きる者、神の時を生きる者、時空の中で目の前に起こってくる出来事に一喜一憂しない者へと変えられてゆくのです。

 


2. 神様の裁き

 神様の正しい裁きということも、誤解して考えてしまいやすいことです。今まで読んできた詩編の詩人たちが、民の中にある不正義を見ながら「なぜそのような者たちがいつまでも罰せられることなく、弱い者、小さな者を虐げ続けるのか?」と神様に訴えていました。私たちも同じです。神の公正、正義というけれど、世界の悪に神様が沈黙しているのはなぜなのか?という疑問を心に持っています。

 3,4節に「わたしは時を選び、公平に裁く。地とそこに住むすべてのもののすべてが揺らいでも わたしは自ら地の柱を堅くする。」とあります。イエスの時が神様の言われた時であり、裁きはすでにそこでなされているのです。それが混乱する世の中にあって、柱となるような確かなものとなることが預言されています。 ヨハネによる福音書ははこう説明しています。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。御子を信じない者はすでに裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇を愛した。それがもう裁きになっている。」

 神様から断絶した状態こそ、裁きの結果であり、人間にとって最も悲惨な状態だということです。人の時の中で、自分の欲望に従って、人を傷つけ、人から奪って、多くのものを得たとしても、その人の命と共に終わりが来るのです。イエスに従うあなたには「永遠の命」という死を超えた希望があります。“悪い奴がよく眠って”いても憤慨する必要はありません。たくさん持っていても羨んではいけません。彼らは「人の時」という刑務所に終身刑で閉じ込められているにすぎません。神様に裁かれてしまった人を相手にする時間はありません。むしろ、悪い者の不正義によって苦しんでいる人々の助けとなることに時間も労力も用いましょう。また、永遠お命を与える方を知らずに苦しんでいる人にイエスを紹介することに用いましょう。

 


3. 私たちはよく聞いて語り継ぐ

 イスラエルの人々は度重なる困難の中でも、感謝を献げています。置かれている困難の中に、神様が介入してくださることを期待していますが、まだそうなってはいないと感じています。それでもかつて神様が人々の困難の中に介入してくださったことを思い起こして感謝を献げているのです。その「時」は、この詩が歌われた時から数百年後、現在がら言えば2000年前に、「イエスの時」として、人間の時間の中に、歴史の中に来たのです。イエスの最初の弟子たちは、一人一人、イエスに呼びかけられてイエスについてゆきました。しかしたった3年ほどの付き合いだったのです。どんな学問、芸術、技術であっても、師匠は3年でその全てを弟子に伝えることはできません。イエスが伝えたのは宗教の体系ではなかったのです。彼らが得たのは最初の部分でお話しした「イエスとの出会いによって、イエスと共に永遠を生きる者とされる」ということでした。現代に生きる私たちが、このことに気付けるのは、2000年の間、イエスが変わることなく共にいてくださるからですが、そのことに気付くためには、2000年の間、語り継いでくれる人々も欠かせない存在だったのです。私たちの目にはイエスご自身は見えませんが、イエスによってその人生が全く新しいものに変えられた人々を見ることができるからです。私たちは皆、誰かの証言を聞きイエスに従い始めました。その営みに連なる一人があなたにイエスを伝えたので、あなたはここにいるのです。「神の時と神の正しい裁き」を知った私たちは、私たちには知らされていない終わりの時まで、神の時を、イエスの時を、神の永遠に生きることを語り継ぐことを求められています。神様はすべての人が、永遠の命に生きることを望んでおられるからです。

 


メッセージのポイント

困難の中でも、イエスが一緒にいてくださることを確信できるのは、神様の時と正しい裁きを信頼するからです。この信頼を確かなものにするために、私たちは、過去に神様が多くの人々にしてくださったことを聞きます。そして私たちもまた次世代の人々のために、語り継いでいくのです。

 

話し合いのために

1)  神様の時間感覚と私たちのそれはどう違いますか?
2)  神様の公正な裁きを信頼できます(ません)か? その理由は?

 

子供たちのために

永遠と人や動物たちの生きるの長さを想像させて下さい。人は誰でもいつかこの目に見える世界からいなくなる時が来ます。しかしそれは神様の時間:永遠に比べればほんの一瞬のようです。イエスを信じる人は、永遠にイエスとともにいるのです。今どんなに辛くても、イエスは必ず助けてくれます。神様であるイエスは誰よりも正しく人を裁き正義をもたらします。