水のほとりに植えられた木のように

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水のほとりに植えられた木のように

(エレミヤ書 17:5-8, ヨハネによる福音書4:6b-15, 19-24) 永原アンディ

 

主はこう言われる。呪われよ、人間を頼みとし 肉なる者を自分の腕として その心が主から離れる人は。彼は荒れ地のねずの木のようになり 幸いが来ても見ず 荒れ野の乾いた地 人の住まない塩の地に住む

祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。彼は水のほとりに植えられた木のようになり 川の流れにその根を張り 暑さが来ても恐れず。その葉は茂っている。旱魃の年も恐れず 絶えず実を結ぶ。

 

 旧約の預言者ではイザヤについて多く紹介してきましたが、今日のテキストはエレミアの預言です。エレミヤはイザヤのおよそ100年後に活躍した預言者です。(イザヤは紀元前700年前後で、エレミヤは紀元前600年頃です。)エレミヤの時代はイスラエル民族にとって特に困難を極めた時代でした。彼が若い(おそらく30代の)預言者として登場した時、民族はイザヤの時代に最も力を誇ったアッシリアという大帝国の支配下にありました。エレミヤの時代にはアッシリアの力が衰えて、民族にも少し自由が戻ってきたのですが、それも長くは続かず、今度はバビロニアという強国が興り、やがてその支配はアッシリア以上に過酷なものとなってゆきました。このエレミヤの警告は、イスラエル民族が神様に信頼することなく、強い国と同盟を結んで助けてもらおうとする態度に対するものでした。しかし、この原則は、民族・国家だけではなく、もっと小さなグループや個人にも当てはまるものです。あなたは何を頼りとして生きていますか?この預言は、誰を頼りにして生きるかによって、人生は正反対のものになると警告しています。

 

A. 生き方は二つに一つ

1. 主以外のものに頼って生きる (5,6)

主はこう言われる。呪われよ、人間を頼みとし 肉なる者を自分の腕として その心が主から離れる人は。彼は荒れ地のねずの木のようになり 幸いが来ても見ず 荒れ野の乾いた地 人の住まない塩の地に住む

 自分の、自分たちの力、人間の力に頼って生きるなら、神様の祝福に満ちた歩みは望めません。ねずの木と訳しているのは、この教会共同訳だけで、多くの聖書は単に灌木 (shrub)としています。「ネズ」(juniper) は針葉樹 (conifer) で、和名の「ネズ」は、もともとの「ねずみ刺し」を短縮した呼び名です。荒れ地にふさわしい、小動物を刺す鋭い針のような葉を持った植物です。そこから想像できるのは、神様の助けの手、祝福の手も認めることが出来ずに苦しむ、孤独で、タフな人生です。なぜそうなるのかといえば、本当は頼りにならないものを頼りにしているからです。自分を頼りにするとは、自分の力、コネ(connections) 、運といったものです。イスラエルは、その時その時、頼りになりそうな大国と同盟を結び、失敗を繰り返していました。彼らはついに国土を失うことになります。このことは現代に生きる私たち個人にも起こるのです。政党にも、職場にも学校にも、子供の世界にさえ派閥 (faction) があります。それが強ければ、それに守られて自分も利益を得ますが、それが他の派閥に敗れれば、自分の立場もなくします。人の社会には、今もそのような派閥が存在します。頼りになれそうなボスの元にいても、そのボスが失脚すれば自分も同じ目にあうのです。

 

2. 主に信頼して生きる (7,8)

しかし、誰でもそうではない選択をすることができるのです。それは、「主に信頼して生きる」という選択です。

祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。彼は水のほとりに植えられた木のようになり 川の流れにその根を張り 暑さが来ても恐れず。その葉は茂っている。旱魃の年も恐れず 絶えず実を結ぶ。

新約聖書はイエスが、主・神である事を私たちに教えてくれています。あとで紹介するテキストではイエス自身が、人間や人間の組織のように、あなたをがっかりさせることはないと、約束しています。この預言の時代にはイエスの存在を誰も知りませんから、ここでは人として御自身を表す前の神様を主と呼んでいます。祝福を受けるであろう人は、なぜ水のほとりに植えられた木のようなのでしょうか?その根を伸ばした地には、川がもたらす水分と栄養がいつも豊かにあるからです。その川は、どんな日照りでも干上がることのない川です。厳しい環境にも耐えて葉を茂らせ、実を結ばせます。イエスはあなたに、そのような人生を歩ませたいので、「私に従いなさいと」招かれるのです。

 


B. 主に信頼する人は

1. 主がくださる栄養で癒され、成長し、実を結ぶ (ヨハネ4:6b-15)

 この、主に信頼する人の祝福の約束を、主イエスご自身が話しているところがヨハネによる福音書4章です。イエスはそれを川ではなく井戸にたとえて話しました。まず6b-15を読みましょう。

ヨハネ4:6b イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。
7 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。
8 弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。
9 すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女の私に、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しなかったからである。
10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水をください』と言ったのが誰であるか知っていたならば、あなたのほうから願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう。」
11 女は言った。「主よ、あなたは汲む物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生ける水を手にお入れになるのですか。
12 あなたは、私たちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸を私たちに与え、彼自身も、その子どもや家畜も、この井戸から飲んだのです。」
13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。
14 しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」
15 女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここに汲みに来なくてもいいように、その水をください。」

 イスラエルはソロモン王の死後、南北に分裂し、北側はイスラエル王国になりました。イスラエル王国は200年後、つまり預言者イザヤの時代に、アッシリア帝国によって滅ぼされてしまいます。サマリアはイスラエル王国の都でしたが、有力な人々はアッシリアに連れ去られてしまいます。残された人々とアッシリアから来た移民たちが住むこの地方はサマリアと呼ばれ、彼らはサマリア人と呼ばれていました。しかし、南のユダヤ王国の人々は、同じ神様を信じていたサマリア人を、アッシリア系の人々との結婚やアッシリア文化の影響を理由に軽蔑し、この女が言っているように交際を避けていました。

 そこには先祖ヤコブの作った井戸があり、イエスは、実際の生活に欠かせない水を汲みに来たこの人に会ったのです。「水を飲ませてください」イエスが水を求めたので彼女は驚きました。「ユダヤ人のあなたがサマリアの女の私に、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」当時の普通のユダヤ人なら、彼女に語りかけることはあり得なかったからです。しかしイエスは、その理由には答えず意味不明なことを言います。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水をください』と言ったのが誰であるか知っていたならば、あなたのほうから願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう。」 「はあ?」と彼女が言ったかどうかは書いてありませんが、おかしなユダヤ人だと思い、皮肉っぽく「あなたは何者なのですか?」と尋ねます。由緒正しいヤコブの井戸の水よりも、私の「リビングウォーター」が良いって、新種のネットワークビジネスの勧誘?と現代人なら思うでしょう。しかしイエスはめげずに続けます。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」 水をいつも飲んでいなければ、私たちは生命を維持することはできません。しかしイエスは私たちに、魂の渇きを癒す水が必要であることを教えるのです。魂の渇きを一時的に満たす水的なものはいろいろありますが、それらは不完全で、実際の水を飲んでもすぐ渇くように、魂は渇いてしまうのです。
 しかしイエスの与える、私たちの魂が飲むべき水だけは違います。それはイエスとつながっている事によって得ることのできる良いものの全てですが、特に神様の霊、聖霊に満たされるということが暗示されていることを心に留めてください。霊はよく水に喩えられてきたからです。聖霊の力は、求める者の内に注がれるだけでなく、その人の中で「泉」となり、永遠の命に至る水として湧き上がり、人々のところに溢れ出すのです。これこそ、身を結ぶ人生です。神の恵みを豊かに受ける人は、それを周りの人々に提供できるのです。

 

2. 主と共に生き続ける (ヨハネ19-24)

19 女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。20 私どもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」21 イエスは言われた。「女よ、私を信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。22 あなたがたは知らないものを礼拝しているが、私たちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真実をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。24 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真実をもって礼拝しなければならない。」

 

 中略した部分でイエスは彼女の境遇を言い当てました。そこで、彼女はイエスを預言者だと思い、自分と神様との関係について聞きたくなりました。サマリア人にも話しかける型破りのユダヤの預言者と思われたイエスに、率直に聞きたかったのは本当に神様とつながることのできる礼拝の場所はエルサレムなのか、それともサマリア人の神殿のあるゲリジム山なのかということでした。イエスの答えはこうです。「女よ、私を信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、私たちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真実をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真実をもって礼拝しなければならない。」いくら水のほとりに植えられても、根を伸ばし、水分と養分を受け取ろうとしないなら、成長どころか枯れてしまうのです。イエスを口で信じているといいながら、イエスから人生の水分・養分をいただいていないなら、身を結ぶことはできません。どうしたら、コンスタントに霊的な水分補給、栄養補給ができるでしょうか?それがワーシップなのです。私たちは、その日本語訳である礼拝という言葉よりワーシップという英語をそのまま使うことが多いですが、それは「礼拝」という言葉が、多くの人にとって「日曜日の朝に行われる、説教を中心とした厳かな礼拝プログラム」という狭い意味だからです。ワーシップは広い意味を持つ言葉です。神様とのコミュニケーションであり、神様に自分自身を献げることです。いつであれ、どこでであれ、誰とであれ全身全霊で献げるワーシップが、本当に主と共にいられることを保証してくれます。こうして神様の言葉を共に聞くこともワーシップの一部ですが、これからの時間、歌うということを通して、自分を献げることがワーシップの中心です。

 この時にあなたの心に語りかけるイエスの言葉を期待して歌ってください。イエスがあなたの体の傷を、病気を、心の傷を癒してくださいと歌ってください。あなたを愛していますという告白を歌ってください。霊と真実の心を持って礼拝するあなたを、主は慰め、癒し、強め、あなたのポジションへと送り出してくださいます。心からのワーシップを献げ、自分の全てを注ぎだし、必要な全てをいただいき、ここから出かけて、今週の自分の持ち場に向かってゆきましょう。

 


メッセージのポイント

人の生き方は二種類に集約できます。自分の力に頼って生きるか、主に信頼して生きるかの二つです。そしてその選択の結果は正反対です。主に信頼して生きるなら、主が豊かに与えてくださる心の栄養で、癒され、成長し、実を結び、主と共に永遠を生きます。

 

話し合いのために

1) 水のほとりに植えられた木とはどのような人生を象徴していますか?
2) 永遠の命に至る水とはどのようなものでしょう?

 

子供たちのために

人を頼って生きることと、神様を頼って生きることを、水辺の木と荒れ野の木との対比で考えさせてください。神様の水を得るために、礼拝すること、祈ることの大切さを伝えてください。