クリスチャンの特権意識と排他性

 

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クリスチャンの特権意識と排他性

(マルコによる福音書 9:38-50) 池田真理

 「クリスチャン」という言葉を、皆さんはなんと説明するでしょうか?「キリスト教を信じている人」というのが、一般的な説明だと思います。でも、私たちはキリスト教を信じているというより、イエス様という一人の方を信じていると言った方がしっくりきます。私たちは、キリスト教学という学問や教会という宗教組織を信じているわけではありません。そこを間違えると、信仰は、私たちに間違った特権意識と排他性を与えるものになってしまいます。

 今日はかなり厳しいイエス様の言葉が続きます。それはイエス様の愛というのが、愛に反するものに対して非常に厳しいからです。まず9:38-40です。

 

A. 信仰を、自分を正当化し他人を排除する道具にしてしまう

1. 信仰者同士の対立 (38-40)

38 ヨハネがイエスに言った。「先生、あなたのお名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちに従わないので、やめさせました。」39 イエスは言われた。「やめさせてはならない。私の名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、私の悪口は言えまい。40 私たちに逆らわない者は、私たちの味方なのである。

 38節で弟子たちは、「私たちに従わないので」 “because he was not one of us” と言っています。日本語と英語で少し違いますが、ここでは日本語の方が原文に忠実です。「私たちに従わないので」、あの人のやっていることは悪い、やめさせなければならないと、弟子たちは思いました。弟子たちには、自分たちこそがイエス様のことを一番よく知っているという特権意識がありました。だから、自分たちの他に、誰かが勝手にイエス様の名前を使っていることに腹を立てました。イエス様の名前を使うならその人も自分たちに従うべきで、従わないのなら排除しなければいけないと思ったのです。そのことをイエス様に報告したのは、それをイエス様も喜んでくれるとさえ思ったからです。

 でも、イエス様の反応は違いました。イエス様は、イエスの名前を使って奇跡を行う人は、広い意味で自分たちの味方なのだと言っています。イエス様は、そういう人たちがいずれ本当に信仰を持つことも期待していたのかもしれません。

 このことについては、パウロがもっとはっきり言ってくれているので、紹介します。フィリピの信徒への手紙1:15-18です。

15 キリストを宣べ伝えるのに、妬みと争いの念に駆られてする者もいれば、善意でする者もいます。16 一方は、私が福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、17 他方は、利己心により、獄中の私をいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。18 だが、それが何であろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、私はそれを喜んでいます。

パウロは、キリストを宣べ伝える人たちが自分に悪意を持つ敵であってもいいと言っています。そして、イエス様のことが伝えられている限り、自分とその人たちの関係性はどうでもよいのだと言っています。

 私たちは、このパウロの態度やイエス様の態度から学ばなければいけません。イエス様を信じる信仰のあり方は一つではありません。私たちは、自分と違う信じ方をしているというだけで、その人たちの信仰は何か劣っていると思ったり、間違っているとさえ思ってしまうことがあります。それは、自分たちこそが正しい信仰を持っており、イエス様のことを一番よく分かっているという優越感があるからです。その結果、自分とは違う人たちを自分たちに従わせようとし、従わないのなら排除しようとします。それも、そのことをイエス様は喜んでくださるとさえ勘違いしてしまいます。どんなに礼拝の形式が違う教会でも、同じイエス様に属する家族です。教会の中で個人的に人間関係がうまくいかない人でも、イエス様を共に信じる仲間です。さらに、不純な動機でイエス様を利用しているだけに見える人であっても、その人によって誰かが苦しんでいるのでなければ、私たちが介入する必要はありません。裁きはイエス様に任せましょう。

 この前半の最後に、イエス様はもう一言付け加えています。これまでの話は、多かれ少なかれ信仰を持っている人たちの話でしたが、この一言は、話を信仰を持たない人たちにも広げています。41節です。

2. 信仰を持たない人を軽んじる(41)

41 よく言っておく。あなたがたがキリストに属する者だという理由で、一杯の水を飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」

 これは、自分自身は信仰を持っていなくても、イエス様に好意を寄せている人が想定されています。信仰を持っていなくても、教会に通っていなくても、イエス様のことをどこかで聞いたことがあって、慕っている人たちはいます。イエス様はその人たちのことも知っています。また、一杯の水を飲ませるという小さな行動でも、前回読んだように、それはイエス様にしたことであり、イエス様は喜ばれます。

 私たちはイエス様の寛容さをなかなか理解することができません。私たちは自分たちが正しいと思いたいので、分かりやすい線を引いて、自分を正しい側に置きたくなります。だから、イエス様を信じているか信じていないかで、正しいか間違っているかを決めつけようとします。「救われているか救われていないか」という言い方がされることがありますが、それは自分を救われている側、つまり特権階級に置いて、それ以外の人たちを見下している言い方だと思います。でも実際は、信仰を持っていてもイエス様を悲しませることはよくあり、反対に信仰を持っていなくてもイエス様を喜ばせている人たちはいます。私たちがその線引きをしようとすること自体が間違っています。正しいのはイエス様だけであり、イエス様を信じる私たちが正しいのではありません。私たちはみんな、自分で線を引きたがる性質をイエス様によって崩されなければいけません。イエス様の許容範囲は、私たちの許容範囲より桁外れに大きいのです。

 それでは後半に入ります。前半が受け入れることの大切さだったのに対して、後半は切り捨てなければいけないことがあると教えられています。愛することにおいては無限に受け入れるイエス様ですが、愛さないこと、排除することに関しては厳しくとがめています。まず42-48節です。

 


B. その罪の恐ろしさ(42-48)

42 「また、私を信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、ろばの引く石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。43 もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨てなさい。両手がそろったままゲヘナの消えない火の中に落ちるよりは、片手になって命に入る方がよい。† 45 もし、片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨てなさい。両足がそろったままゲヘナに投げ込まれるよりは、片足になって命に入る方がよい。† 47 もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両目がそろったままゲヘナに投げ込まれるよりは、一つの目になって神の国に入る方がよい。48 ゲヘナでは蛆が尽きることも、火が消えることもない。

 自分の信仰が一番正しくて、他の人は私たちに従うべきだという意識を捨てられなければ、私たちは他人をつまずかせ、自分もつまずきます。「つまずく」というのは、転ぶ、失敗する、という意味ですが、聖書では信仰に失敗する、信仰をなくす、という意味で使われています。でも、信仰をなくすということは、もう神様を信じません、と公言している状態だけを指すのではありません。口では信じていると言っていても、心が全く神様を愛していないなら、それは信仰を持っているとは言えません。ですから、私たちが自分でつまずくということは、口で何と言っているかに関わらず、心が神様を愛していないことです。自分たちが一番正しいと信じるのは、自分を神様よりも上に置いているからです。それは結局、神様を愛していると言いながら、自分を愛していることになります。

 その結果、他の人を支配し、利用し、傷つけても、気が付きません。むしろ、自分は神様の代わりに正しいことを教えてあげているのだという意識を持ってしまいます。それによって私たちは誰かを神様の愛から排除します。自分は神様に愛されていないのだと思わせてしまいます。イエス様は、そのように私たちが誰かをつまずかせるなら、重い石臼をつけられて海に沈められてしまった方がいい、と恐ろしいことを言われています。でも、それくらい、誰かをイエス様の名前によって神様の愛の対象から排除するということは重い罪であり、イエス様は憤られるということです。

 また、イエス様はここで、私たち自身がつまずくことについても、ゲヘナ (地獄)という言葉を使って警告しています。ゲヘナは、前の新共同訳や英語では「地獄」とされている通り、地獄を意味する言葉ですが、ユダヤ人にとってはもっと具体的なイメージを想起させる言葉でした。ゲヘナは、昔ユダヤ人が異教の神を礼拝し、子供を焼いて生贄に捧げていた場所の名前です。その習慣は禁止されましたが、人々の中でその場所は恐ろしい場所として記憶され、やがて地獄を指す言葉になりました。その言葉をイエス様はここで使っています。私たちがつまずくこと、自分中心に他人を犠牲にして生きることは、それほど恐ろしいことだと言われているということです。

 ここで、皆さんに注意していただきたいのですが、イエス様はここで私たちの死後の話をしているわけではありません。神様を信じないで自分勝手な生き方をしていたら地獄に投げ込まれて永遠に苦しむことになると、脅しているわけでは決してありません。イエス様が言われているのは、私たちが神様を忘れて自分の成功や繁栄を求めて生きるということは、すでに地獄にいるのと同じだということです。自分の繁栄を求めて生きることは、一見人生に勝利し気持ちのいいことのように思えます。でも、繁栄を願う心は、一生満ち足りることはありません。その過程で人を切り捨て、人から憎まれ、最後に何かを達成しても、その栄光は一瞬で忘れられます。ゲヘナの火が消えることはないというのは、私たちがそういう生き方をしている限り、永遠に虚しいままだということです。

 つまずきということに関して、こうまとめられると思います。私たちは、自分自身がつまずく時には、他の人もつまずかせます。自分が神様を忘れて虚しい生き方をしているのに気がつかなければ、他の人を傷つけても気がつかないのです。そして、イエス様の名前を使って、イエス様の愛とは真逆の虚しさと憎しみを生み出してしまいます。どうしたらこの状態から抜け出せるのでしょうか?最後に49-50節です。

 


C. その罪から離れることには痛みが伴う(49-50)

49 人は皆、火で塩気を付けられねばならない。50 塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」

 この火はもう地獄の火ではありません。でも、私たちが虚しい生き方から実りある生き方に方向を改めるには、火が必要だということです。生き方を根本から変えられることには痛みが伴います。それは、43-47節でイエス様が言われたように、自分の手や足、目を切り捨てる痛みです。これまで自分にとってなくてはならなかったもの、大切なものを捨てるのに、葛藤があるのは当然です。それがなくなってしまったら、どうやって生きていけばいいのかわからないくらい怖いことかもしれません。自分が正しいと思ってきたことを揺さぶられるのは恐ろしいので、避けてしまいがちです。でも、イエス様を信じてついていくということは、実際、何度も打ち砕かれることです。自分の誤り、偏見、思い込みを正されて、方向修正されることです。それしか、私たちがイエス様の愛を少しでも身につける方法はありません。自分の弱さや間違いが晒されて、心が打ち砕かれる時、それは痛いことですが、神様は私たちを罰しているのではなく、私たちにもっと良い人生を与えようとしてくださっています。味気のない人生ではなく、塩気のついたおいしい人生、豊かな人生です。それは、自分自身のうちにイエス様に愛されている確信を持ち、イエス様のように他の人を愛して生きていきたいという願いによって歩む人生です。

「自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」

 


メッセージのポイント

 私たちは自分を正当化して他人を排除する性質を持っています。信仰も、私たちがそれを自分で手に入れた特権だと勘違いして、他人を排除するための道具にしてしまいます。恐ろしいのは、多くの場合、私たちがそれに気がついていない点です。私たちがイエス様のような寛容さを身につけるには、不寛容な自分を捨てることが必要です。それは痛みを伴うプロセスですが、それが互いに平和に暮らし、実りある人生を歩むための道です。

 

話し合いのために
  1. イエス様がここで「受け入れなさい」と言っていることはなんですか?
  2. 「切り捨てなさい」と言っていることはなんですか?
  3. どうすればそれができますか?

 

子供たちのために

 みんなの周りにはイエス様を知らない友達がたくさんいると思います。そういう友達に、みんなはイエス様のことをどうやって伝えますか(伝えませんか)?大切なのは、イエス様のことを信じている人も信じていない人も、イエス様は愛しておられるということです。聖書を読むとしたら38-41節だけでいいと思います。