結婚と離婚

 

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結婚と離婚

(マルコ 10:1-12) 

池田真理

今日はクリスマス前最後のマルコ福音書シリーズです。結婚と離婚という非常に具体的なテーマの箇所です。早速読んでいきましょう。まず1-5節です。

 

A. 聖書を自分に都合よく解釈する危険 (1-5, 申命記 24:1-4)

1 イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた。群衆がまた集まって来たので、イエスは再びいつものように教えておられた。2 ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは許されているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。3 イエスは、「モーセはあなたがたに何と命じたか」と問い返された。4 彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。5 イエスは言われた。「あなたがたの心が頑固なので、モーセはこのような戒めを書いたのだ。

 今日最初に注目したいのは、昔も今も、人間は聖書を自分に都合よく解釈してしまうということです。イエス様の時代のユダヤ人社会は男尊女卑の社会です。結婚においても離婚においても父親や夫に決定権があり、娘や妻の人権はないようなものでした。ここでファリサイ派の人々がイエス様に尋ねているのは、申命記24章に書かれている掟の解釈についてです。申命記24:1-4にはこうあります。

(申命記24:1-4)1 人が妻をめとり、夫になったものの、彼女に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、彼女に離縁状を書いて渡し、家を去らせることができる。2 その女が家を出て、他の男の妻となったが、3 次の夫も彼女を嫌い、彼女に離縁状を書いて渡し、家を去らせるか、あるいは、彼女を妻に迎えた男が死んだ場合、4 そのどちらの場合でも、彼女を去らせた最初の夫は、彼女が汚された後で、彼女を再びめとり、妻にすることはできない。これは主の前に忌むべきことである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与える地に罪をもたらしてはならない。

ここには妻が離婚を望む場合については想定もされていません。そして、4節には再婚は女性を汚れたものにするとさえ書かれてあります。ですから、この申命記の掟自体にも当時の男尊女卑的な価値観が反映されていると言えます。それでも、離縁状は女性が夫に離縁されても再婚できるように、最低限女性の権利を守るために定められていました。それは、どうしても結婚を解消しなければいけない例外的な場合のために定められたものであって、最初から離婚が想定されていたわけではありません。
 これは遅刻したときのことを考えるといいといいかもしれません。学校でも会社でも電車の遅延証明書を提出すれば遅刻は許されますが、そもそも遅刻はするべきではありません。遅延証明書を自分で勝手に作っていいわけでもありません。
 この申命記24章で言われていることはそれと同じです。古代のユダヤ人社会においても離縁状を出せば離婚は許されましたが、そもそも離婚は望ましいことではありませんでした。また、夫が自分勝手に離婚の理由をでっち上げていいわけでもありませんでした。
 でも、この掟はイエス様の時代には、離縁状さえ書けば夫は妻を離縁することができる、と解釈されるようになっていました。一昔前の日本もそうでしたが、子供ができないことは離婚の正当な理由になりました。さらには、妻の作った料理がまずかったとか、そういう些細な理由でも離婚の正当な理由になる、つまり、夫が望めばいつでも離婚できると解釈する人たちも多くいたようです。ファリサイ派の人たちもそうでしたし、マタイによる福音書によれば、イエス様の弟子たちもそう解釈していたようです。
 恐ろしいのは、彼らがその間違った解釈が正しいと信じていたことです。そして、自分たちは神様の側にいて、自分たちとは違う解釈をするイエス様は神様に反逆しているとみなしました。
 私たちも聖書を読むときに注意しなければいけません。聖書は、人間が記録した神様の言葉です。だから、聖書には神様の真実と人間の偏見が入り混じっています。そして、読む側の私たちにも先入観があります。そのことに注意を払っていなければ、私たちも自分の歪んだ価値観を正当化するために聖書を裏付けとして使ってしまいます。そして、イエス様を喜ばせるどころか、自分たちの中からイエス様を締め出し、イエス様が愛している人たちを締め出すことになります。当時は女性たちがその犠牲になり、今は性的少数者の人たちが犠牲になっていると思います。
 では、どうやって私たちは聖書から神様の真実を受け取ればいいのでしょうか?それはイエス様の言葉です。人間が記録したにもかかわらず、聖書に記録されたイエス様の言葉には、時代も文化も超えて普遍的に通じる真理があります。今日の箇所でも、イエス様は、どういう条件なら離婚が許されるのかという議論に直接答えず、結婚とはそもそもどういうものなのかを教えました。6-8節に進みます。

 


B. 結婚の本来の意味 (6-8)

6 しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。7 こういうわけで、人は父母を離れて妻と結ばれ、8 二人は一体となる。だから、もはや二人ではなく、一体である。

1. 上下関係ではない (6-8)

 この6-8節のイエス様の言葉は、ほぼ全て創世記からの引用です。イエス様は、本来神様が結婚に何を意図されているのかを、創造の物語にさかのぼって教えています。まず6節の「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった 」というのは創世記1:27の引用です。

(創世記1:27) 神は人を自分のかたちに創造された。神のかたちにこれを創造し、男と女に創造された。

 イエス様は、男尊女卑の価値観が当たり前になっていた当時の人たちに対して、天地創造の初めはそうではなかったと言われています。神様が人間を造られたとき、その最初の時から人間は男と女でした。創世記2章には、アダムからエヴァが造られたというエピソードがありますが、イエス様はここでそれには触れずに、人間は最初から男と女に造られたのだということを強調しています。男女間に上下関係も支配関係もないということです。
 また、このことは性的少数者を排除する根拠にはなりません。この聖書の箇所を使って、神様は人間を男か女か二つのうち一つにしか造っていないのだから、心と体の性が一致していなかったり、性自認が定まらなかったりするのはおかしいという主張をする人たちがいますが、私はそう思いません。むしろ、神様のかたちに創造された人間が男と女であるなら、神様は男であると同時に女でもある方と言えると思います。だから、両性の特徴を持つ人間がいても何もおかしくないのではないでしょうか。
 さらに、このイエス様の言葉でも創世記でも、結婚は男女という異性間の関係として説明されているにもかかわらず、結婚の第一の目的は子孫を残すことではないことが分かります。

 

2. 一体となって互いに助け合うために

 7-8節のイエス様の言葉は創世記2章の言葉そのままです。創世記2章には、神様がなぜ結婚という関係を人間に与えられたのかが書かれています。

 創世記2:18 また、神である主は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼にふさわしい助け手を造ろう。」

 この「助け手」という言葉には元々「同伴者」という意味もあるそうです。旧約聖書の他の箇所でこの言葉が使われているところを見ると、「神様はイスラエルの民の助け手・同伴者である」ということが言われるときに、この言葉が使われているそうです。旧約聖書を通して、イスラエルの民を導き、時に怒り、時に憐まれた神様を思い出すと、この助け手という言葉に込められた意味がもう少しはっきりすると思います。良い時も悪い時も共に歩み、時に怒り、時に悲しみ、喜びを共有する同伴者の姿です。神様は人が独りでいるのは良くないと思われ、そういう同伴者を人に与えたいと願われました。それが結婚の本来の目的です。上下関係でもなく、単に子供を育てるためでもなく、与えられた人生を共に歩み、対等に支え合うためです。

 また、7節のイエス様の言葉は創世記2:24の引用ですが、これも当時の価値観を超えたイエス様の新しい視点が表れています。「人は父母を離れて妻と結ばれる」という部分です。モーセの十戒には「父母を敬え」という掟がありますが、夫または妻を敬えという掟はありません。「姦淫するな」という掟があるだけです。妻と出会い、「人は父母を離れる」ということは、両親よりも妻を大事にするということを意味します。それはもちろん、妻が両親よりも夫を大事にするということでもあります。イエス様は、十戒の掟を超えて、夫婦が両親よりもまず互いに対等に支え合い大事にし合う関係を求められたということです。

 このように、結婚の本来の意味を考えると、結婚は決して異性間だけに限られた関係ではなく、同性愛者にも当然与えられるべき関係です。人生を共に歩み助け合う関係を同性愛者だけは持ってはいけないとは、神様が言われるわけがありません。日本では同性婚は法律的に認められていませんし、多くの教会も認めていませんが、少しずつ変わってきています。ユアチャーチでは異性間の結婚も同性間の結婚も、同じように祝福したいと思います。

 それでは、この結婚という関係が壊れる現実をどう考えればいいのでしょうか?9節に進みます。

 


C. 離婚について

1. イエス様はどんな離婚も認めないのか? (9)

9 従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」 

 文脈を無視してこの文章だけを読むと、イエス様はどんな離婚も認めないと言っているように読めます。でも、それは違います。ここでイエス様は、男性優位の社会の中で、男性が都合よく女性を利用したり捨てたりすることは許されないのだということを言っています。夫婦は神が結び合わせてくださったもの、という意識が、当時の人たちには欠けていました。だから、結婚するのも離婚するのも、男性の自由にしていいと思われていました。イエス様は、結婚の主導権も離婚の主導権も、男性に一方的に与えられているのではなく、その関係を最初に定めた神様にあるということを知りなさいと言われています。

 でも、このことは当時の社会だけでなく、現代においても通じることです。男性中心的という意味では昔ほどではないにしても、結婚は神様によるものだという感覚が欠けているのは現代でも同じです。男性も女性も同じです。その結果どうなるのか、続きも読んでから考えたいと思います。10-12節です。

 

2. 私たちは助け合うよりも利用し合う罪を犯す (10-12)

10 家に戻ってから、弟子たちが再びこのことについて尋ねた。11 イエスは言われた。「妻を離縁して他の女と結婚する者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。12 夫を離縁して他の男と結婚する者も、姦通の罪を犯すことになる。」

 ここには、男性も女性も結婚において間違いを犯すとはっきり書いてあります。これまでお話ししてきた通り、当時の社会では女性に離婚の決定権は公には認められていませんでした。でも、例外的に、権力のある女性の中には自分で夫との離縁を決める人もいたことが歴史文献の中から分かっているそうです。聖書にも出てくる、ヘロデ王の妻ヘロディアもその一人です。イエス様はここで、そういう女性たちのことを念頭においていると考えられます。

 男性も女性も誰でも、当時も今も、パートナーがいながら浮気をすることが起こります。パートナーに不満があるのか、最初はうまくいっていたのに何かが変わってしまったのか、単にだらしないのか、浮気の状況や理由は言い訳しようと思えばいくらでもあります。

 浮気に限らず、パートナーと共にいることが苦痛になったり、お互いに相手を迷惑だと思ったり、重荷だと思ったりすることも起こります。離婚という形に至っていなくても、関係が冷え切り、もうパートナーとは言えないような状態に陥っている夫婦はたくさんいると思います。

 でも、どんな人でも、結婚する時には自分の結婚が神様によって結び合わされたものだと思って結婚します。神様という存在を信じていなかったとしても、結婚する時に最初から離婚を想定している人なんて誰もいません。誰でも、多かれ少なかれ、そのパートナーと人生を共に歩む覚悟をして、また期待をして、結婚します。

 ではなぜ多くの結婚が壊れ、離婚に至らなくても到底パートナーとは言えないような関係になるのでしょうか?その答えは、婚姻関係に限らず、あらゆる人間関係に共通する、私たち全てが持っている問題です。私たちは助け合うよりも、利用し合う性質を持っています。このことは、マルコ福音書でここのところずっと連続して言われてきたことでもあります。私たちは自分のために他人を利用し犠牲にする性質を持っていて、イエス様のように他人のために自分を犠牲にする生き方がなかなかできません。結婚は、この私たちの罪の性質が最も強く働く関係です。そうしているつもりはなくても、他人には取りつくろえても、パートナーという一番近い存在には誰も自分の罪の性質を隠すことはできません。

 一生かかっても、不完全なままで罪の性質から自由になれない私たちが、一生を誰かと共に歩むということは、実際本当に難しいことだと思います。離婚という結果になっても、誰が悪かったのか簡単に答えることはできません。たとえ誰が見ても相手が悪かったとしても、その相手を選んだ責任は自分にあるとも言えます。でも同時に、苦しい関係を一生続けなければいけないというのも間違いです。私たちはみんな、神様に罪を赦されて、愛されています。離婚という判断を下すのか、もう一度夫婦関係をやり直す努力をしてみるのか、それはそれぞれが神様によく聞いて決めるべきです。それは神様が私たちに委ねた自由であり責任です。夫婦関係がどんな状態であれ、私たちにできることは、それぞれが自分の間違いと限界を認め、神様の助けを求めることだけです。それが、結婚の主導権を神様に握っていただくということで、神様に結び合わせていただくということです。 

 最後に、今日のマルコのテキストには出てきませんが、結婚について話す上で省略してはいけないと思うので、少しだけ付け加えます。独身でいることについてです。これは、未婚の独身だけではなく、再婚しないことも含みます。今日の箇所の並行箇所、マタイによる福音書19:11-12です。

 


D. 独身について(マタイ 19:11-12)

(マタイ19:11-12)11 イエスは言われた。「 誰もがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。12 独身者に生まれついた者もいれば、人から独身者にされた者もあり、天の国のために自ら進んで独身者となった者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」

 イエス様は、結婚の意味を天地創造にさかのぼって重んじられましたが、同時に結婚しない人たちのことも祝福されました。結婚が特別な祝福であることには変わりありませんが、結婚していても、離婚していても、独身であっても、私たちはみんな神様に赦されて愛されていることに変わりありません。神様の助けがなければ、自分の罪と他人の罪の中で溺れてしまうのも同じです。

 そして、誰にも過去を変えることはできませんし、未来を見通すこともできません。でも、自分が今置かれている状況の中に神様の祝福を見出すことは誰にでもできることです。男性も女性も、未婚者も既婚者も、異性愛者も同性愛者も、イエス様は決して誰のことも見捨てることはありません。どうぞ、それぞれの置かれている状況の中で、何度でもイエス様に助けを求め、立ち上がってください。

 


メッセージのポイント

結婚や離婚に関する考え方は時代や文化の影響を非常に強く受けています。私たちは、自分もその影響によって偏見を持っていることを認めた上で、慎重に聖書を読む必要があります。神様が本来意図された結婚は、男女の差別なく、不完全な人間が互いに助け合うことを目的としています。それは、それぞれが自分の限界を認めて神様の助けを求めなければ難しい関係です。

話し合いのために
  1. 9節のイエス様の言葉はどういう意味ですか?
  2. 同性愛についてどう思いますか?
子供たちのために

今回はマルコは難しいと思うので、創世記(特に2:18)を読んで、神様が結婚という関係を祝福していることを話してみてください。神様は私たちが誰もひとりで生きられないことを知っています。そして、家族や友人とともに助け合って生きることを望まれています。きょうだいでも友達でも、神様の前に上下関係はありません。誰とでも互いに利用し合うのではなく、互いに助け合う関係を持てるようになりましょう。