わが民よ、聞け!

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わが民よ、聞け!

(詩編 81)  

永原アンディ

 今日のテキストは、私たちに二つの大切なことを教えてくれます。一つは、お祝いしなさい。お祭りをしなさいということ、そしてもう一つは、神様の言葉に耳を傾けて生きてゆきなさいということです。そして、それらを大切にして生きることが、神様の恵みをたくさん受けて生きることになるのです。しかし、それは「命令を聞かなければ恵みませんよ」ということではありません。恵みは、実はすべての人に注がれているのです。問題は私たちの方にあるのです。私たちは「オオタニさん」の投げるボールを受けるキャッチャーのような者です。ちゃんとサイン交換をしてなかったり、投げる瞬間によそ見をしていたら、うまくキャッチできずに後ろにそらしてしまいます。ぶつかって痛い目に遭うことさえあるでしょう。私たちは神様と似た姿に作られたのに、神様の思いを無視して生きようとするので、神様との息が合わず、恵みをうまく受け取ることができないということが起こるのです。

 

A. 主の命令

 1) 私と私の民と共に生きる人生を祝おう (1-6a)

 

1 指揮者によって。ギティトに合わせて。アサフの詩。
2 我らの力である神に喜び歌え。ヤコブの神に喜びの声を上げよ。
3 歌声も高らかに、タンバリンを打ち鳴らせ 琴と竪琴の麗しい音色に合わせて。
4 角笛を吹き鳴らせ、新月に、満月に、我らの祭りの日のために。
5 まことに、これはイスラエルの掟 ヤコブの神の法
6 神がエジプトの地を押さえつけて出で立ったとき ヨセフに授けた定め。

 

 イスラエルの民は、その歴史を通して与えられた神様の恵みを思い起こすために、いくつかの祭りの日を大切にしていました。その概要はレビ記23章にまとまっています。特にこの箇所で注目されているのは、出エジプト後の荒野のテント生活の時の記念であり、律法を与えられたことの記念である、秋の「仮庵の祭り(Sukkot)」です。 悲観的な見方をすれば、エジプトでの奴隷生活に苦しみ、荒野での不安定な生活に苦しみ、今もやはり戦争の中で苦しんでいる民です。その民に神様は詩人を通して、大いに祝祭をしなさいと命じます。

このことは現代の、主に従って歩もうとする私たちにとって何を意味するのでしょうか?それはいうまでもなく、「主の日の祭り」=礼拝です。 イスラエルの民は、祭りを通して恵みを再確認して今の時代まで、多くの苦しみを乗り越えて生かされてきました。 私たちも同じです。私たちにとっては過越も仮庵も間接的な記憶ですが、私たちの人生の中で起こってきた「私のエジプト生活」「私の荒野の生活」がそれぞれにあるでしょう。そしてまた、私たちは今も大きな困難の下にあります。それでも神様は共に捧げる礼拝をするように命じておられると思います。それぞれが日々の生活の中で、静かな主とだけで過ごす「礼拝」はもちろんですが、ここでは「共に集う主の日の礼拝」を諦めてはいけない、と命じられていると思います。

それで、皆さんにもお知らせしたように、コロナウイルス感染の危険を避けつつ、共に捧げることのできる礼拝のかたちとして、配信中心の礼拝をしばらくは続けてゆくことにしたのです。心を集中して捧げることは、より困難かもしれませんが、私たちもできるだけ工夫をしてお送りしますから、大切な「主と共に歩んでいることを記念するお祭り」を共に祝い続けてゆきましょう。

 

2) 主の預言に聞き従おう (6b-15)

 

私は、いまだ耳にしたことのない言葉を聞いた。
7 「私は彼の肩の重荷を除き 彼の手を籠から外した。
8 あなたが苦難の中で叫ぶと 私はあなたを助け出した。 雷雲の隠れ場からあなたに答えメリバの水のほとりであなたを試みた。〔セラ
9 わが民よ、聞け、あなたに命じる。イスラエルよ、わたしに聞き従うように。
10 あなたのうちに他の神があってはならない。 異教の神にひれ伏してはならない。
11 私は主。あなたの神 エジプトの地からあなたを上らせた者。口を大きく開けよ、私はそれを満たそう。
12 しかし、わが民はわが声に聞き従わず イスラエルは私を求めなかった。
13 私は彼らをそのかたくなな心に任せ 彼らは思いのままに歩んだ。
14 もし、わが民が私に聞き従い わが道をイスラエルが歩むならば
15 たちまちその敵を屈服させ 彼らを苦しめる者に向かって手を上げよう。」

 

 祝祭が私たちの魂を引き上げ、喜びに満たすものとして欠かせないものであるとすれば、聖書を通して、礼拝のメッセージを通して、また人々の言葉、書物を通して与えられる神様の言葉は、祝祭で得たエネルギーを日々の歩みの中で正しく用いるために欠かせないものです。「主の預言に聞き従う」とはそのことを指しています。 祝祭が魂のエンジンなら、神様の言葉は、ハンドルであり、ブレーキです。 日曜日にこのようにお話ししたことを、明日になったらきれいさっぱり忘れてしまうのでなく、関連する聖書の箇所を読んでみたり、ミニチャーチで話し合ってみることによって、子供たちに人気の「カーズ」の多くの個性的なキャラクターのように「素敵な車」になることができます。

聖書は、手に持ってポーズをつける道具ではありません。また、部分的につまみ食いして、人々を差別する道具でもありません。私たちの魂が健康に生き続けられるための栄養のコンテナーです。

わが民よ聞け!と神様は預言者を通して、聖書を通して、今も私たちに呼びかけられています。そして続けます「私に聞き従いなさい」。今この時代に、神様に聞き従うとはどういうことなのか、自分でよく考えなければなりません。神様に聞き従うということと、聖書を持ってポーズをつける人に、牧師に、宗教指導者に聞き従うこととはイコールではありません。

だから私たちには、誰かと共に捧げる礼拝だけではなく、一人で主の前に身をおき過ごす時が必要なのです。誰が言うことでもなく、主か心に語りかけてくださることを受け取るために、5分でも10分でも、そのような時を持ってください。

 


B. 主と共に生きる幸い (16,17)

 

53 イエスは言われた。「よくよく言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。54 私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる。55 私の肉はまことの食べ物、私の血はまことの飲み物だからである。56 私の肉を食べ、私の血を飲む者は、私の内にとどまり、私もまたその人の内にとどまる。57 生ける父が私をお遣わしになり、私が父によって生きるように、私を食べる者も私によって生きる。…63 命を与えるのは霊である。肉は何の役にも立たない。私があなたがたに話した言葉は霊であり、命である。

 

もう皆さんは、「主を憎む者」が特定の国や人種、宗教を指しているのではないことをよくご存じだと思います。 しかしそのように考え、聖書をそのための道具に使っている人は、まだ多くいます。他宗教やそれを信じる人を、様々な少数者を、聖書という道具を使って「罪人」と認定し、自分は正しい「神の民」と認定したいのです。そのような態度は、残念ながら世の終わりまでなくなることはないでしょう。それこそが、人間の持つ罪の性質から来るものだからです。しかし、イエスに従うということは、この態度から離れようとする意志を持つということです。「誰とでも友達となる、誰でも愛する、裁くことは神様にお任せする」という、イエスがお手本として示した態度です。難しいです。失敗します。しかし意思し続けることを諦めてはいけません。

2000年前、神様が一人の人イエスとしてこの世界にこられて、「神の民」の概念は大きく変化しました。それは、人種的、宗教的な目に見える概念から、創造されたすべての人間の心についての概念への変化です。そこで現代に生きる私たちに求められているのは、神がイスラエルに命じられたことを形式的に守ることではなく、神様の命令を「イエスの福音」というフィルターを通して理解し、イエスと共に、イエスの言葉に従って生きることなのです。そして、それこそが、私たちの魂を健康に保つ秘訣です。主に従って歩むなら、肉体を健康に保つ食物に限らず、魂の健康を保つための栄養を豊かに与えられます。

 


メッセージのポイント

神様が、一人の人イエスとしてこの世界にこられて、「神の民」の概念は大きく変化しました。それは、人種的、宗教的な目に見える概念から、創造されたすべての人間の心の概念への変化です。ですから、私たちに求められているのは、神がイスラエルに命じられたことを形式的に守ることではなく、神様の命令を「イエスの福音」というフィルターを通して理解し、イエスと共に、イエスの言葉に従って生きることなのです。

 

話し合いのために
  1. 神様が私たちに命じられおられる一番大切なことは何でしょう?
  2. 神様は誰に向かって「わが民よ」と呼びかけておられるのでしょう?

 

子供たちのために

(ご両親に) 旧約聖書は、直接的には「当時の神の民」ユダヤ人に向けて書かれています。「現在の神の民」である私たちは、これを注意深く読まなければ、私たちは聖書を単に「教育勅語」から置き換えた道徳の教科書に矮小化させてしまうことになります。ここで強調したいことは、1)神様との交わりとは、神様と人々との祝福に満ちた、大いにお祝いすべき喜ばしいことであり、私たちの捧げる礼拝の本質は「祝祭」だということ。 2)聖書の言葉を(注意深く)読み、互いに分かち合うことによって、人生の歩みが正しく導かれること。 です。

(子供たちに) 私たちは、大切な家族やお友達の「誕生日」を、喜んでお祝いし、一緒に楽しい時を過ごします。みんなで集まって礼拝することは、神様がイエス様として世界に来てくださって、私たちの主となってくださったことを祝うことなのです。クリスマスやイースターだけでなく、神様を毎週お祝いする理由は、目には見ることのできないイエス様を忘れずに、毎日イエス様と一緒に歩けるようにするためです。私たちが聖書を読むのも同じ理由です。