主の都はどこに?

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主の都はどこに?

詩編 101

永原アンディ

ダビデの詩。賛歌。
慈しみと公正を私は歌い主よ、あなたに向かってほめ歌います。

私は全き道を悟ります。あなたはいつ、私のところに来られるのか。
私は全き心をもってわが家の内を歩みます。

私は邪悪なことを目の前に置かず
主に背く行いを憎みます。それは私に付きまとうことはありません。

曲がった心は私から遠ざかります。
私は悪を知ることはないでしょう。

陰で隣人をそしる者を私は滅ぼします。
高ぶる目、驕る心を持つ者に
耐えることができません。

私はこの地の誠実な者に目を向けます。
彼らは私と共に住みます。
全き道を歩む者が私に仕えます。

欺きをなす者は
私の家の中に住むことはありません。
偽りを言う者が
私の目の前に立つことはありません。

朝ごとに、私はこの地の悪しき者をことごとく滅ぼします。
主の都から悪事を働く者をことごとく絶やします。


1. 偽善的な歌なのか? (1-6)

 今、全体を読んでみて、どのような気持ちですか?こんなふうに言えたらすごいけど、自分の有様とは程遠い、自分の気持ちとして素直に歌えないと思うのは、至極当然のことです。これを疑いなく歌えるのは。本当の聖者か偽善者のどちらかです。

ダビデの詩。賛歌。
慈しみと公正を私は歌い主よ、あなたに向かってほめ歌います。

それは、私たちもしていることです。しかし次の4つの節には違和感を覚えます。

2 私は全き道を悟ります。あなたはいつ、私のところに来られるのか。
私は全き心をもってわが家の内を歩みます。

3 私は邪悪なことを目の前に置かず
主に背く行いを憎みます。それは私に付きまとうことはありません。

4 曲がった心は私から遠ざかります。
私は悪を知ることはないでしょう。

6 私はこの地の誠実な者に目を向けます。
彼らは私と共に住みます。
全き道を歩む者が私に仕えます。

 「ます」を「ません」に、「ません」を「ます」に変えれば、自分の有様にぴったりです。これは偽善ではないだろうか?とさえ思えます。今まで、私たちはありのままの姿で主の前に立てることを繰り返し確認してきました。この詩にはダビデの名が冠せられていますが、まずダビデの生涯がそのようなものではありません。これは私たちの信仰とはかけ離れた理想主義的な歌なのでしょうか? 

 聖書には、この詩だけでなく一見すると、とても守る事のできない教えを命じられているように見える箇所は少なくありません。特に旧約聖書は、イエスが来られる以前に書かれているので、これはどのような意味で私たちにとって「神の言」なのだろうかと思うことによく突き当たります。イエスに従って歩みたいと願う私たちは、これらの言葉をどう受け止めたら良いのでしょうか?


2. 民族主義的な歌なのか? (7, 8) 

 その答えを考える前に、もう一つの点を考えておきましょう。6-8節をもう一度読みます。

欺きをなす者は
私の家の中に住むことはありません。
偽りを言う者が
私の目の前に立つことはありません。

朝ごとに、私はこの地の悪しき者をことごとく滅ぼします。
主の都から悪事を働く者をことごとく絶やします。

 前節の「誠実な者に目を向ける」(6)のは良いとしても、なんだか物騒なことになってきてしまいました。これを文字通りに実行するとしたら、私たちの家、私たちの国は非常に不寛容なものになってしまいます。ユダヤ教に限られるものではありませんが、宗教にはそのような不寛容さ、偏狭なナショナリズムの源泉になる性質があるのです。テロリストは愉快犯でも、利己心からでもなく、自分の信念に基づいて犯行に及びます。自分の神がそう命じていると思い込めば、どんなに残忍なことでもできてしまうのが人間です。だから宗教は害悪だと考える人もいるのです。しかしそれは宗教がなくても同じ事です。宗教の代わりに主義や思想がそれに変わるだけのことなのは、世界の国々を観察すればわかることです。

 ここまで来ると、どこにこの歌が聖書の中に含まれている意味があるのだろうかと思う人もいると思います。実際にキリスト教の歴史を見ると、ごく初期から旧約聖書は聖書ではないとする考えがあったことがわかります。しかしキリスト教会はその考えを異端とし、旧新約両聖書を聖書としてきました。その根拠はイエスです。


3. この歌を私たちも歌える理由

 イエスはこの世界に来られて、聖書の誤った読み方を正されました。イエスの地上におられた時点では聖書とは旧約聖書のことです。イエスは聖書が間違っているのではなく、その読み方が間違っていると教えてくださったのです。

 その最も重要な点は、聖書が、それを表面的に受け止めて、それにそぐわない人や考えを裁くためのものではなく、自分を神様と繋ぐためのものだと教えてくださった事です。

 宗教(Religion)の元の言葉はラテン語(religio)で「ふたたび」という意味の接頭辞reと「結びつける」という意味のligareの組み合わせた言葉です。人は神様に自分で再び結びつくことができません。聖書の言う罪は、道徳的なものではありません。神から離れ自分を神としようとする、誰もが持っている人間の性質です。このことだけを考えれば、この詩のように生きられる人は一人もいないのです。

 しかし、神様はイエスとしてきてくださり、ご自身を接着剤のようにして人と繋がってくださいました。イエスの十字架での痛みは、イエスの負った全ての痛みの氷山の一角でしかありません。この罪のない方が、罪を持つ人のようにして地上を生きた間、全ての罪に苦しむ人の痛み、悲しみ、恐れをご自分の身に引き受け、赦し、繋がってくださったのです。そのような意味でイエスと私たちは一体です。この詩のように生きることは私たちには無理でもイエスには自然なことです。イエスの体である私たちは、体である教会としてならそのように生きるということです。

 またイエスの敵は、他宗教、他民族、外国人、罪人ではありません。私たちの心に働きかけて惑わせようとする罪の性質です。

 つまり教会はこの詩でいう主の都であり、私たちの心は神様の住まい、神殿であると言うことです。
私たちの戦いはこの罪との戦いです。私たちはこの敵にも、聖霊の力をいただいて対抗することができます。ですから、私たちは自分の罪深さを嘆くのではなく、イエスの聖さ強さを思い、聖霊の働きを期待して、この歌を歌って生きてゆくことができるのです。

(祈り) 神様、今日もあなたの大きな恵みに生かされていることを確認させてくださり、ありがとうございます。私たちの弱さ、醜さを厭わず、愛してくださり、決して見捨てる事のないあなたの愛の大きさに、いくら感謝してもしきれません。どうぞ私たちのうちにあなたの愛が満ちて、罪の性質をすっかりと覆ってください。あなたの慈しみと公正が、私たちを通してこの世界に表されますように私たちを聖霊で満たして用いてください。主、イエスキリストの名によって祈ります。


メッセージのポイント

ダビデの名を冠した歌ですが、あまりにも優等生的で、ダビデの生涯を見てもそのように生きたとは言えません。さらに、自分たちの国、民族だけを正しい者と見做すような民族主義のようにも感じられます。実際のところ、当時の人々はそう思っていたのです。この詩に新しい命を吹き込んだのはイエスです。イエスは私たちの心を問題とされました。わたしたちこそ神の都、神の家。イエスは、私たちがそれに全く相応しくないものであることを知った上でそう言われるのです。

話し合いのために

1) 神の都はどこにありますか?
2) なぜ私たちにもこの歌を歌う資格があるのですか?

子供たちのために(保護者のために)

旧約聖書の神が、私たちの神であることを教えてくださったのはイエスです。人間の社会に問題があること、私たち自身にも問題があること、神の目から見て完全な道を歩めないものであることを承知の上で、私たちの心を神様の家としてくださったことを伝えてください。私たちの戦うべき相手は、隣人や、隣国、他民族、他宗教ではなく、自分心の中の利己心、自己中心性です。しかしそれを克服する力さえないのが私たちであり、その力を与えてくれるのがイエスなのです。