コヘレトとイエス様が教える生きる喜び

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コヘレトとイエス様が教える生きる喜び

コヘレトの言葉、マタイによる福音書16:25-26、他

池田真理


 今日はいつものローマ書のシリーズではなく、旧約聖書の「コヘレトの言葉」と新約聖書のイエス様の言葉を読んでいきます。「コヘレトの言葉」を読みたいと思ったのは、去年出会った本の中で、「コヘレトの言葉」の新しい解釈を教える本がとても良くて、皆さんにぜひ紹介したいと思ったからです。小友聡「コヘレトの言葉を読もう -『生きよ』と呼びかける書」(日本キリスト教団出版局)です。小友先生は私の神学校の先生でもあったので、小友先生と呼ばせていただきます。今日のメッセージの前半はこの本に基づいてお話ししたいと思います。早速、コヘレトの言葉1:1-11を読んでいきます。

A. コヘレトの教える生きる意味
1. 人生は短く、私たちの存在は小さい (1:1-11)

1 ダビデの子、エルサレムの王、コヘレトの言葉。2 コヘレトは言う。空の空/空の空、一切は空である3 太陽の下、なされるあらゆる労苦は/人に何の益をもたらすのか。4 一代過ぎ、また一代が興る。地はとこしえに変わらない。5 日は昇り、日は沈む。元のところに急ぎゆき、再び昇る。6 南に向かい、北を巡り/巡り巡って風は吹く。風は巡り続けて、また帰りゆく。7 すべての川は海に注ぐが/海は満ちることがない。どの川も行くべき所へ向かい、絶えることなく流れゆく。8 すべてのことが人を疲れさせる。語り尽くすことはできず/目は見ても飽き足らず/耳は聞いても満たされない。9 すでにあったことはこれからもあり/すでに行われたことはこれからも行われる。太陽の下、新しいことは何一つない。10 見よ、これこそは新しい、と言われることも/はるか昔、すでにあったことである。11 昔の人々が思い起こされることはない。後の世の人々も/さらに後の世の人々によって/思い起こされることはない。

 これを読むと、これのどこに救いがあるのか、誰でも戸惑います。中でも、最も印象的なのは2節だと思います。

空の空/空の空、一切は空である。

日本語でも英語でも、全ては空しい、無意味だと繰り返されていて、とても虚無的な響きです。でも、小友先生によると、この「空しい」「無意味」と訳されている言葉は、元々のヘブライ語では必ずしも否定的な意味ばかりではなく、「儚い」とか「短い」「束の間の」というふうにも訳せる言葉だそうです。そして、コヘレトの言葉全体で読んだ時に、コヘレトは決して人生が全て虚しく意味がないとは言っていないので、ここを単純に虚無的で絶望的な嘆きとして読むべきではないといいます。
 では、コヘレトは何を言いたかったのでしょうか?それは、私たちの生涯は短く、私たちの存在は小さいという現実から、目を逸らしてはいけないということです。私たちは、健康な時、物事が順調にいっている時には、自分の命の儚さを忘れてしまいます。コヘレトは、命には限界があるが、限界があるからこそ、生きることは尊いと伝えようとしています。3:12-13を読みます。

2. でも、命は神様からの賜物である (3:12-13)

12 私は知った/一生の間、喜び、幸せを造り出す以外に/人の子らに幸せはない。13 また、すべての人は食べ、飲み/あらゆる労苦の内に幸せを見出す。これこそが神の賜物である。

 これと似たような言葉がコヘレトの言葉には繰り返し出てきます。小友先生の本を読むまでは、これは、「せいぜい好きなように食べて飲んで暮らすくらいしか人生の楽しみはない」と言っているのだと思っていました。でも、そうではないようです。食べることも、飲むことも、苦労して働くことも、私たちの日常です。そのような当たり前の日常を送れることこそが人の幸せだと、コヘレトは言っています。
 小友先生によると、コヘレトの生きた時代は、戦争が長く続き、外国の支配によってイスラエル民族の伝統的価値観が揺らぎ、貧富の格差が広がり、人々はこの世に希望を見出せず、死後の世界に希望を持つようになったといいます。そして、この世では禁欲的に生きるべきであるという教えが広まりました。コヘレトはそのような考え方に真っ向から対立しました。神様が私たちに命を与えてこの世界に置かれているのは、私たちがこの世界に生きることを嫌い、一生を嘆きのうちに過ごすためではなく、日々の生活に幸せを見出すためだと信じたのです。「それこそが神の賜物である」と言います。
 コヘレトも親しんでいたと思われるヨブ記の中に、このような言葉があります。

もし、神がご自分だけに心を留め
その霊と息をご自分に集められたなら
すべての肉なる者は共に滅び
人は塵に帰るだろう。(ヨブ記34:14-15)

私たちの命は、今この瞬間も神様が私たちに与えてくださっている賜物です。最期の息を引き取る瞬間まで、それは変わりません。私たちは、自分の命が自分のものであると誤解すると自分勝手に生きようとしますし、絶対に手放したくないと思うようになります。または反対に、自分で手放してもいいと思ってしまうことも起こります。でも、この命は、神様が私たちに期限付きで与えてくださっている、この世界で幸せに生きるための賜物なのです。

 でも、神様は私たちが幸せに生きることを望んでいると、どうして分かるのでしょうか?また、神様の望む私たちの幸せとはどのようなもので、私たちはどうすればそれを手に入れられるのでしょうか?その答えの全てが、イエス様にあります。新約聖書マタイによる福音書16:25-26を読みます。


B. イエス様の教える生きる喜び
1. イエス様のために命を失わなければいけない? (マタイ16:25-26)

自分の命を救おうと思う者は、それを失い、私のために命を失う者は、それを得る。たとえ人が全世界を手に入れても、自分の命を損なうなら、何の得があろうか。人はどんな代価を払って、その命を買い戻すことができようか。(マタイ16:25-26)

 財産や権力を手に入れても、人は決して満足できないし、幸せにはなれません。では何が必要なのかというと、イエス様は、「私のために命を失うことだ」と言われています。イエス様のために命を失うとは、自分の人生を自分のために使うことをやめて、ひたすらイエス様のために使うということです。それでは、やはり私たちは禁欲生活をして、この世を憎んで生きるしかないと言われているようにも思えますが、イエス様の真意はそういうことではありません。ヒントに、こんなたとえ話をしています。(マタイ13:44-46)

天の国は、畑に隠された宝に似ている。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をすっかり売り払い、その畑を買う。また、天の国は、良い真珠を探している商人に似ている。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。(マタイ13:44-46)

イエス様に自分の命を捧げるとは、イエス様のことを、自分の持ち物を全て売り払ってでも手に入れたいと願う宝だと知って、そのようにイエス様を探して生きることです。自分自身よりも、他の誰よりも、どんな財産や権力よりも、イエス様に価値があるということは、誰かにそう言われてすぐに信じられることではなく、一人ひとりが時間をかけて確かめることです。たとえ話でも、宝は隠されていて、探さなければ見つかりません。

 でも、イエス様を探して、見つけて生きることは、私たちの一生をかけるに値する宝探しです。なぜなら、私たちがイエス様を探すより前に、イエス様の方が先に、私たちをご自分の宝として探してくださっている方だからです。その証拠が、十字架です。イエス様が十字架で死なれたことは、神様が私たちをご自分の命よりも大切な宝として愛しておられる証拠です。

 だから、私たちがイエス様を探すといっても、イエス様は意地悪でご自分を隠しているわけではありません。私たちの罪が、すぐそばにおられるイエス様を隠しているだけです。

 どうすれば、私たちは自分たちの罪の中でも、イエス様を探すことができるのでしょうか?それは、イエス様を自分の親友として生きることによります。

2. イエス様を親友として生きる

 皆さんには親友と呼べる友達がいるでしょうか?胸を張って「いる」と答えられる人は、実はこの世界にあまり多くないのではないかと思います。また、いるとしても、自分の喜びも悲しみも全て共有できる人というのは、いないと思います。でも、イエス様は私たち一人ひとりの親友になってくださる方です。ただ、宝探しと同じで、私たちがイエス様の親友になるのにも時間がかかります。私たちの方が、イエス様を本当に自分の親友と呼んでいいのか、信頼していいのか、確かめるのに時間がかかるからです。そして、友人であればケンカもします。イエス様が悪意を持ってケンカを売ってくることはありませんが、私たちの方がイエス様のことを理解できずに、ケンカを売ることはあり、イエス様はそれを受け止めてくれる方です。

 目に見えない、実際に会うことはできないイエス様のことを、こんなふうにいうのは、少し抽象的で分かりにくいかもしれません。でも、私たちがイエス様を信じて生きるということは、一人ひとりとイエス様の関係の中で起きることで、一人ひとりが自分で確かめていくしかありません。そして、イエス様が言われた「自分の命を救おうと思う者は、それを失い、私のために命を失う者は、それを得る」ということは、私たちがイエス様のことを自分の命よりも大切な親友とすることと言い換えられると思います。そのことによって、この世界でイエス様と共に生きる喜びを知り、イエス様と共に人を愛する喜びを知ることができます。

 そして、やがてこの世界を私たちが去った時、出迎えてくれるのは、同じイエス様です。私たちの親友は、私たちがこの世界を生きている間の喜びであり、死んでしまった後に会えることを楽しみにできる喜びなのです。

(お祈り)私たちの主であり、友であるイエス様、どうか、今、生きることの空しさや辛さに打ちのめされている人に、あなたがおられることを示してください。人が与えることのできる楽しみや安らぎには限界がありますが、あなたのくださる喜びと平和は永遠に消えることはありません。どうか、あなたのくださった愛を信じてあなたを愛して生きることのできる希望で、私たちを導いてください。主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。


メッセージのポイント

旧約聖書の「コヘレトの言葉」は、私たちの人生は短く、私たちの存在は小さいからこそ、日常の幸せを大切にして生きることを教えています。この世界で生きていくことは、時に日常を失うことがあり、日常の幸せがかき消されてしまうほど辛い時もあります。でも、イエス様は私たちに、人生の最期の瞬間まで喜びと希望を持って生きる方法を与えてくれました。それは、イエス様の親友として生きることです。


話し合いのために

1) 生きることはむなしいと言う人に、あなたは何と言いますか?(何をしますか?)

2) 教会とは何ですかと問われたらどイエス様がくださった生きる喜びとは何ですか?


子供たちのために(保護者の皆さんのために)

マタイ13:44-46を読んで、イエス様を信じて生きることは、何か決まったルールに従わなければいけないとか、自分の何かを犠牲にしなければいけないとか、そういうことではなく、喜んで自分の全てをささげたくなるほどに、イエス様を大好きになってしまうことだと話してください。「自分の全て」が具体的に何を意味するのかは、人によって違います。でも、喜んでささげられることが大切です。なぜそんなにイエス様を大好きになれるのかは、保護者の皆さんの経験を交えて話してください。