聖書はなぜ「呪いの言葉」まで記録したのか?

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聖書はなぜ「呪いの言葉」まで記録したのか?

詩編109編

永原アンディ


 聖書にはなぜこんなにひどいことまで書かれているのかと困惑する部分があります。今日の箇所もそうです。表題は「ダビデの詩。賛歌」ですが、内容ははっきり言って「ダビデの詩。呪い」です。ローマの信徒への手紙12:14でパウロは「あなた方を迫害する者を祝福しなさい、呪ってはならない」と言いますが、パウロと詩人のどちらが正しいのでしょうか?一言で「聖書は神様の言」と言っても、旧約と新約では読み方を変えなければなりません。それは「イエス以前」「イエス以後」の違いがあるからです。さらにその上で、新約も旧約もイエスあるいは福音というフィルターを通して読まなければ、字面どおりでは神様の意図を受け取り損なってしまいます。結論を先に言いますが、聖書に呪いの言葉さえ記録されているのは、神様が人間の呪いの言葉さえも祝福に変える方であることを私たちに知らせるためなのです。そのことを今日のテキストを中心に考えてみましょう。

1. 詩人の置かれている状況 (1-5)

 長い詩なので全部を読みませんが、全体を三つの部分に分けて考えてみます。まず5節までは詩人が自身の置かれている状況を神様に訴えている部分です。読んでみましょう。

指揮者によって。ダビデの詩。賛歌。私の賛美する神よ 押し黙らないでください。悪しき者の口が欺きの口が私に向かって開き偽りの舌が私に語りかけます。憎しみの言葉が私を取り囲み理由もなく戦いを挑んで来ます。私の愛に反して、彼らは私を訴えます。私は祈るばかりです。彼らは善には悪をもって私の愛に憎しみをもって報います。

 読んで分かることは、どうやら詩人を苦しめる者は、例えば外国の軍隊のようなあからさまな敵ではないということです。それどころか、自分は愛し善をおこなっているのに、相手は悪や憎しみで返すと言っているように、もっと身近な人々に対する思いのようです。そして、それなのに、神様はそれに対して何も言って下さらない。「黙っていないでください」と訴えているのです。皆さんもこの思いに共感できるのではないでしょうか?それは誰でもが陥る状況であり、神様の沈黙をいぶかることも少なくないからです。

 神様に不満を持ったり、それを訴えたりすること、また他者を呪う事は禁止されていると思い込んでいる人は少なくありません。先のパウロの「呪ってはならない」を文字通り受け取れば、そういうことになるでしょう。しかし、それではこれから紹介する詩人の呪いの言葉がなぜ聖書に記録されているのかの説明がつきません。神様は私たちが不満を訴えること受け止めてくださいます。また、自分を苦しめる相手を呪うことさえ、喜んでというわけではないにしても受け止めてくださいます。

2. 呪いの言葉さえ包容し、祝福に変える神様 (6-25)

 この部分は解釈の意見が異なるところで、対立者の、詩人に対する呪いと解釈することも可能なのですが、後の部分で詩人もはっきりと対立者を呪っている部分があるので、解釈によって本質が変わるわけではありません。対立者と詩人は互いに呪い合っているのです。それでは詩人がどのように相手を呪っているか読んでみましょう。6−25節ですが全部は読みません。

彼の人生の日々は僅かとなり仕事は他人が取り上げるがよい。子どもらはみなしごに妻はやもめになるがよい。子どもらは放浪して物乞いをすればよい。廃虚となった家からも追い出されるがよい。金貸しが彼の持ち物一切を奪い取り見知らぬ者がその稼ぎをかすめ取るように。彼に慈しみを注ぐ者がいなくなりみなしごとなった彼の子らを憐れむ者もいなくなるように。子孫は絶たれ次の代には彼らの名前も消し去られるように。(6-13)

 聖書は神の言のはずなのに、神様は検閲しなかったのでしょうか?もしこれがツイッターだったら、どこかの大統領のようにアカウントを止められてしまうでしょう。しかも詩人は、自分の呪いを正当化するためにこんなことも言っています。

これは、彼が慈しみを示そうとは思わず心の挫けた人を死に追いやろうとしたからだ。彼が呪いを好んだのでそれは彼にやって来た。祝福を喜ばなかったのでそれは彼から遠ざかった。

 詩人は呪いを呪いで返しているに過ぎません。わたしたちも口にしてしまいます。ただ彼の言葉には希望につながる、先の光が見える部分もあるのです。

しかし、主よ、わが主よ御名のために私に関わりあなたの恵みと慈しみのゆえに
私を助け出してください。私は苦しみ、貧しく胸の奥で心は刺し貫かれています。(21,22)

 口からは呪いの言葉しか出てこないような状況の中で、実際に呪いの言葉を吐きながら、自分の無力を知り、神様に関わってもらうことを求める気持ちは消えていないことがここでわかります。神様はこの気持ちに応えてくださるのです。

3. 自分の不完全にもかかわらず祝福を確信する (26-31)

 26-28節を読んでみましょう。

わが神、主よ、私を助けてください。あなたの慈しみにふさわしく私を救ってください。それがあなたの手によることを人々は知るでしょう 主よ、あなたがそうなされたのだと。彼らが呪っても、あなたは祝福してくださいます。彼らは反逆して恥をかき、あなたの僕は喜びます。

 私たちが相手を許容できず、互いに呪いの言葉で応酬するような中にも神様は本当に介入してくださいます。互いに対する恨み辛みの言葉に神様は目をつむってくださるでしょう。しかし神様の正義と愛に対する反逆にはいつまでも黙ってはおられません。だから私たちは、呪いの言葉を口にするしないというようなレベルのことを求められているのではなく、神様の愛と正義を行うことを求められているのですです。神様の愛と正義を最もよく表しているのは誰でしょう。もちろんイエスです。しかし福音書に記されているイエスの言動をただ繰り返し読むだけでそれが身につくわけではありません。私たちが読むときに、祈るときに、話を聞くときに、話し合うときに、神様の霊、聖霊の働きを心から願い、日常の行動の中で表していくときに、それは少しづつ自分のものになってゆきます。そこに個人の才能や経験は関係ありません。 主を喜び、感謝して礼拝することを続けている人に、イエスは聖書だけではなく世界を正しく見るためのフィルターとなって下さるということをこの詩の最後に2節が教えてくれます。

私はこの口で、大いに主に感謝し多くの人の中で、主を賛美します。まことに、主は貧しい人の右に立ちその命を死に定める者たちから救ってくださいます。

 祈りましょう。

(祈り)神様、詩人に習い私たちもあなたをほめたたえます。世界がどんなに不公平に映っても、あなたの愛と正義が、呪いと悪とに打ち勝つことを信じます。あなたが一人ひとりに最善を持って報いて下さることを信じて、期待して待ちます。どうか私たちに忍耐する力を与えてください。あなたの愛と正義を知り、行う者としてください。イエスキリストの名により祈ります。


メッセージのポイント

どんなに私たちが自分の正義を振りかざし、互いを呪い合うことがあっても、神様はそのどちらかに加担されるのではなく、ご自身の愛と正義を貫かれます。私たちに求められている事は、聖書に書かれていることを表面的に守ることではなく、イエスキリストの福音を通して明らかにされる神様の愛と正義を聖霊の助けを得てお行って生きることです。


話し合いのために

1. どのようなときに人を呪いたくなってしまいますか?

2. イエスのフィルターとは何ですか?


子供たちのために(保護者の皆さんのために)

子供であっても誰かに対して酷い悪口を言ったことがあると思います。神様はそのこと自体を、悲しくは思われても怒りはしないことを伝えてください。書いてあることを守ることより、ただ神様がどう思われるかをできるだけ知り、それに従って行おうとする事が大切なのです。なぜなら聖書には表面的には対立、矛盾することが書いてあるからです。