私たちはイエス様の代わりにはなれない

洗礼者ヨハネ
メトロポリタン美術館所蔵, CC0, via Wikimedia Commons
見る
日曜礼拝・英語通訳付

❖ 聞く(メッセージ部分)

❖ 読む

私たちはイエス様の代わりにはなれない

ヨハネによる福音書3:22-30

池田真理


 今日はヨハネによる福音書のシリーズの続き、3:22-30を読んでいきます。この福音書の中で洗礼者ヨハネが出てくるのは、この箇所が最後です。その最後の登場にふさわしく、この箇所でのヨハネの言葉は、まるで彼の遺言のように、私たちにとても大切なことを教えています。それが今日のタイトル、「私たちはイエス様の代わりにはなれない」ということです。
 私たちはイエス様が私たちを愛してくださっているように、私たちの周りの人を愛するように言われており、ある意味でイエス様の代わりになってその人たちを愛する役割を与えられていると言えます。でも、どこまでいっても、私たちは決して完全なイエス様の代わりになることはできません。イエス様が愛するように人を愛することも、人を許すことも、私たちには限界があります。それは言い訳でもあきらめでもなく、私たち全てが受け入れなければいけない事実です。イエス様に期待すべきことを人に期待してはいけないということです。
 それではいつものように少しずつ読んでいきたいと思います。まず22-24節です。

A. 私たちの役割はヨハネの役割と同じ (22-24)

22 その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた。23 また、ヨハネもサリムに近いアイノンで洗礼を授けていた。そこは水が豊かだったからである。人々は来て、洗礼を受けていた。24 ヨハネはまだ投獄されていなかったのである。

 最初に少し、メッセージの中心的な内容から外れますが、ここに書かれている状況について補足の説明をしたいと思います。ここには、イエス様とヨハネが同時期にそれぞれ別の場所で人々に洗礼を授けていたと書かれていますが、これはこのヨハネによる福音書にしかない記録です。他の福音書では、イエス様が活動を開始したのはヨハネが投獄された後としていますし、イエス様がヨハネと同じように水の洗礼を人々に授けていた記録はありません。どちらが本当なのか、どちらも本当でただ記録があったりなかったりしただけなのか、真偽のほどは私たちには分かりません。でも、少なくとも、当時、洗礼者ヨハネとイエス様は人々の間でよく比較されていたということは言えます。二人の教えることは共通することが多く、二人とも権力者からは嫌われ、人々には慕われました。
 この箇所の目的は、そのように人々に似ていると見られた二人ですが、イエス様と洗礼者ヨハネには決定的に違う役割があったと教えることです。そして、私たちにはヨハネと同じ役割が与えられており、それはイエス様の役割とは違うということも教えています。
 ヨハネの役割とは、イエス様に先立って行くことでした。人々の心を神様に向け、悔い改めを呼びかけることです。荒れ野で呼びかける声となり、光はあり、道はあると教えることです。このヨハネの役割は、イエス様を信じる全ての人に与えられている役割です。互いの間で、また世界に向けて、イエス様のことを伝え、光はあり、道はあると、呼びかけることです。でも、ヨハネが最初からはっきりと伝えたように、私たちはイエス様ではなく、救い主でも神様の代わりでもありません。光があると教えても、私たち自身は光ではなく、道はあると教えても、私たち自身は道ではありません。私たちはそのことをつい忘れてしまいます。続く25-26節を読みます。

B. 私たちが陥りやすい間違い (25-26)

25 折しも、ヨハネの弟子のある者たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった。26 弟子たちはヨハネのもとに来て言った。「先生、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」

 「ヨハネの弟子のある者たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった」とありますが、どういう論争だったのかは書かれていません。また、清めのことに関する論争だったはずが、ヨハネの弟子たちがヨハネに訴えたのは、ヨハネよりもイエス様の方に人が集まっているということです。清めの論争がどうしてイエス様に対する対抗心につながったのか、私たちには分かりません。私の想像に過ぎませんが、浄めの論争の中で、ヨハネよりもイエス様の人気が上がっていることを、ヨハネの弟子たちは論争相手から嫌味として言われたのかもしれません。お前たちの先生は落ち目だな、と。
 いずれにせよ、このヨハネの弟子たちの態度は、私たちが陥りやすい間違いを示しています。ヨハネ自身が自分は救い主ではないと強調し、弟子たちもそのことを知っていたにもかかわらず、彼らは自分たちの先生であるヨハネが一番であってほしいと願いました。それは結局、ヨハネに救い主になってほしいと願っていることになります。これは、私たちが自分を助けてくれた人に対して持ってしまう間違った期待と同じです。自分を助けてくれた人にはずっと英雄でいてほしいし、いつでも自分の一番の理解者でいてほしいと願います。そして、その人の愛を通してイエス様の愛を知ったはずなのに、いつの間にか、その人自身に期待しすぎて、イエス様に求めるべきものをその人に求めてしまうことがあります。または私たち自身がそのように人に期待されて、頑張って応えようとしてしまうこともあります。それは双方にとって痛い結果をもたらします。私たちは誰も、他の誰かの存在全てを受け入れて愛することなど、できないからです。私たちは皆、神様に愛されている確信を必要としている弱い存在に過ぎません。
 では私たちは人に対してどういう態度を取るべきなのか、続きのヨハネの言葉が聖書の中で最も簡潔に言い表しています。27-30節を読みます。

C. 私たちが目指すべき態度 (27-30)

27 ヨハネは答えて言った。「人は、天から与えられなければ、何も受けることはできない。28 『私はメシアではなく、あの方の前に遣わされた者だ』と私が言ったことを、まさにあなたがたが証ししてくれる。29 花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人は立って耳を傾け、花婿の声を聞いて大いに喜ぶ。だから、私は喜びで満たされている。30 あの方は必ず栄え、私は衰える。」

1. 「私はメシアではない」

 私たちが持つべき姿勢は、まず何よりも、ヨハネが繰り返し言ったように、「私はメシア(救い主)ではない」と自覚し、人にも示すことです。つまり、自分は神様ではないし、人を救う力はないのだと、認めることです。それは簡単なことのようですが、人に感謝され、助けを求められ、必要とされることは、とても大きな誘惑で、私たちは思い上がって傲慢になりやすい者です。この人は自分にしか救えないとか、この人のことは自分が一番よく分かっていると感じることがあったら、危険だと思います。私たちにできるのは、私たち一人ひとりのことを誰よりもよく知っておられる神様がおられ、その神様はいつでも私たちを助けてくださる方だと証しすることです。私たちは救い主ではありませんが、救い主は確かにおられると示すことが、私たちの役割なのです。
 ただ、これは、自分は人のために何もできることはないから何もしないという言い訳でも、あきらめでもありません。神様の愛を示し、救い主が確かにおられることを示すために、私たちが人のためにできることはたくさんあります。イエス様ならこの人のためにどんな言葉をかけるか、どんな行動を取るか、私たちは自分で考え、実行していくことができます。私たちはどこまでいっても不完全で、間違うこともあります。それでも、それが私たちとヨハネに与えられた、荒れ野で呼びかける声になるという役割です。

2. 花嫁を花婿に引き合わせる介添え人 (イザヤ62:5, エフェソ5:30-32)

 次に、ヨハネが花嫁と花婿の例えを使っているのに注目したいと思います。これは旧約聖書の伝統で、何箇所か例がありますが、一箇所読んでみたいと思います。イザヤ書62:5後半です。

…花婿が花嫁を喜びとするように/あなたの神はあなたを喜びとする。(イザヤ62:5)

旧約聖書はこの他にも、神様は花嫁を待ち続け、迎えて喜ぶ花婿のように、私たちのことを愛し、待ち続けておられる方なのだと教えています。この伝統は、イエス様が来られた後、イエス様と教会の関係にも当てはめられるようになりました。エフェソの信徒への手紙5:30-32を読んでみましょう。

私たちはキリストの体の一部なのです。「こういうわけで、人は父母と離れて妻と結ばれ、二人は一体となる。」この秘義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです。(エフェソ5:30-32)

つまり、イエス様が私たちに望まれるのは、私たちが個人としても教会としても、イエス様のパートナーとしてイエス様と一体となって、イエス様の一部となることだということです。

 ただ、ヨハネがここで教えているのは、私たちはイエス様の花嫁であると同時に、イエス様という花婿の介添え人でなければならないということです。この「介添え人」は英語では単純に「友人」と訳されていて、どちらにも訳せる言葉です。私たちは、イエス様の友人として、介添え人として、他の誰かをイエス様のもとに引き合わせる役割を持っているということです。ヨハネの言葉をもう一度読みます。

「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人は立って耳を傾け、花婿の声を聞いて大いに喜ぶ。」

私たちは誰も、誰のことも、自分のものにすることはできません。私たちは誰もがイエス様のものです。だから、最後のヨハネの言葉は私たちが目指すべき態度を教えています。

3 .「あの方は栄え、私は衰えねばならない」

「あの方は栄え、私は衰えねばならない」

(日本語の訳は、今使っている新しい訳よりも、以前使っていた新共同訳の方が分かりやすいので、新共同訳の方を使いました。)

 弱い私たちが互いに助け合うことは、必要なことですし、奇跡でもあります。でも、私たちが人を助ける上で目指すべき目標はいつも、その人が私たちの助けを必要としなくなることです。それは、言い換えれば、私たちが神様の愛を伝えなくても、その人自身が神様の愛を信じられるようになることです。私たちが呼びかけなくても、その人が直接イエス様の声を求めるようになることとも言えます。だから、「あの方は栄え、私は衰えねばならない」のであり、「花婿の介添え人は、…花婿の声を聞いて大いに喜ぶ」のです。私たちは、自分が人に頼られることや人の助けになれることよりも、互いにイエス様に助けられた経験を分かち合えることを喜びます。そして、一緒にイエス様をたたえることができるようになれたら、私たちは互いの弱さや過ちを許し合って、本当に愛し合うということを知っていくことができるでしょう。

(お祈り)神様、あなたが私たち一人ひとりを愛して、花婿が花嫁を喜ぶように喜んでいてくださることをありがとうございます。どうか、そのあなたの愛を、私たちが私たちの周りの人たちに伝えて、一緒に喜ぶことができるように、私たちを用いてください。私たちは、困難に直面して、あなたを見失うことも多くあります。そんな時、私たちが互いにあなたの愛をうつす鏡として、あなたの声を届ける声として、誠実に助け合うことができるように導いてください。私たちはあなたにはなれません。それでも、あなたのようになれるように、あなたのことを一緒にたたえることができるように、毎日を歩むことができるように、どうぞ助けてください。主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。


メッセージのポイント

イエス様を信じる人は誰でも、洗礼者ヨハネと同じように、イエス様に先立って神様の愛を人々に伝える役割を担っています。でも、私たちは決してイエス様の代わりになることはできません。私たち自身は救い主ではありません。このことを、私たちが自分で思い違いをして傲慢になったり、他の人に誤解されて過度に期待されたりすることがあります。私たちはイエス様を信じるために互いの存在を必要としますが、私たちの最大の喜びは、互いに助け合えることよりも、それぞれがイエス様に助けられる経験を互いに分かち合えることです。

話し合いのために
  1. 自分を助けてくれると思った人に失望した経験はありますか?
  2. 私たちはイエス様の代わりになれないのに、イエス様のように人を愛するとは、どうすればよいのでしょうか?
子どもたち(保護者)のために

ヨハネの箇所の中心的メッセージからは外れてしまいますが、私たちと神様の関係は花嫁と花婿のような関係だということを中心に話してみてください。読むとしたらイザヤとエフェソがいいかもしれません。神様は、私たちが花嫁になって神様という花婿のところに来るのを待っています。神様は、花嫁を愛して一生を共に生きると願う花婿のように、私たちを愛し、喜び、大切に思ってくださっています。