信仰は私たちに決断を迫る

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日曜礼拝・英語通訳付

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信仰は私たちに決断を迫る
(ヨハネによる福音書 7:11-24)

池田真理

 今日もヨハネによる福音書の続きで、7:11-24を三つに分けて読んでいきます。早速読んでいきましょう。まず11-13節です。

A. 慣れ親しんだ共同体との対立を恐れないように (11-13)

11 祭りのときユダヤ人たちは、「あの男はどこにいるのか」と言って、イエスを捜していた。12 群衆の間では、イエスのことがいろいろとささやかれていた。「良い人だ」と言う者もいれば、「いや、群衆を惑わしている」と言う者もいた。13 しかし、ユダヤ人たちを恐れて、イエスについて公然と語る者はいなかった。

 今日の箇所は一つのことをはっきりと私たちに教えています。それは、イエス様を信じると決めることは、私たちに様々な決断を迫るものだということです。そして、今日最初に心に留めたいのは、イエス様を信じると決めることによって、私たちは自分がそれまで慣れ親しんできた共同体(コミュニティ)と対立しなければいけない時があるということです。

 13節に「しかし、ユダヤ人たちを恐れて、イエスについて公然と語る者はいなかった」とあります。当時のユダヤ教の宗教指導者たちは、イエスを信じた者をユダヤ教の会堂(シナゴーグ)から追放すると人々に警告していました。つまり、「イエスを信じるなら、もうユダヤ教徒として認めないから、ユダヤ人共同体から出ていけ」ということです。それは、単に信仰の共同体からの追放だけでなく、民族の文化を捨てて、生活を助け合う共同体からも追放されることを意味しました。

 私は19歳の時にイエス様を信じる決心をしましたが、当時そのことを自分の家族や親戚、友人たちがどう思うか、不安だったのを覚えています。私の決心を少しずつ伝えて、最初はお互いにギクシャクした時期もありましたが、私が喜んでいるのを喜んでくれましたし、友人の一人は一緒にイエス様を信じるようになりました。でも、今でも、家族や親戚や友人の多くは、私がなぜイエス様と教会のことを大切にしているのか理解しているわけではないので、一番大切なものを共有できない寂しさともどかしさはあります。

 皆さんの中には、信仰を持つにあたって、私よりもずっと、家族や友人に反対されて辛い思いをしてきた方もいるかもしれません。でも、本当にお互いのことを大切にし合っている関係なら、最初は反対していたとしても、あなたがなぜそんなにイエス様のことを大切にしているのか、知ろうとするはずです。そして、たとえ理解できなくても、あなたのことを信頼しているなら、あなたの決断を尊重してくれるはずです。知ろうともしないで否定する人がいるとしたら、それはここでイエス様のことを知ろうともしないで排除しようとしていたユダヤ教指導者たちと同じで、ただ自分の立場をイエス様に取られたくないという自己中心的な思いに支配されているのだと思います。そういう人とは、恐れずに対立しなければいけない時があるかもしれません。

 それでは次の部分に進みましょう。14-18節です。

B. 神様の意志を求め、真の神様を畏れるように (14-18)

14 祭りも既に半ばになった頃、イエスは神殿の境内に上って行き、教え始められた。15 ユダヤ人たちが驚いて、「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」と言うと、16 イエスは答えて言われた。「私の教えは、私のものではなく、私をお遣わしになった方のものである。17 この方の御心を行おうとする者は、私の教えが神から出たものか、私が勝手に話しているのか、分かるはずである。18 自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不正がない。

 この場面でイエス様の話を聞いていた人々の多くは、イエス様のことをよく知りませんでしたが、宗教指導者たちがイエス様のことを殺そうとしていることは知っていました。彼らにとってイエス様は田舎から出てきた一人の有名人に過ぎず、自分の生活や人生に個人的に関わりのある人だとはまだ認識していませんでした。

 ここで少し、今日のお話の背景にある旧約聖書の話をしたいと思います。旧約聖書には、神様と人の間に新しい契約をもたらす預言者の存在が預言されていて、イエス様の時代のユダヤ人はその預言を民族の救い主の到来として待望していました。その預言は申命記18章にあります。一部を読みます。

私は彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立て、その口に私の言葉を授ける。彼は私が命じるすべてのことを彼らに告げる。…ただし、預言者が傲慢にも、私の命じていないことを私の名によって語ったり、他の神々の名によって語ったりするならば、その預言者は死ななければならない。(申命記18:18-20)

これは神様がモーセに語った言葉で、いずれ再びモーセのように人々を正しい道に導く預言者を立てるという約束です。ただ、当時から、偽の預言者の問題がありました。神様の名前を使って、ありもしないことを神様の御心であるかのように告げる人々です。旧約聖書の人々は、そういう偽の預言者たちを見極めて、恐れてはいけない、と教えられていました。預言者が、本当に神様に遣わされていて、本当に神様の言葉を代弁しているのかどうか、自分たちで見極めなさいということです。

 このような旧約聖書の背景があって、今日のイエス様の言葉があります。もう一度、16-17節のイエス様の言葉を読みます。

「私の教えは、私のものではなく、私をお遣わしになった方のものである。この方の御心を行おうとする者は、私の教えが神から出たものか、私が勝手に話しているのか、分かるはずである。」

イエス様は、「旧約聖書の時代から教えられてきた通り、あなたたちには本物の預言者と偽物の預言者の見分けがつけられるはずだ」と人々に言われています。そして、それに必要なのは、神様の御心を行おうとしているかどうかだといいます。神様のことを本気で礼拝し、愛し、神様の意志が実現することを求めているなら、イエス様の言葉がその神様に基づいていることが分かるはずだということです。

 私たちは、もともと旧約聖書の預言を信じて救い主の到来を待っていたわけではなく、そもそも神様という存在すら信じていなかったかもしれません。それでも、このイエス様の言葉は私たちにも向けられています。神様とはどういう方なのか、存在するのかどうか、何を喜び、何を悲しむのか、そういうことを意識的にでも無意識的にでも真剣に迷っているなら、私たちにもイエス様の言葉が分かるはずです。もっと漠然と、生きる意味は何か、本当の愛とは何か、人間の思いを超えた動かない真実のようなものはないのかと考え、自分には答えがないことを感じているなら、あなたにもイエス様の言葉は届くはずです。他の人がイエス様のことを知ろうとしていなくても、否定していても、あなたにイエス様のことを知りたいという思いがあるなら、イエス様の言葉が聞こえるはずです。

 旧約聖書にはもう一箇所、今日の箇所の背景になっている預言があります。マラキ書3:1です。

… あなたがたが求めている主は/突然、その神殿に来られる。あなたがたが喜びとしている契約の使者が/まさに来ようとしている——万軍の主は言われる。(マラキ3:1)

この日、エルサレム神殿に突然現れたイエス様は、確かにこの預言されていた神様の使者でした。そして、今日、あなたの心という神殿にも現れて、「あなたには私の言葉が届いているはずだ」と語りかけられます。私たちは、他の誰かの意見を鵜呑みにせず、自分でイエス様の言葉を聞いて、自分で考え、判断することが求められています。

 それでは最後に19-24節を読んでいきましょう。

C. 既存の価値観の過ちを修正していくように (19-24) 

19 モーセはあなたがたに律法を与えたではないか。ところが、あなたがたは誰もその律法を守らない。なぜ、私を殺そうとするのか。」20 群衆が答えた。「あなたは悪霊に取りつかれている。誰があなたを殺そうというのか。」21 イエスは答えて言われた。「私が一つの業を行ったというので、あなたがたは皆驚いている。22 しかし、モーセはあなたがたに割礼を命じた。――もっとも、これはモーセからではなく、族長たちから始まったのだが――だから、あなたがたは安息日にも人に割礼を施している。23 モーセの律法を破らないようにと、人は安息日であっても割礼を受けるのに、私が安息日に全身を治してやったからといって腹を立てるのか。24 うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい。」

 ここのイエス様の言葉は、このヨハネ福音書の5章のエピソードのことが念頭に置かれています。ベトザタの池で38年間も病気で寝たきりだった人をイエス様が癒した話です。ユダヤ教の宗教指導者たちは、イエス様がその癒しを行ったのが安息日だったので、イエス様は安息日規定違反を犯したと訴えていました。単なる揚げ足取りに思えますが、そうでもなく、当時、安息日にしていいこととしてはならないことの細かい規定があり、それをきっちり守ることがモーセの律法を守る正しいユダヤ人のあり方だとされていました。でも、イエス様がここで割礼の習慣に触れているのは、安息日規定の例外として、割礼は行っても良いとされていたからです。イエス様は、当時のユダヤ人社会の中で、モーセの律法が指導者たちによって間違って解釈され、彼らの偽善のために利用されていることを知っていました。そして、人々がそのことに薄々気が付きながらも、何もできずにいることも知っていました。神様に対する偽善が、当時のユダヤ人社会の宗教的また文化的価値観として定着してしまっていたのです。だからイエス様は、「うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい」と言われました。この言葉は、翻せば、私たちには正しい裁きができるということで、そのように期待されているということです。

 私たちは、このイエス様の言葉を、教会に対する言葉として、いつでも謙虚に受け取るべきだと思います。イエス様の時代のユダヤ人が律法という宗教的権威を利用して偽善的な価値観を定着させてしまったように、私たちも聖書や教会という権威を悪用して、自分勝手な価値観を神様の価値観であるかのように確立してしまう危険性があります。現代の教会で一番の問題は、性的少数者、特に同性愛者に対する差別だと思います。同性愛者を差別する人たちは、その理由を聖書から得ていますが、彼らは聖書という権威を乱用して自分たちの個人的な価値観を正当化しようとしているだけだと思います。モーセの律法も聖書も、神様が私たちに与えてくださった神様の言葉ですが、その一言一句を守ることが重要なのではなく、その言葉の本来の意味と目的を理解することが重要です。そして、既存の価値観がその本来の意味と目的から外れているなら、その間違いを修正していかなければいけません。私たちには、それを見極めることができるはずであり、そうする責任があります。たとえ、教会の指導的立場にある人たちが教えていることでも、神様の思いに反しているなら、それは誤りであり、修正されなければいけません。

 信仰は、誰かから聞いて始まりますが、イエス様との個人的な関係があって初めて成立します。そして、同じ信仰を持つ者で支え合っていても、それぞれが人の権威ではなく神様の権威のみに仕え、人を恐れず、神様を畏れていなければ、その信仰の共同体は不健全になっていくでしょう。皆さんは、一人ひとり、ご自分とイエス様の関係を、他人と比べることなく、大切にしてください。

(祈り)主イエス様、どうぞあなたのことを私たちの心によく現してください。あなたの語りかけを聞けるように、私たちの心をあなたに向けて開かせてください。あなたの思いを教えてください。それぞれが置かれている状況の中で、あなたは今なんと言われているのか教えてください。喜んでおられるのか、悲しんでおられるのか。励ましておられるのか、止めておられるのか。教えてください。自分の勝手な思い込みをあなたの思いと間違えないように助けてください。また、誰かの意見をあなたの思いと間違えないように助けてください。どうか、あなたの霊で私たちの考えと感情を守り、導いてください。何をするにしてもしないにしても、あなたの愛を実現することだけを求められますように。主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。


メッセージのポイント

イエス様を信じる信仰は、私たちに様々な決断を迫ります。それまで私たちが慣れ親しんできた共同体の価値観が神様を神様としないものであれば、その共同体と対立することが必要かもしれません。それまで当然のように信じてきた既存の価値観が神様の愛に反していると気が付いたなら、その間違いを修正する責任を私たちは負います。それらの決断は、一人ひとりが他人の意見を鵜呑みにせず、神様とはどういう方なのか、何を喜ばれ、何を悲しまれるのか、自分で真剣に考えることによって可能になります。

話し合いのために

1) 「神様の御心を行う」とは?

2) そのために慣れ親しんだ共同体と対立したことはありますか?

3) そのために既存の価値観の過ちに気が付いたことはありますか?

子どもたち(保護者)のために

この箇所の中心は17節だと思います。「この方(神)の御心を行おうとする者は、私の教えが神から出たものか、私が勝手に話しているのか、分かるはずである。」「神様の御心を行おうとする」とは、神様がどういう方で、何を喜ばれ何を悲しまれるのかを、自分でよく考え、理解しようとすることです。他の誰かにそう教えられたからとか、他のみんながそう言っているからとかではなく、自分で真剣に神様と向き合い、神様のことを知ったつもりにならないことが大切です。だから、今は親が信じていることをそのまま受け入れていても、子どもたちはいつでも疑問を持っていいし、疑問を持つ方が健全であるということを、それぞれの年齢に合わせて伝えてあげてください。もし今すでに神様に対して疑問を持っている子がいたら、どうぞ答えてあげてください。