嵐の中を行くときも

Cleveland Museum of Art, CC0, via Wikimedia Commons
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日曜礼拝・英語通訳付

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嵐の中を行くときも
(ルカによる福音書8:22-25)

裵在伊(ペ・ジェイ)

22 ある日のこと、イエスが弟子たちと一緒に舟に乗り、「湖の向こう岸に渡ろう」と言われたので、船出した。23 渡って行くうちに、イエスは眠ってしまわれた。突風が湖に吹き降ろして来て、彼らは水をかぶり、危なくなった。24 弟子たちは近寄ってイエスを起こし、「先生、先生、おぼれそうです」と言った。イエスが起き上がって、風と荒波とをお叱りになると、静まって凪になった。25 イエスは、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われた。弟子たちは恐れ驚いて、「いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」と互いに言った。

「ある日のこと、イエスが弟子たちと一緒に舟に乗り、『湖の向こう岸に渡ろう』と言われたので、船出した」(22節)。

私がユアチャーチに来るのは今回を入れて三回目です。2回は真理さんと東京神学大学に通っていたときでした。東京神学大学に通っていた時も今も真理さんとは仲良くさせていただいております。いつも感謝しています。

さて、主イエスはこのユアチャーチという船に一緒に乗ってくださっています。そしてその船を皆さんに任せてくださいました。皆さんはその船を運転しながら外に向かって伝道して行きます。福音を告げ知らせながら、神の国を広げて行きます。まだ神様を知らない人々が住んでいるところへ出かけていって、神の言葉を宣べ伝えて行きます。町田市森野地域から遠い地域まで巡って旅を続けて行きます。そのためには今皆さんのいる場所と教会の外側とを隔てている湖を渡っていかなくてはならない。湖を越えて向こう側に行かなければなりません。それがどんなに広い、長い湖であっても激しい突風が吹き降ろしてきても、それを越えて向こう側へ渡っていくのです。それが私たちに与えられている使命です。

当時は湖を渡って行った向こう岸はゲラサ人の地方でした。ユダヤ人ではない人々が住んでいる土地。主イエスは弟子たちと一緒にまだ神様を知らない人々が住んでいるところへ出かけて行きました。そこで伝道をしようとしました。とするならば今私たちが渡って行くゲラサ地方はどこでしょうか。

当然、私たちが渡っていくゲラサ地方へ船出をして前に進んでいくうちに、突然の出来事が起こる時があります。私たちは様々な激しい突風に出会います。激しい突風が起こっている湖の中にいるかのように思う時があります。私たちが乗っている船は波に飲まれそうになるときもあります。私たちと共にいてくださっているイエスさまが眠っているかのように感じる時もあります。恐れて、眠っているイエスさまを呼び続ける時もあります。「イエスさま、イエスさま、助けてください」、と。しかし、ここで降りることはできません。イエスさまが皆さんに任せてくださったこのユアチャーチという船を皆と共に激しい突風の中を突き抜けて進んで行かなければなりません。

この町田市森野地域だけではなく、皆さんが行く先々に伝道の船旅を続けていくのです。主イエスが神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられたように(8章1節)、弟子たちも、そして世々の教会も伝道の船旅をし続けて来ました。そしてユアチャーチもその伝道の船旅を続けていく。ユアチャーチの皆さんが互いに励まし合いながら進んでいくのです。私たちは主イエスが再び来られるまで、聖霊の助けをいただきながら、その伝道の船旅を止めることなく、さらに向こう側に広がっていくのです。

けれども、そのような伝道の歩みを始めた弟子たち、また教会は、そのうち大変な嵐に悩まされ、大変な困難に直面しながらやってきました。突然、突風が湖に吹き降ろしてきて、水をかぶりながら、たびたび前に進むことを阻まれる、船が沈没しそうになるときがありました。

当時の湖はガリラヤ湖と考えられていますが、(聖書の後ろにある地図の6番を開いてご覧になりますと理解するのに、良いかも知れません)。当時からたびたび天候が急に変わることで知られていました。周りを急斜面の丘に囲まれていたため、上から吹き降ろしてくる風が生まれやすかったようです。この風が生み出す嵐は、湖を波立たせ、小船を激しく揺さぶりました。そのようなことはこの湖では珍しくない風景でした。

けれども、考えてみるとおかしな話です。弟子たちの中には、ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネ、少なくとも漁師が4人もいました。彼らは、以前は漁師として、毎日のように舟を出していたはずです。そして、このような突風を少なからず経験していたと思われます。当然、どのように対処すれば良いか、経験上知っていたはずです。なぜなら、この湖を自分の仕事場としてきたベテランの漁師だったからです。それなのに、まるで初めて湖の上で突風に遭ったかのように慌てながら大騒ぎするような有様です。任された船はベテランの漁師たちの力をもってしても舟が沈みそうになってしまっていました。

そういうことが突如、私たちの教会の中でも、私たちの人生の中でも起きるかもしれません。もっとも得意な分野で、あるいは長年、順調に仕事を築き上げてきた、そういう状況にある時に、突然の嵐に襲われることがあります。

嵐の中で必死に舟を漕ぎ、水をかい出している弟子たちの傍らで、主イエスは眠り続けておられました。主イエスは弟子たちと同じ船に乗られ、弟子たちと共におられました。主イエスは毎日とっても多忙な伝道をしておられました。神の国の福音を語り、人々の病を癒し、悲しむ者を慰めるという日々でした。そこでわずかの船旅の間にも、つい疲れが出て寝てしまったと思われます。私たちと同じ人となられたイエス様の、人間的な一面を見ることができます。けれども私たちと違うところがありました。それはこの嵐の中でも、父なる神様に信頼して、平安のうちに眠っておられたのです。それは、神様だけに信頼していたからではありません。弟子たちをも信頼していました。その弟子たちに信頼して任せていたので、安心しておられたのです。

けれども私たちは、主イエスが私たちと共にいてくださっているとしてもその主イエスを信頼していない。主イエスが生きておられないかのように恐れ、慌てる事があります。

私たち一人一人が信仰をもってこの世を歩んでいく時、また教会がこの世で証しをしていこうとする時、いつでもそこには嵐が起こり、頭から水をかぶるような体験があります。人生という船が揺り動かされ、絶望のそこに沈みそうになる時もあります。「自分の力、人間の力ではどうにもならないことも少なからずある。信仰がどこかに吹き飛んでしまったか」のような不安や動揺に陥ることもあります。「信じているのに、祈っているのに、どうして神さまは嵐を静めてくださらないのか。吹き払ってくださらないのか。神さまは本当にいらっしゃるのか。もう信じられない」という気持になることもあります。

私たち自身が、なかなか嵐の納まらない現実に、「主イエスは眠っておられるのではないか、神さまは眠っておられるのではないか、否、本当はおられないのではないか、だから、救ってくださらないのではないか」と疑いを感じてしまいます。

私は中学の時、祈りの中で神さまに約束したことがありました。それは、「日本に行って伝道します」という約束でした。それから遠回りしましたが、神さまとの約束を守ろうと思って、2004年に日本にまいりました。それが神さまの導きだと信じ、日本に来たから私が乗った船は何の問題もなく、順調に前に進んで行くと思いました。けれども違いました。突然の嵐に襲われて、水をかぶり、危なくなってしまうようなことが次から次へとやってきました。本当にこのままで良いのかなど、様々な葛藤をしながらやってきました。

それは、牧師になってからも同じです。突然の嵐は様々な形でやってきます。去年は突然頭が痛くて、夜もなかなか寝られない日が続きました。あまりもひどくなって病院に行って検査したら、片頭痛(偏頭痛)だと言われました。お医者さんから「片頭痛は体質から来る場合と気候から来る場合があるけれども、あなたの場合は両方からくる片頭痛をもっている」、と言われました。その一か月後には急性膵炎が起こり、それからさらに一か月後には甲状腺が腫れていて病院に行って検査したら、甲状腺機能低下症(橋本病)という診断が出ました。そのときの私は、いったい今私に何か起こっているのか、と思いました。どうしたらよいのか。このまま韓国に帰るべきなのかとさえ思いました。まさに主イエスが眠っておられるのではないか、と思いました。

そのとき、私は「イエスさま、イエスさま、助けてください。もうおぼれそうです」と必死に祈りました。

その祈りの答えは、どんな時も主イエスが変わらぬ私の舟に乗っており、私と共にいてくださることです。私をも信頼してくださる、その主イエスを信頼して船旅を続けていくのです。

けれども、私たちが神様を信じて歩んでいる中でも、こうした試みに直面しなければならない。そこでなぜ神はこんな大変な目にあっている自分を放っておかれるのだろう。あの日、「湖の向こう岸に渡ろう」とおっしゃった主イエスの言葉に従って船出した時、弟子たちは大した心配もなく出発した。主イエスが一緒におられるのだから何も心配することはない。勇んでゲラサ地方の伝道に出発しました。

ところが突風が吹き降ろし、水が舟に覆いかぶさってきた時、肝心の主イエスがぐっすり眠ってしまわれている。一番頼りにしている方が、目を閉じて眠っていらっしゃる。苦しみ悩みにぶつかった時、頼りにしていたお方がぐっすりと眠り込んで、まるで働いておられないかのように見える。一番頼りにしたい時に、神様が見えなくなる、神様の御心が分からなくなる。人生の嵐に直面した時に、私たちはしばしばそうした思いにとらえられます。

自分たちが一番苦しい時に、神様はいったい何をしておられるのか、主の眼差しが感じられない、自分たちは湖の上で独りぼっちで取り残されている。それが弟子たちの叫びであったし、私たちの叫びではないでしょうか。

神様への疑い、神様が見えなくなったとまどいの中で私たちは、主イエスを揺り起こし「先生、先生、おぼれそうです」(24節)と叫びます。この「おぼれそうです」という言葉は本来、「死ぬ」、「滅びる」、「失われる」という意味の言葉です。そもそもこの船旅は主イエスがお命じになったものです。主イエスの御心によって始まった移動です。主が責任をとってくださる旅です。しかも主イエスも一緒に船に乗っていてくださる、ご自分は岸辺に残って、私が責任を取るからお前たちは行ってこい、と送り出したのではない。離れ離れになるのでなく、すぐそこにいてくださる。同じ舟に乗っていてくださっています。主イエスがあまりにも深い父なる神への信頼ゆえに眠り込んでしまった、実は主イエスがそれほど安心して信頼できるお方の見守りの中に置かれていることに、弟子たちは気づく事すらできませんでした。信仰を持って歩んでいたはずなのに、いったん激しい嵐が人生の上に吹きつけてくると、御言葉にしがみついていることができずに混沌の力に押しつぶされそうになり、悲鳴を挙げてしまいます。

その時、主イエスは冷たく突き放されてしまわれるのでも、私たちを試そうと眠り続けているふりをしておられるのでもありません。起き上がって、風と荒波とをお叱りになってくださいます。そこで新しく御言葉において力を振るわれ、荒れ狂う自然の最中に静けさをもたらしてくださいました。

たとえそれが、主の蒔かれた種を実らせることに失敗したことを意味するとしても、主はそこでもう一度御言葉をくださる。「あなたがたの信仰はどこにあるのか」、あるはずの信仰に立ってもう一度歩み出しなさい。伝道の業に挫折しても、よき証しを立てることができず、御心に応え切れなかった時にも、もう一度御言葉をくださり、立ち上がらせてくださるのです。

主イエスは、私たちのために、起き上がって、風と荒波とをお叱りになり、嵐を静めてくださいます。試練の中で信仰がどこかへ行ってしまうような、神様の言葉を聞いて行うことができない私たちを、主は憐れんで下さり、そのみ力によって守り、支えて下さいます。それはちょうど、「足跡」という詩に歌われていることと同じです。主イエスと自分と二つの足跡が並んでいたのに、途中から、しかも人生の最もつらい苦しい時期に、足跡が一つになっている。主よ、どうしてあの最も苦しい時にあなたは私を離れ、見捨ててしまわれたのか、と嘆き訴える私たちに対して、主は、私はあなたを見捨てたりはしない、あそこから先は私があなたを背負って歩いていたのだ、と告げて下さる。試練の中でパニックに陥り、主は私を見捨てて離れていかれた、もはや主はここにおられない、いや、もともとおられなかったのだ、などと私たちが思う時、実は主イエスが私たちを気づかないところで、見えないところで、私たちの人生を背負って歩いて下さっています。私たちの呪いの言葉も、思いも、叫ぶ声も全て背負って歩いてくださっているのです。 それゆえに教会も、私たち一人一人も、この「混沌を打ち破る力」に支えられて、もう一度立ち上がることができるのです。暴風が吹きすさび、混沌の力に満ち満ちているようなこの世界の只中で、イエスさまは私たちを苦しみから導き出してくださいます。

この主イエスによる救いを体験した弟子たちは恐れ驚いて、「いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」と互いに言いました。信仰者として生きるとは、この驚きと問いを常に繰り返し味わいつつ生きることです。私たちは、主イエスの愛の大きさ、恵みの深さに常に驚かされつつ、「いったい、この方はどなたなのだろう」と問いつつ歩ませていただきます。その歩みの中で私たちは、神様のみ言葉の力を体験させられていきます。私たちが実行することによってではなく、神様ご自身の力でみ言葉が実を結んでいくことを体験させられていきます。そのような体験を、驚きを繰り返していく中で、私たちは、神様のみ言葉を本当に神様のみ言葉として聞き、それをしっかり持ち続け、忍耐しながらその実現を待つ者とされていきます。

主イエスは、信仰が吹き飛んでしまっているような、信仰がないような弟子たち、そして私たちを受け止めて、私たちを救うべく、嵐の中で着々と働いてくださっています。そして、嵐を静めてくださった後で、叱ると言うよりは、温かく「きみの信仰はどこにあるのか」。そう問うてくださいます。

そのような嵐と信仰の体験を繰り返しながら、私たちの信仰は成長していきます。そして、いつかやがて嵐の中にあっても、絶望しない、希望の光を失わない心が造り上げられていくのです。

(祈り)あなたから委ねられた御言葉にとどまり続けることのできない、忍耐することに弱い私たちをどうか憐れんでください。試練の中でつまずき倒れ、すぐにあなたに不平や不満をつぶやいてしまう私たちを憐れんでください。けれども主よ、そんな私たちの叫びを、あなたは無視せずに聞き届けてくださり、おきあがってくださいます。風と荒波を叱りつけ、与えられているはずの信仰にもう一度立たせてくださいます。どうか私たちが試練や苦しみにぶつかるとき、私たちと同じ舟に乗っていてくださる主イエスを信じ、私たちの生きるべき新しい命を備えていてくださることを、いつも思い起こさせてください。 主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。


メッセージのポイント

主イエスは、信仰が吹き飛んでしまっているような、信仰がないような弟子たち、そして私たちを受け止めて、私たちを救うべく、嵐の中で着々と働いてくださっています。そして、嵐を静めてくださった後で、叱ると言うよりは、温かく「きみの信仰はどこにあるのか」。そう問うてくださいます。そのような嵐と信仰の体験を繰り返しながら、私たちの信仰は成長していきます。そして、いつかやがて嵐の中にあっても、絶望しない、希望の光を失わない心が造り上げられていくのです。