神様の愛を知ることが全ての再生の始まり

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日曜礼拝・英語通訳付

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神様の愛を知ることが全ての再生の始まり

(ヨハネによる福音書7:32-36)

池田真理

 今日は久しぶりにヨハネによる福音書の続きで、7:32-36を読みますが、この箇所は私たちに問題を投げかけてくるだけなので、今日は他の箇所も読んでいきたいと思います。早速読んでみましょう。ヨハネ7:32-36です。

32 ファリサイ派の人々は、群衆がイエスについてこのようにささやいているのを耳にした。祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスを捕らえるために下役たちを遣わした。33 そこで、イエスは言われた。「今しばらく、私はあなたがたと共にいる。それから、私をお遣わしになった方のもとへ帰る。34 あなたがたは、私を捜しても、見つけることがない。私のいる所に、あなたがたは来ることができない。」35 すると、ユダヤ人たちは互いに言った。「私たちが見つけることはないとは、この人はどこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか。36 『あなたがたは、私を捜しても、見つけることがない。私のいる所に、あなたがたは来ることができない』と彼は言ったが、その言葉はどういう意味なのか。」

 

問題は、「あなたがたは、私を捜しても、見つけることがない。私のいる所に、あなたがたは来ることができない」というイエス様の言葉の意味です。ユダヤ人たちは見当外れなことを言っていますが、続く箇所を読んでもイエス様は何も答えていません。聖書には「探しなさい、そうすれば見つかる」という有名な言葉があり、このイエス様の言葉とは矛盾しているように思えます。また、イエス様は弟子たちに「私についてきなさい」と確かに言われた箇所があります。この矛盾を私たちはどう考えればいいのでしょうか?
 私が思う答えを最初にお話ししてしまうと、これは、私たちは誰も、神様の愛の大きさを知るまではイエス様についていくことができないという意味です。ヒントになる箇所を、同じヨハネによる福音書から二つ読んでいきます。まず、8:21以下です。

A. 「私がいる所に、あなたがたは来ることができない」とは?
1. 神様を神様として認めないなら (8:21-24,28)

21 イエスはまた言われた。「私は去って行く。あなたがたは私を捜すだろう。だが、あなたがたは自分の罪のうちに死ぬことになる。私の行く所に、あなたがたは来ることができない。」22 ユダヤ人たちが、「『私の行く所に、あなたがたは来ることができない』と言っているが、まさか自殺でもするつもりなのだろうか」と話していると、23 イエスは言われた。…『私はある』ということを信じないならば、あなたがたは自分の罪のうちに死ぬことになる。」…28「あなたがたは、人の子を上げたときに初めて、『私はある』ということ、また私が、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。

 ちょっと難しいですが、これは、「人の子」イエス様が十字架で死なれ、復活されたことを知る時、私たちはイエス様が「私はある」という者つまり神様ご自身であると分かるということだと思います。つまり、イエス様の十字架を通して、私たちは、イエス様は神様ご自身であり、神様がどういう方であるかを知るということです。そして、それがなければ、私たちは「自分の罪のうちに死ぬことに」なります。
 私たちはそれぞれ、神様に自分勝手な期待を押し付けてしまいがちです。「神様ならこれをしてくださるはずだ」とか、「これを叶えてくれたら神様を信じてもいい」とか、自覚的な信仰を持っているかいないかに関係なく、私たちは神様を都合よく利用しようとします。それこそが私たちの「罪」であり、自分を神様にして、本当の神様を神様として認めない罪です。私たちは、神様に自分勝手な期待や願いを押し付けることをやめて、神様からの語りかけに耳を傾ける必要があります。神様が私たちに何を語りかけてくださっているのかは、イエス様の十字架と復活が一番よく表しています。イエス様が十字架で死なれたことの意味、復活されたことの意味、それらが事実なのかどうか、自分勝手な期待や偏見を捨てて、他人の意見ではなく自分の頭で考えてみることが必要です。そして、本当にイエス様が神様ご自身であり、神様は私たちのために苦しんで死なれたのだと知るとき、私たちはイエス様についていくということの本当の意味を知ることができます。
 2番目のヒントは13:33以下です。

2. 神様の犠牲愛を知らないなら (13:33,36-38)

33 子たちよ、今しばらく、私はあなたがたと一緒にいる。あなたがたは私を捜すだろう。『私が行く所にあなたがたは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。…36 シモン・ペトロがイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのですか。」イエスが答えられた。「私の行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」37 ペトロは言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」38 イエスはお答えになった。「私のために命を捨てると言うのか。よくよく言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度、私のことを知らないと言うだろう。」

 イエス様はペトロに、「私の行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」と言われました。「なぜ今ついていけないのですか。あなたのためなら命を捨ててもいいと思っているのに」と問うペトロを、イエス様ははっきり否定しました。「あなたは私のために命を捨てるどころか、私を見捨てて逃げるだろう」と。
 重要なのは、このイエス様の言葉通りにイエス様を見捨てて逃げたペトロが、イエス様の死と復活を体験した後には、本当にイエス様のために命を捧げたということです。イエス様の死と復活を経験する前と後で、ペトロの人生は変えられたということです。イエス様の死と復活は、ペトロに何を教えたのでしょうか?それは、神様の愛の大きさです。イエス様は最初からペトロが自分を見捨てて逃げることを知っていて、赦していました。そして、イエス様の方がそんなペトロのために命を捧げられました。ペトロは、復活したイエス様に出会って、そのことがよく分かりました。
 神様は、私たちを赦して、共に生きるために、ご自分が侮辱されたり、苦しんだり、命を奪われることも、ためらいませんでした。最初からそのためにイエスという一人の人としてこの世界に来られたのでした。ペトロも私たちも、この神様の犠牲愛を知るまでは、神様のことを理解したことにはならないし、神様のために人生を捧げることはできません。また反対に、この神様の犠牲愛を知ることによって、私たちは自分の人生を何度も方向修正し、行くべき方向に戻ってくることができます。神様ご自身が犠牲を伴ってまで私たちに伝えたかったのは、それほど私たちのことを愛しておられ、私たちにその愛を受け取って喜んで、安心してほしいということです。その喜びと安心の中で人生を歩むことが、イエス様に人生を捧げ、イエス様についていくということなのです。

 このことについて、もう少し考えてみたいと思います。

B. イエス様のいる所に共にいるとは、神様の愛と一体となること
1. 自分の小ささをゆるされている安心の中で

 イエス様についていくということを考えるとき、最初に覚えておくべきことは、イエス様は私たちにその力がないことを知っておられる上で招いてくださっているということだと思います。

 私がイエス様を信じると決めて洗礼を受けたのはもう20年前になりますが、洗礼を受けるか迷っていた時期がありました。イエス様を信じたい気持ちはあっても、本当に一生信じ続けられるか自信がなかったからです。そんなことを話した時に、真理さんに、「信じたくなくなったらいつでもやめてもいい」と言われて、安心して洗礼を受ける決心をしました。それからこれまでの20年間、イエス様のことが分からなくなったり、教会に来るのが辛い時もあったりしましたが、イエス様から離れることはできませんでした。それは、イエス様がこんな私のためにも命を捧げてくださったのだという事実が、私の中で動かなかったからです。私は弱くても、イエス様の愛は私をつかんでいてくれたのです。

 私たちには、最初から、イエス様のことを一生信じ続ける力なんてないし、人生を捧げる力もありません。それでもイエス様は、私たちを愛していることを教えてくださり、イエス様とイエス様の愛する人たちを愛して生きる人生を何度でもやり直せるようにしてくださいます。自分の弱さや小ささ、過ちに気が付いて愕然とする時、それはその全てを知っておられて、変わらずに私たちを愛しておられる神様の愛の大きさを知り直すチャンスです。私たちが神様の愛を疑う時さえも、神様はそれまでよりさらに近くに共におられることを私たちが知る機会です。自分の小ささを許されている安心と、ありのままで愛されている喜びが、私たちにイエス様と共にいたいという願いを起こさせます。その時、イエス様は確かに最初から私たちのいる所に共にいたことに気が付きます。そして、そこからイエス様についていく道のりが再び始まります。

2. 小さな愛の種を喜んで育てていく

 ここまでの話の中で皆さんに神様の愛がどういうものかが伝わっているといいなと思うのですが、どうでしょうか。神様の愛は、私たち人間の弱さも強さも正しさも過ちも超えて、私たち全ての存在の根幹をささえる壮大なスケールのものでありながら、とても身近で、取るに足らない日常の出来事の中でこそ現されるものです。神様に愛されているか分からなかったひとりの人が、自分は本当に神様に愛されていると分かることは、この世界にどれだけの変化をもたらすのでしょうか。その人の内側に起こった変化に気がつく人は、誰もいないかもしれないし、いても数人だけでしょう。
 私は施設の仕事の中で出会った一人の女性の言葉をずっと覚えていたいと思っています。その言葉というのは、「私も歯医者に行っていいですよね」という言葉です。その人は長い間、虐待とDVに苦しんできて、やっと加害者と離れても体調不良のために生活が困窮し、生活保護を受けて私たちの施設に来ました。最初は表情もほとんどなく、疲れ切った様子でしたが、少しずつ笑顔も見られるようになりました。そして、ある日廊下で会ったときに、私が声をかけると、泣きながら笑顔で「私も歯医者に行っていいですよね」と言われました。それまでその方は、自分は歯医者に行く価値もない、生活保護で医療費を使うなんて自分にはおこがましいことだと思っていたのです。でも、少しずつ、自分にはその価値があるのだと思えるようになったのでした。私は、「ぜひ行ってください」と伝えました。そして、その方の笑顔の中に、イエス様の笑顔を見たような気がしました。「あなたは私の愛する子」という神様の語りかけが、一つ、その方の中で実現した瞬間だったと思います。その方はイエス様のことを知ったわけではありませんが、自分に生きる価値がないと思っていた人がそれを自分で取り戻すことは、神様の愛の小さな実現に違いありません。神様は、その瞬間に私を立ち合わせてくださって、神様の国の種が芽吹くとはどういうことかを教えてくださいました。

 イエス様は、逮捕される直前に、こう祈られました。ヨハネ17章です。

24 父よ、私に与えてくださった人々を、私のいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前から私を愛して、与えてくださった私の栄光を、彼らに見せるためです。…26 私は御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。私に対するあなたの愛が彼らの内にあり、私も彼らの内にいるようになるためです。」

イエス様ご自身が、ご自分のいる所に私たちが共にいられるようにしてくださいと祈ってくださっています。それは、世界の始まりの時から変わらない神様の愛の大きさ、広さ、深さを私たちが目撃して、喜んで、神様をたたえるためです。神様の愛はイエス様のうちにあり、私たちのうちにイエス様はいてくださり、私たちは神様の愛の中で一つなのです。

(祈り)主イエス様、あなたが十字架で苦しんで命を捧げて教えてくださったあなたの愛の大きさを、もう一度私たちの心に受け止めさせてください。今置かれている状況がどんなであれ、あなたのその愛は何も変わらずに、私に注がれていることを教えてください。そして、自分の期待や願いではなく、あなたの語りかけをよく聞くことができるように助けてください。私たちは弱い者です。あなたはよくご存知です。どうかあなたの霊を注いで、私たちの思い、考え、気持ちを守り、導いてください。主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。


メッセージのポイント

神様がその命を捧げるほどに私たちを愛し、大切に思ってくださることを知らなければ、私たちは神様を知ったことにはなりません。また、神様がそうなさったのは、私たちの罪を赦して、私たちが己の過ちや小ささに押し潰されずに、赦され愛されている喜びと安心の中で何度でも人生を方向修正できるようになるためでした。イエス様についていく道のりは、自分自身の復活と再生、周囲の人との関係の修復と再構築、その中で小さくても確かに生まれる神様の国の種を育てていく作業です。

話し合いのために

1. 天国に行ける人と行けない人がいるということでしょうか?

2. イエス様についていくことは苦しいですか?楽しいですか?

子どもたち(保護者)のために

神様は全ての人を大好きでいてくれていますが、全ての人が神様のことを大好きでいるわけではありません。大抵の人は神様のことを好きでも嫌いでもないかもしれません。でも、神様はどんな時も私たちのことを大好きでいてくれているということを、考えてみてほしいと思います。神様の「好き」の大きさを知らないままでは、私たちは本当に神様のことを知っていることにはなりません。それはとてももったいないことで、神様も大変残念がるでしょう。