人に誓った神様

Giacomo del Pò, Public domain, via Wikimedia Commons
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日曜礼拝・英語通訳付

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人に誓った神様

(詩編 132)

永原アンディ

 今日の詩は、前回の131編のような、詩人が自身の気持ちを直接、神様に訴える詩ではなく、聞く者に、ダビデ王と神様との関係を思い起こさせて、自身の神様との関係を考させる詩です。前回の詩に比べて4倍くらい長いのは、過去の出来事を多く引用して説明しているからです。
 全体を四つに分けて順番に読んでゆきましょう。初めは7節までです。

A. ダビデの主への誓い (1-10)
1. 主を喜ばせる者となる誓い (1-7)

1 都に上る歌。主よ、ダビデを思い起こしてください彼が受けた苦しみのすべてを。
2 彼は主に誓いヤコブの力ある方に誓願を立てました。
3 「私は決してわが家の天幕に入らない。決して寝台の床にも上らない。
4 決して目には眠りをまぶたにはまどろみを与えない。
5 主のために場所をヤコブの力ある方のために住まいを見つけるまでは。」
6 見よ、私たちはそれがエフラタにあると聞きヤアルの野でそれを見いだした。
7 主の住まいに行きその足台に向かってひれ伏そう。

 詩人は、他の詩のように直接自分の苦しみを訴えるのではなく、ダビデの苦しみを思い起こしてくださいと神様に訴えています。ダビデはイスラエル史で最も有名な王です。失敗も多い人でしたが、神様の思いに従いたいという願いを持っていたという点で最高の王でした。しかし彼の生涯は、王になる前も、王になってからも多くの労苦がありました。 そこで、自身の思いをダビデに託して神様に向かい「あなたに従おうと願う者に祝福と平安を与えてください」と願っているのです。

 詩人は、ここでダビデが神様に立てた誓いを紹介しています。それは、イスラエルが神の民であることの象徴であり、神様の民に対する恵みの象徴であった契約の箱をエルサレムに安置するという計画を完成させるまでは、自分の安楽を求めません、という誓いです。

 聖書には「誓う」という言葉が多く出てきます。イエスはある時、当時の宗教家たちが教えていた「誓うこと」について決定的な批判をしました。その時イエスは「一切誓ってはならない」とさえ言われたのです。もちろんイエスは、裁判所での宣誓や大統領の就任式に聖書に手を置いて誓約する、あるいは結婚式での誓約をすべきではない言っているのではありません。  それではどのような誓いをイエスが禁じたのか、ヘブル人への手紙6:13-17が良い説明をしてくれています。

神は、アブラハムに約束をする際に、ご自身より偉大な者にかけて誓えなかったので、ご自身にかけて誓い、「私は必ずあなたを大いに祝福し、あなたを大いに増やす」と言われました。 こうして、アブラハムは忍耐の末に、約束のものを得ました。 そもそも人間は、自分より偉大な者にかけて誓うのであって、その誓いはあらゆる反論を終わらせる保証となります。 そこで、神は約束のものを受け継ぐ人々に、ご計画の不変であることを、いっそうはっきり示そうと考え、誓いをもって保証されたのです。

 誓いの原点は、決して破られることのない神様の人に対する約束なのです。 この手紙の著者が言うように、人が神様や神様を象徴する神殿などにかけて誓うのは、神様の権威にかけて守るという、反論の余地をあたえない約束です。   
 しかしイエスは知っていました。そのような意味での「誓い」は、人が神様の権威にかけて誓ったとしても、それを神様のように守ることはできません。

 しかし、この詩に紹介されているダビデの誓いは、神様にかけて何かを断定しているようなものではなく、神様に対する決意表明なのです。
 私たちも神様に、あなたのためにこのようにしたいと思いますと決意を表すことを、神様は喜んでくださいます。そしてそれを守ることができなくなったからといって罰を与えるような方ではありません。

2. 正義を願う

8-10節を読みましょう。

8 主よ、立ち上がりあなたの憩いの地にお進みくださいあなたご自身も、その力の箱も。
9 あなたの祭司たちが正義をまといあなたに忠実な人々が喜び歌いますように。
10 あなたの僕ダビデのためにあなたが油を注いだ人の願いを拒まないでください。

 ダビデが契約の箱をエルサレムの神殿に納めるために心を尽くした出来事から、私たちは何を学ぶことができるでしょうか?私たちは、失われた神の箱を探し出して、神殿を再建して、そこに収めるといったインディージョーンズのような活躍を期待されているわけではありません。私たちは、神の国を求めることを命じられていますが、それは神様を象徴する聖遺物のような物を大切に保存することではありません。

 私たちにとってそれは神様の正しさが、この世界に行き渡ることなのです。神様が立ち上がり、前進を続けるのは、この世界に神様の正義が実現していないからです。今でも、弱い者、小さい者、貧しい者が虐げられているということは、神様が憩いの地に到着できていない、心休まらない状態にあるということです。正義を願う人々が喜び歌うような時を目指して、私たちはダビデが約束の箱を携えて進んで行ったように歩んでいるのです。

B. 主のダビデへの誓い (11-18)
1. 祝福を誓ってくれる神様 (11-16)

それでは11-16節を読みましょう。

11 主はダビデに確かな誓いを立てられた。主がそこから引き返されることはない。「あなたの胎の実りの中からあなたの王座に着く者を定める。
12 あなたの子らが、私の契約と私が教える定めを守るならその子らも、永遠にあなたの王座に着くであろう。」
13 主はシオンを選びご自分の住まいにしようと望まれた。
14 「これは永遠に私の憩いの地。私はこれを望んで、ここに住む。
15 ここの食糧を豊かに祝福し貧しい人々には飽きるほどのパンを与える。
16 祭司たちには救いの衣をまとわせる。忠実な人々は声高らかに喜び歌う。

 先ほどヘブル人への手紙で紹介したように、神様は被造物である人間に祝福を誓ってくださる方です。ここでは、アブラハムに誓ってくださったように、ダビデにも誓ってくだったことがわかります。

 アブラハムに対する神様の契約は、神様がアブラム(偉大な父)からアブラハム(多くの国の民の父)へと改名を命じられたことでわかるように、血筋ではなく、神様を信じて生きると言う信仰の子孫に継承される祝福の約束です。もはや、神様が住まわれるのは地球のどこかにある特定の場所の神殿ではありません。宗教はナショナリズムと結びつきやすいものですが、聖書にご自身を表された神様は最初から人の手で作られた神殿に住むことを否定されていました。
 パウロはコリントの信徒への手紙I(3:16)で

あなたがたは神の神殿であり、神の霊が自分の内に住んでいることを知らないのですか。

と言っていますが、彼はここで神様の意思を正しく伝えていると思います。神様は私たちを実際の王座に就かせようとしているのではありません。誰であろうと、どんな身分であろうと、神様との関係においては他人の支配を受けずに直接つながる者という地位を永遠に保証していてくださるということです。

 皆さん自身が、そこに住みたいと神様が望まれる真の神殿なのです。そして、そこが神様にとっての永遠の憩いの地だとさえおっしゃっているのです。だからイエスは私たちが衣食住のことで思い悩むことはないといわれるのです。私は時々「イエスと歩む人生」という言い方をしますが「イエスが内に住んでくださっている人生」でもあるのです。こんな大きな恵みがあるでしょうか?こんなに素晴らしい救いがあるでしょうか?私たちは喜び歌うことの他に何ができるでしょうか?

2. その誓いはイエスによって実現した (17-18)

最後に17、18節を読みましょう。

ここに、ダビデのために一つの角を生やす。私が油を注いだ者のために一つの灯を据える。
彼の敵には恥をまとわせる。しかし、その灯の上には王冠が花開くであろう。」

 「角を生やす」と「灯を据える」は神様がその意図を実現するために送るメシア、救世主の比喩です。預言者エゼキエルも次のように預言しています。

その日、私はイスラエルの家に一つの角を生やす。また私は、彼らの中であなたに口を開かせる。こうして、彼らは私が主であることを知るようになる。」 (エゼ 29:21 )

 ですから、イエスの時代のイスラエル人も、詩編や預言によってダビデの家系に生まれる救世主、優れた国家的指導者の現れを信じ、期待していたのです。
 神様は、イエスご自身が例えで話したように、何度、預言者を送っても言うことを聞かない人々に、ご自身が一人の人として歴史の中に登場することを選び、イエスとしてこの世界に姿を現されました。そのようにして、神様はダビデの願い、詩人の願い、当時の人々の願いに応えて約束を果たしたのです。

 皆さんは、誰に「あなたを幸せにしてあげよう」と約束されても簡単には信じないでしょう。私たちは誰も、何にかけて誓おうが、人の幸せを保証することができるような確かな存在ではありません。しかし、神であるイエスだけは、あなたの幸せを保証します。そのために、私を入れてくださいと、私たちの心の扉をノックされるのです。私たちはこう言いましょう。「はい、どうぞお入りください。私をあなたの神殿として永遠に住んでください。」
 そして、あなたがイエスに心を開きあなたのうちにお迎えしたなら、イエスは、あなたが追い出さない限り決して出ては行かれません。

(祈り)神様、あなたに従って歩む私たちに約束してくださった恵みの誓いをありがとうございます。

あなたが私たちの永遠の主、王、神様であることを信じて告白します。

私たちはダビデが約束の箱を神殿に納めるために心を注いだように、あなたが私たちのうちに住んでくださることを願いました。

あなたがその願いに応えて今私たちのうちに住んでいてくださることをありがとうございます。

あなたが心の内で語りかけてくださる声に従って歩むことができるよう導いてください。

あなたに期待して、主イエスキリストの名によって祈ります。


メッセージのポイント

人は神様に誓ったり、神様にかけて誰かに何かを誓ったりしますが、「誓い」はもともと、神様が私たちに人間に対してなさったことなのです。イエスは、私たちには神様やその権威にかけて誓う資格のない者であることを教えられました。神様はイエスを通して、ご自身の誓いを果たされました。神様の祝福を得たいなら、私たちはただイエスに「自分の主、神として心の中に住んでください」と願い、お迎えすれば良いのです。

話し合いのために

1) イエスはなぜ「一切、誓ってはならない」と言われたのでしょうか?

2) なぜ、この詩がイエスの来られることを預言していると言えるのでしょうか? 

子どもたち(保護者)のために

自分たちのする約束について聞いてみましょう。約束とは何か、なぜ約束する必要があるのか、なぜ約束は破られてしまうのか。それから、神様のダビデに対する誓いの部分を読んで、神様の誓い=恵みの約束が決して破られない、私たち一人一人を幸福にする約束であることを伝えてください。そして神様は、神殿やお寺や神社や教会に住む方ではなく、私たちの心に住んでくださる方であることを教え、皆で神様を自分の主として心にお迎えする祈りをしましょう。