主の家に共に住む家族

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日曜礼拝・英語通訳付

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主の家に共に住む家族

(詩編133,134)

永原アンディ

 今日は、短い二つの詩編を紹介します。都にのぼる歌と題されたシリーズの最後の二つの詩です。どちらもとても短い詩ですが、私たちはこの2編の詩から教会の在り方の核心を教えられます。
 133編では教会の本質とその働きについて、134編からは、その働きが神様の意思に適ってなされるために私たちに必要なことを学ぶことができます。
 それでは133編から読んでゆきましょう。

A. 神様の家族としての教会 (133編)

1 都に上る歌。ダビデの詩。兄弟が共に住むことは何という幸せ、何という麗しさ。
2 頭の上に注がれたかぐわしい油のようだ。それは、ひげに滴り落ちる。衣の襟にまで垂れるアロンのひげに。
3 ヘルモンの露のようだ。それはシオンの山々に滴り落ちる。主はそこで祝福ととこしえに及ぶ命を定められた。

1. 教会に注がれる神様の恵み (1,2)

都に上る歌。ダビデの詩。兄弟が共に住むことは何という幸せ、何という麗しさ。 

 この詩の中にはもちろん、旧約聖書には教会という言葉は全く出てきません。   それはイエスが弟子たちに命じて始まったコミュニティなのです。 しかし神様は、イエスが来られる以前に書かれたこの詩でも、私たちが「共に」いることの大切さを教えてくれています。そして、そのことこそが教会の本質です。

 「共に」という表現は、日本語の聖書だと900回くらい出てきます。 これはなかなか多い数字です。ちなみに「愛」という漢字は何回ぐらい出てくると思いますか? 意外と少なくて50回くらいです。 「神」は約5000回です。 「イエス」は1700回、「キリスト」は500回位です。

 「兄弟」は原語では、実際の兄弟に限らず、同じ国民、同じ民族という意味で使われる言葉です。また、「住む」と訳されている言葉は「座る」という意味を持つ言葉です。

 ここから私たちは、この理想的な人間関係が、イエスの名によって始まった教会に実現することを信じるのです。 それは実現されていない希望ですが、私たちはここに記されているように、人々に幸せをもたらす麗しいコミュニティーを目指して歩み続けたいのです。 

 ユアチャーチはさまざまな境遇の人々の集まりであり、イエスを主(あるじ)とした神様の家族です。 「イエスを自分の主と信じて歩む」という意志だけがこの家族の一員であることの条件です。

 この社会の中には、助け合える親、子、兄弟、姉妹を持っていない人がたくさんおられます。 さまざまな理由で、疎外され、差別される人がたくさんおられます。 私たちはどうしても自分を基準に他の人を判断してしまいがちですが、神様から知恵と愛と忍耐をいただいて、互いに家族の一員として仕え合いましょう。 

 2節と3節に、この家族の幸せと麗しさが二つのことに例えて歌われています。 2節にはこうあります。

頭の上に注がれたかぐわしい油のようだ。それは、ひげに滴り落ちる。衣の襟にまで垂れるアロンのひげに。

 今の時代のこの文化の中では、「油が頭に注がれそれが襟にまで届く長いひげを滴り落ちる」という表現に麗しさを感じられない人が多いと思いますが、聖書の書かれた時代、その地域の文化では、頭に注がれるかぐわしい油は「神様から与えられる祝福と権威」の象徴でした。 アロンはモーセの兄で、神様はモーセに命じて、アロンの頭に油を注いで、民の祭司の長に任命しました。

 また、ダビデが王とされた時、預言者サムエルが彼の頭に油を注ぎました。 新約聖書にイエスを指す言葉として「メシア」という言葉が出てきますが、その意味は「油を注がれた者」で、祭司や王として人々を救い導く人物を指します。 

 教会は神様から祝福された麗しいコミュニティであるばかりか、世界を祝福し、麗しいものとするために世におかれているのです。 先週も、いただいた恵みは私たちから溢れ出し、私たちの周りに広がるものであることをヨハネによる福音書から学びましたが、そのことをこの詩からも確認することができます。

 では、もう一つの例え、3節を読みましょう。

2. 教会からあふれ出す神様の恵み (3)

ヘルモンの露のようだ。それはシオンの山々に滴り落ちる。主はそこで祝福ととこしえに及ぶ命を定められた。

 私たちが神様の家族として共に生きることの素晴らしさのもう一つの例えは、イスラエルの北の端、レバノンとシリアの国境に位置するヘルモン山の露のように、豊かに降り注がれる祝福と永遠の命をこの世界にもたらす存在であるということです。 ヘルモン山はほぼ一年中、山頂に雪の残る山で、そこから生ずる露となって砂漠地帯の多いイスラエルを潤す恵みです。 雪解け水はまた地下水となり麓で湧水ととなり、それはやがてヨルダン川となります。  まさにイスラエルの民にとって「いのちの水」なのです。

 私たちの周りの多くの人は、イエスが与えてくださる豊かな命に気付いていません。  しかし、皆さんがいただいた恵みを喜んで人々に分け与えることによって、それは必ず伝わってゆきます。 時間がかかるかもしれません。 この地上での短い時間では気付いてもらえないかもしれませんが、それでも良いのです。 私たちに求められているのは愛し続けることであって、人を説得してキリスト教徒にすることではありません。その人と会えなくなったとしても、その先はイエスがしてくださることです。  

 それでは、この神の家族が健康を保つために必要なことを、次の134編で確かめましょう。

B. 健康な家族であるために (134)

1 都に上る歌。さあ、主の僕たちよ、こぞって主をたたえよ。夜通し、主の家に立つ人たちよ
2 聖所に向かって手を上げ、主をたたえよ。
3 主がシオンからあなたを祝福してくださるように天と地を造られた方が。

1. 私たちは「主の家」にふさわしい教会か? (1, 2)

 教会は魂のオアシスです。  しかし教会は人の集まりでもあります。 人の集まりとしての良さも悪さも持ち合わせています。 教会という人間関係に疲れ、見切りをつけて、個人として神様につながっていればいいのではないかという考える人もいます。

 目に見える一つの教会の指導者として歩んできた者の一人として、至らず申し訳ありませんとしか言いようがありません。 残念ながら、私たちは人を遠ざけてしまうようなことを、そのつもりがなくても不用意にしてしまう者です。 そんなことは極力したいとは思いませんが、もし私のせいでユアチャーチに居づらくなっても、どうか「教会であること」を諦めないでください。 そのためにも神様は様々な教会を世に置いているのです。 もしここでないとしたら、神様はあなたにもっと相応しい教会を用意していてくださいます。 イエスがお一人であるように教会はこの世界に一つだけ存在します。 ユアチャーチはその一つの部分です。 そして、牧師はその教会の主人ではありません。

 私たちは「完全」には程遠い者たちで、失敗することもありますが、「完全を目指す」ことをゆるされています。 それでも、誰かが居づらくなるようなことが起こらないように努力することはできます。 どのような努力で、ここに表現されているような素晴らしさ、麗しさを教会に持つことができるのでしょうか?

 この家族は、共に食事をしたり、BBQやピクニックに出かけたり、おしゃべりをしたり、家族会議をしたり、大掃除もします。それぞれ楽しく大切なことですが、たとえそれらができなくても教会は健康でいられます。

 しかし、ここにいる誰もが何よりも大切にしていなければ、もはやこのコミュニティーは神様の家族ではなくなって、その命も失ってしまうほど大切なことがあります。 もう一度、1節と2節を読みましょう。

都に上る歌。さあ、主の僕たちよ、こぞって主をたたえよ。夜通し、主の家に立つ人たちよ 聖所に向かって手を上げ、主をたたえよ。

そうです!礼拝することです。 私たちが「主の家」に相応しいかどうか?それは、全身全霊で捧げる礼拝を大切にしているかどうかにかかっているのです。
 最後に3節を読みましょう。

2. 神様の恵みの管となる (3)

主がシオンからあなたを祝福してくださるように天と地を造られた方が。

 神様は、私たちを「祝福をもたらす者」として、教会を、私たちを祝福してくださいます。 先週、聞いたように、神様の恵みを日々新鮮に味わうための唯一の方法は、溜め込むことではなく放出するすることなのです。

 いつも、洗礼式やBBQをする相模川の上流には津久井湖という、ダムで堰き止めて作られた湖があります。 このダムは水を堰き止めて人工の湖とするために作られたのではありません。 それは水を安定して供給できるように、洪水をコントロールするために、電気を作るために作られたのです。

 ダムが水を堰き止めるためのものではなく、効率よく、適切に流すことによって下流に住む人々に恩恵をもたらすものであるように、教会はさまざまな方法で社会に神様の祝福をもたらすものとしてこの世界に置かれています。

 先にお話ししたようにイエスを主とした世界に存在するたった一つの教会ですが、それぞれの町に置かれた目に見えるコミュニティとしての教会は、それぞれがその一つの部分として、その時代の、その国の、その地域に置かれたユニークな神様の恵みの管なのです。

 ユアチャーチは私たちを通して、私たちのまわりにいる人々に神様の祝福が届くためにここに存在しているのです。

(祈り)神様、あなたの恵みが私たち、一人一人の上に豊かに注がれていることを感謝します。
今日、弱く、また小さな存在である私たちをあなたが祝福して、ユアチャーチを通して私たちの周りの人々、私たちの住む地域にあなたの祝福が届けられることをおぼえました。
どうか私たちを、あなたに油注がれたものとして、あなたの霊で満たして用いてください。
愛することにおいて成長させてください。
あなたの働きを担うための意志と知恵を与えてください。
あなたに期待して、主イエスキリストの名によって祈ります。


メッセージのポイント

教会は人の集まりです。人の集まりとしての良さも悪さも持ち合わせています。しかしそれ以前に、教会はキリストの体と言われるように神様を主(あるじ)とする大きな家族なのです。人間関係の難しさ、カルト化の可能性などといったマイナスに目を向けて、教会に見切りをつけて個人として神様につながっていればいいのではないかとという考えもありますが、神様はあくまでも教会を祝福し、教会を通して世界を祝福されます。ですから、私たちはその一員として教会が神様の望まれるように健康に成長していけるように歩み続けましょう。

話し合いのために

1. 教会とは何ですか?

2. 私たちは教会としてどのように社会に貢献できますか??

子どもたち(保護者)のために

それぞれの詩を読み聞かせて、それが教会について何を教えているか伝え、子どもたちもその大切な一員であることを知らせてください。神様の恵みや助けが教会を通して自分に注がれていることとともに、子どもたちがその一員として、人を助け、慰め、力となっていることを覚えさせてください。