2016/7/3 選挙をイエスはどう見るか?

永原アンディ
(サムエル上8, マタイ22:15-22, ルカ13:22-30, ヨハネ 9:1-7, マルコ 10:35-45)

 

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A. 聖書が教える権力の本質

 

1) 王を求める民に対する神様の警告 (サムエル上8)

6 裁きを行う王を与えよとの彼らの言い分は、サムエルの目には悪と映った。そこでサムエルは主に祈った。

7 主はサムエルに言われた。「民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい。彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ。

8 彼らをエジプトから導き上った日から今日に至るまで、彼らのすることといえば、わたしを捨てて他の神々に仕えることだった。あなたに対しても同じことをしているのだ。

9 今は彼らの声に従いなさい。ただし、彼らにはっきり警告し、彼らの上に君臨する王の権能を教えておきなさい。」

 この時代、イスラエルは12部族の連合体で、偉大な預言者の求心力でかろうじて統一を保っていましたが、エジプトを出てきた時代のような一体感はもうありませんでした。士師記の最後の節には 「 そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた In those days Israel had no king; everyone did as he saw fit. 」 と記されています。 預言者サムエルに、王を立ててくださいと願ったのは、イスラエルの長老たちでした。サムエルは歳をとり、有力な後継者も見当たらなかったのです。一方で、イスラエルを取り巻く諸国は、権力を持った王のもとで強力な軍隊を持っていたので、長老たちは、国内の治安にも、国際関係にも全く自信を持てなかったのです。そこで「強い王を得て、国をまとめ、国際的にも発言力を増そう」と考えて預言者に「王を立ててください」と、長老全員が来て頼みました。ですから正確には民の求めというよりは支配者たちの求めでした。サムエルは直感的に彼らの言い分が正しくないことを感じ、神様に導きを求めました。王をいただくことは、神様の座を誰かに渡すこと、つまり偶像礼拝だと神様は見抜いています。しかし同時に、彼らの要求に応じなさいとサムエルに言いました。今日は取り上げたテキストが多く、どれも長いので一部しか読みませんので、ぜひ今週は、実際に読んだ前後のテキストも読み直して考えてください。この部分のそうです。神様はこの後の部分で、長老たちの願いを聞いて王を立てた結果、実際に願った長老、指導者だけではなく民全体が苦しみ、奴隷のような状態にされると警告しています。社会的立場の弱い者ほど苦しめられるということです。誰かに権力を委ねれば、それがどんな方法であれこのことが起こります。

 私たちはここで、神様が真の主権者であることを知ります。そして創世記によれば人類に、その主権を委託したのです。「 27 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。28 神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」 すべての人が神様の委託に応えることができれば、王も大統領も政府も必要ないわけですが、それは、この世界では実現しそうにはありません。エゴのない人は一人もいません。力を持てばそれを保ち、さらに大きな力を求めます。それは選挙で選ばれた者も、クーデターで権力を奪った者も同じなのです。しかし誰が選ばれても、本質的に同じなのだから政治にかかわりなく生きようというのは無責任です。私たち一人一人に神様に与えられた責任があるのです。少しでも神様の意思を、置かれているところで実現するために「神様の目から見て、よりマシな政党、人」はどれかをよく考えて一票を投じる責任があります。少しでもマシなというのは消極的に思えるかもしれませんが、実はその方がいいのです。むしろ何の疑いも迷いもなく支持したい政党、人がいれば、それはあなたの中ですでに「偶像化」されているということになるのですから。人々から熱狂的に支持された人が独裁者となって人々を苦しめるということは珍しくありません。

2) イエスは政治をどう見たか? (マタイ22:15-22)

17 ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」

18 イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。

19 税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、

20 イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。

21 彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」

 サムエル記で、政府や国家に権威、権力を与えることは許されているけれど、それは神様を信頼する代わりに、それらを信頼する”偶像礼拝”となる危険があることを見てきました。権威を偶像化させず、少しでもマシな政治を望むためにすべきことは、主イエスの考えを知ることです。そのことを後半お話ししていきますが、その前に今読んだ出来事をてがかりに、イエスの基本的な政治に対する態度を確認しておきましょう。

 この質問をしたのは、ファリサイ派とヘロデ派です。ヘロデ派は納税賛成派でした。ファリサイ派は実際には自分たちの地位を守るために納税していたのに、民衆に対しては、神格化されつつあったローマ皇帝への納税は偶像礼拝の罪、十戒の第一戒を破ることになると教えていました。イエスはこのファリサイ派の偽善に強く反対していました。イエスが納税に反対すれば、イスラエルの権力者たちはイエスをローマに対する反逆者として告発することができます。賛成すれば、イエスに民族的メシアの役割を期待していた民衆は、イエスを裏切り者とみなすことになります。イエスの答えは読んだ通りです。もしかしたら、皆さんはイエスが質問をうまくはぐらかしたという印象を持つかもしれません。しかし、この答えは 「神様を認めない外国人の支配者の下でも、神様に従うことはできる。しかし、あなた方はカエサルには返しておきながら、神様には神様のものを返してはいないではないか」という強烈な一撃だったのです。

 私たちもイエスに論破されたファリサイ派の人たちのように、社会の不条理を理由にして、神様の意思を行わないで済ませてはいないでしょうか?どの党が政権をとっても、誰が首相になっても、憲法が変わり、明治憲法下のように「天皇よりイエスを信頼する」と言うだけで逮捕されるような事態になったとしても、私たちは神様に信頼を置き続け、仕えることができるのです。独裁下の北朝鮮にも、表立った行動はできなくてもイエスに従う人々はいるのです。今よりもさらに厳しい状況に置かれていたかつてのロシアや中国にも多くのイエスに従う人々が存在しました。どんなに凶悪な政権でも「体は殺すことができても、魂を殺すことはできない」のです。ですから、時がよくても悪くてもと前回お話ししたように、誰が権力を持っていても、私たちは、魂に永遠の命を与える神様だけを信頼して生きるのです。その上で、もちろん先にお話ししたように、私たちには良いものを追求する責任も与えられています。少しでも、神様の愛、神様の義が行われるように投票するのです。

 そこでいよいよ、イエスがもし有権者であったらどのような基準で投票するかということを確認しておきましょう。

B. イエスの投票基準は?
1) イエスは民族主義から距離を置く (ルカ13:22-30)

24 「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。

25 家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。

26 そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。

27 しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。

28 あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。

29 そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。

30 そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」

  ユダヤは民族主義の熱狂の中にありました。無理もありません。ローマによる植民地状態で、人々の不満は、強力な民族的メシアを待ち望んでいた時代です。イエスはまさにそのようなメシアとして期待され、そうではないとわかった時の失望が、イエスを十字架の死に追いやりました。イエスは、ユダヤ人だから神の国に入れると思うな!と言っているのです。むしろ。当時の宗教指導者たちが、決して神の国には入れないとしていた外国人が東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着くとさえ言いました。イエスは、コンサバでもリベラルでもなくラディカルとしか言いようがありません。イエスは、熱心な宗教者なら、汚れると言って近づこうともしなかった人々のところに行って、一緒に食べたり、飲んだりし、宗教的に軽蔑されていた人たちの願いに応えた方でした。占領しているローマ軍人でさえ喜んで癒してやりました。「日本は特別な国、特別に美しい、特別に優れている。そうであるべきであって、そうなっていないのは、外からの悪い影響だ。悪い影響を取り除いて、美しい日本を取り戻しましょう」と主張する人は、ファリサイ派と同じ偽善者です。耳を貸してはいけません。「すべての人が罪を犯し、神の栄光を表せなくなっているのです」が聖書の教えるところです。どこにも誰にも、良いところ、悪いところ、美しいところ、醜いところがあって、補い合い、助け合い、忍耐しながら、良い世界の一部としての日本を作ろうとすることが神様の意思です。

2) イエスは弱者を憐れむ (ヨハネ 9:1-7)

1 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。

2 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」

3 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。

4 わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。

5 わたしは、世にいる間、世の光である。」

6 こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。

7 そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。

 誰の方を向いて国を治めるべきか?ということについてもイエスの態度ははっきりとしています。弱い立場に置かれている人々にこそ目を向けようとイエスは勧めます。貧しい者、病弱な者、社会的差別を受けている者、宗教者から罪人と断定されている者のことです。当時の宗教的指導者達は、社会の底辺で苦しむそのような人々に対する憐れみを持っていませんでした。律法を守らず、罪深く、汚れているのだから、そういう人を助けるどころか近づかない方がいいとさえ考えていたのです。現代の指導者、政治家達はどうでしょう?弱い人はどうでもいいとあからさまにいう人はいません。しかしどのような形で税金を集め、どのようにそれを用いるかについては違いがあります。それはつまり、自分たちに献金をしてくれるような富んだ人々のエゴを代表して活動するのか?それとも、そのように富んでいる人を説得して、弱い人々の生活の向上のために、もっと多く負担をしてもらおうとしているのかです。前者には、根本的に弱い立場にいるのは自分やその家族のせいで、富んでいるのはその人の努力なのだから、富んでいる人の負担で、弱い人を助ける必要はないという考えがあります。それはまさに 「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」 という誤解そのものです。しかし後者は、本人の努力には関係なく社会の構造として抜け出せないでいるのだから、富んでいる者は犠牲を払ってでも、弱い人々に助けの手を差し伸べるべきと考えます。どちらが正しいかはイエスの答えとそのあとでなさったことで明らかでしょう。

 この国がより良いものとなるために、と誰もが言います。しかし「良い」の内容は全く異なっています。ある人々にとっては、軍事的な力をつけて国際社会で発言力を増す強い国になることが良い国になることを意味します。ある人にとっては、できるだけ貧富の差がなくなり、誰でも欲張らなければ幸せに暮らせる国が良い国です。イエスはどちらを支持されるでしょうか?強い国を目指せば、弱い人が一番我慢しなければなりません。サムエルの時代も、イエスの時代も、今も同じです。イスラエルの長老たちが、神様に信頼せずに自分たちの恐れや欲望に従って王を求めたように、強い指導者を求めるなら、私たちは彼らと同じ過ちを犯すことになってしまいます。

3)  イエスは権力を警戒する (マルコ 10:35-45)

42 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。

43 しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、

44 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。

45 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

  ここまでイエスと共に歩んできた弟子たち。その中でも中心的存在だったヤコブとヨハネがイエスに願いました。「あなたが栄光を受ける時、私たちをあなたの右と左に座らせてください。」イエスは言いました。「あなた方は自分で何を願っているのかわかっていない」 弟子たちも、まだイエスを民族的メシアだと思っています。イエスが王になった時、自分たちを最高の位につかせてくださいと願っています。さらにイエスは、私が飲む杯を飲むことができるかと問うと、もちろん王が飲む特別なお酒を飲める名誉を連想して「できます」と答えていますが、それはイエスの死の苦しみを共にする、殉教の死を遂げることでした。本当に何もわかってはいなかったのです。他の弟子たちも同じです。こんな人たちが教会を始めたらどんなことになるかイエスは心配してこのように言ったのでしょう。イエスのリーダーシップは、人々のために喜んで僕となり犠牲を払って働くということです。しかし、教会の中でさえ権力を持って人の上に立ち支配しようという欲望を持った人がリーダーとなり、イエスの名を汚すことが起こります。政治の世界ならなおさらのことです。為政者を立てることは認められています。しかし、より良い動機を持った人をできるだけ注意深く見出さなければなりません。選んだ後もよく見守って行かなければなりません。権力を持ちたい、保ちたいという欲望は名誉が欲しい、財産を持ちたい、コントロールしたいという欲望と連動して、権力者の心を支配します。そして民の苦しみを増すことになるのです。選挙権を持っている方は今週よく神様の意思を求めて祈り、それを実現するために誰に投票するかを決めましょう。日本に国籍がない方は自分の国の政治に神様の意思が反映するように祈りましょう。

メッセージのポイント

 民が主権者であることは、王や独裁者の支配よりはずっと良いことですが、聖書によれば真の主権者は神様です。私たちは主権者として、神様の意志にかなう社会を追求する責任があります。神様を知らない人は自分の願いに従って投票を行います。誰が自分のエゴに一番応えてくれるかという基準です。しかしイエスに従う者としては、聖書を通して教えられるイエスの意志に従って投票を行いましょう。

話し合いのために

1) なぜ神様は王を求める民の求めに積極的ではなかったのでしょうか?
2) イエスに従う者は「投票」以外にどのように政治に関わってゆくべきでしょうか?

 

子供たちのために

投票とは何かを説明した上で、どんな人が国を導く立場についたら良いかをBのイエスの教えを参考に考えさせてみましょう。正解はありません。サムエル上8について話して、なぜ神様がこのことについて積極的ではなかったのかについて考えさせてみても良いでしょう。