2017/4/30 やましいところのない歩み

永原アンディ

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やましいところのない歩み (詩編 26)


1 主よ、あなたの裁きを望みます。わたしは完全な道を歩いてきました。主に信頼して、よろめいたことはありません。
2 主よ、わたしを調べ、試みはらわたと心を火をもって試してください。
3 あなたの慈しみはわたしの目の前にありあなたのまことに従って歩き続けています
4 偽る者と共に座らず欺く者の仲間に入らず
5 悪事を謀る者の集いを憎み主に逆らう者と共に座ることをしません。
6 主よ、わたしは手を洗って潔白を示しあなたの祭壇を廻り
7 感謝の歌声を響かせ驚くべき御業をことごとく語り伝えます。
8 主よ、あなたのいます家あなたの栄光の宿るところをわたしは慕います。
9 わたしの魂を罪ある者の魂と共にわたしの命を流血を犯す者の命と共に取り上げないでください。
10 彼らの手は汚れた行いに馴れその右の手には奪った物が満ちています。
11 わたしは完全な道を歩きます。わたしを憐れみ、贖ってください。
12 わたしの足はまっすぐな道に立っています。聖歌隊と共にわたしは主をたたえます

 全体を読んでどう感じましたか? 自分はそんな立派なことは言えない、と思いませんでしたか?またこの詩人だって本当にそう言えるような立派な人なのだろうかと思いませんでしたか?私たちはこの詩から、イエスに従って歩む者の持つべきセルフイメージについて学ぶことができます。私たちは自分をどのようなものと見れば良いのでしょうか?先週のメッセージを覚えていますか?私たちはイエスと共に罪に死に、イエスと共に新しく生きる者であることを知りました。ここに答えがあります。私たちは誰も、詩人が言うような生き方をしてきたわけではありません。詩人もまた自分の正しさに自信満々なのではなく、彼の人生の中に神様が深く関わっていて下さり、自分の弱さや醜さも全部神様に委ねて安心できることを知って、このように言うことができました。旧約聖書の時代のこの詩人がどのような体験を通してこう確信できたのかはわかりませんが、私たちにとっては十字架と復活が確信の根拠となります。イエスは私たちに高すぎることも低すぎることもない正確なセルフイメージを教えてくれます。


A. イエスと共に来た今までの歩み

1. 変えられた価値観 (1-3, 6-8)

主よ、あなたの裁きを望みます。わたしは完全な道を歩いてきました。主に信頼して、よろめいたことはありません。主よ、わたしを調べ、試みはらわたと心を火をもって試してください。あなたの慈しみはわたしの目の前にありあなたのまことに従って歩き続けています。(1-3)
主よ、わたしは手を洗って潔白を示しあなたの祭壇を廻り感謝の歌声を響かせ驚くべき御業をことごとく語り伝えます。主よ、あなたのいます家あなたの栄光の宿るところをわたしは慕います。(6-8)

 ここに集っている多くの人は、イエスとの出会いによって自分の持っていた価値観がすっかり変わってしまったことを経験しています。それ以前の歩みでは、ある人は高すぎる、ある人は低すぎるセルフイメージで歩んできました。それはまた環境が変わることで、逆転したりもするものでした。しかしイエスとの出会いによって得たものは共通しています。それは、イエスの目から見たセルフイメージを獲得したということです。一節に「完全な道を歩いてきた(Walking a perfect way)」とあります。英語(やましいところのない歩み/Leading a blameless life)とは随分違う訳で、他の日本語訳もNIVに近い訳を採っています。どちらかといえばその方が自然だと思いますが、「道」と表現した方が良い理由が一つあります。それは、聖書で「完全な道」といえばイエスのことを指すからです。ヨハネによる福音書はイエスと弟子のトマスの会話を記録しています。

わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。 (ヨハネによる福音書 14:4-6)

私たちは自力で完全な道を歩むことや、やましいところのない歩みをすることは不可能ですが、完全な道であるイエスについて行くことはできるのです。この道を歩み続けることはイエスの助けによって不可能ではないのです。神様がテストするのは、私たちの道徳的成績、何をしたか、しなかったということではありません。試されるのはイエスに従っていきたいという心の思いです。私たちは罪深い性質を持ちながら、完全に赦された者です。このことを忘れないなら、私たちは自分を過大評価することも過小評価することもありません。イエスと共にいるのですから、自信を持ってやましいところのない歩みをしているのだと知ってください。

 

2. 避けて来た生き方 (4, 5, 9, 10)

偽る者と共に座らず欺く者の仲間に入らず悪事を謀る者の集いを憎み主に逆らう者と共に座ることをしません。(4, 5)
わたしの魂を罪ある者の魂と共にわたしの命を流血を犯す者の命と共に取り上げないでください。彼らの手は汚れた行いに馴れその右の手には奪った物が満ちています。(9,10)

 ほとんどの皆さんは、イエスを知る前でも、ここに書いてあるような人の血を流すような犯罪集団の仲間だった経験はないと思います。盗んだものをたくさん持った友達もいないと思います。「そんなことはイエスを知る前から避けてきた」と言えるかもしれません。しかし、そのような人にもここに書かれていることは無関係ではありません。私たちは、イエスに従って歩み始めると少しづつ、彼が喜ぶこと、悲しむことがわかるようになってきました。ささいなことでも、イエスがそれを喜ばれるだろうかと考えることによって、避けるべきことを知ることができるようになったのです。私たちが、するべきか、するべきではないかと迷うことのほとんどは、ここに書かれているような、現代の法律でも重い罪に定められるようなことではありません。大抵はそうしなかったからといって誰にも責められないようなことです。それでも私たちは、イエスが喜ばれないこと、愛のない言葉、行い、無関心、冷淡な態度を避けようとしてきました。そのことを神様は喜んでいて下さいます。反対の言い方をするなら、ここでイエスならこの人に何をするか、何を言ってあげるのかを聞きながら来た道だったのです。


B. イエスと共に行くこれからの歩み (11-12)

わたしは完全な道を歩きます。わたしを憐れみ、贖ってください。わたしの足はまっすぐな道に立っています。聖歌隊と共にわたしは主をたたえます。(11, 12)。

1. やましいところのない歩み

 今日、私たちは 「やましいところのない歩み (leading a blameless life)」 や 「完全な道(The Perfect Way)」 ということが、求められている道徳的態度のことではないことを知りました。私たちの完全な道とはイエスだと知っているので、やましいところのない生活(blameless life) とはイエスと共に生きることだと理解しています。「わたしは完全な道を歩きます」 それは、私はイエスと共に歩みますということです。そして私たちは、詩人とは異なり、贖いは十字架でなされたことを知っています。だから神様の憐れみが豊かであることも知っているのです。「贖う」という言葉の元々の意味は奴隷を買い取って自由にすることです。詩人にとっては「置かれている状況から救い出される」ことを意味していました。私たちにとっては「罪に支配されていた状態からの解放」を意味しています。
問題は、この事実にもかかわらず、私たちの気持ちが状況によって左右されやすいということです。それで私たちは詩人のように「主に信頼して、よろめいたことはありません」 などと言う権利が自分にはないと思ってしまいます。しかし私たちは主にあがなわれた者です。私たちは自分の感情に基づいて生きているのではなく、あがなわれたと言う事実に基づいて“生かされて”いるのです。それが12節の「わたしの足はまっすぐな道に立っています」ということです。感情を消すことはできませんし、その必要もありません。しかし感情にコントロールされてしまうなら、イエスと出会う前と同じ生き方になってしまいます。どうしたら感情に支配されず神様の下さっためぐみの事実に基づいて歩むことができるのでしょうか?詩人はここで良い解決法を提案してくれています。「聖歌隊と共にわたしは主をたたえます。」 恵みの事実を知っている他の人々と共にイエスをほめたたえる。礼拝を捧げ続けると言うことです。私たちが週の初めの日に集い礼拝するのはこのためです。なぜ週の初めの日の朝なのですか?イエスが十字架にかかられ三日目によみがえられたときだからです。今日も、神様を礼拝し、ほめたたえて、今週も恵みの事実によって生かされていることを感謝しながら歩んでゆきましょう。

2. どこへ向かうのか?

 私たちの歩む“完全な道”はどこに向かって伸びているのでしょう?それは物理的、空間的な目的地ではないことを知っておきたいと思います。かつて人々は神の国が空の上にあるものと信じていました。神の国を天の国とも表現するのはそこから来ています。肉体が滅びた後、行く場所と考えられていました。しかし神の国の概念は、もっと広いものです。聖書の中には神の国に入るという表現もありますが、神の国が現れる、やってくるという言い方もされます。「神の国」は場所ではなく、神様の支配を意味する言葉なのです。教会は不完全ではあっても神の国の現れです。私たちは神の国の完成に向かって歩んでいます。神の国がいつ完成するのか、私たちは知る必要がありません。死んだ魂がどのような状態であるのかも、聖書の中の限られた表現から特定のイメージを持つことは間違っています。思い出してください、イエスだけが道なのです。それは神様と私たちを結ぶ道です。しかしそれは、「罪深い世、罪深い人々からどんどん離れて」世界の外に向かう道ではありません。この世界に神様の支配が行き渡る、神の国を目指してイエスと共に生きる道です。果てしない働きのように思えます。でも一人一人が担当するのは多くても100年程度で次の世代に受け渡して行くのです。生きている間に終末は来ないと断言することはできませんが、私たちは、その時の様子を心配したり、待ち望んだりすることを期待されているのではありません。そうではなく、与えられている時を精一杯生きることを期待されているのです。イエスと共に、一日一日を、1時間1時間を歩んでゆきましょう。この1週間をそのように歩くために、今から心からの礼拝を捧げてゆきましょう。


メッセージのポイント

詩人は自分の過去の歩みを「やましいところのない」、「潔白」と言い、神様に心と思いを試してくださいとまで言います。しかし、それは自分の正しさに自信満々なのではなく、11節にある「神様による憐れみと贖い」があるから言えたことなのです。「神様による憐れみと贖い」はイエスキリストの十字架と復活によって、誰の目にも明らかになりました。私たちも救い主イエスと共に神の国を目指して歩み続けましょう。


話し合いのために

1) なぜ詩人は過去の自分の歩みを潔白と言い切れるのでしょう?
2) 私たちは主と共にどこを目指して歩むのですか?


子供たちのために

子供達には受け取りにくい部分だと思います。ヨハネのイエスこそが完全な道という点にフォーカスして伝えてください。