喜び信頼し主を待つ

永原アンディ

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喜び信頼し主を待つ(詩編33)

1. 主に向かって喜び歌え!(1-3)

主に従う人よ、主によって喜び歌え。主を賛美することは正しい人にふさわしい。琴を奏でて主に感謝をささげ、十弦の琴を奏でてほめ歌をうたえ。新しい歌を主に向かってうたい、美しい調べと共に喜びの叫びをあげよ。

 詩編はワーシップソングです。礼拝として神様に捧げられていました。もともとは読むためのものではなく、神様に向かって表現するものです。ここで勧められていることは歌うことだけでなく、楽器を奏でること、新しい歌を作って歌うことです。礼拝は一人でもできますが、それは多くの人々と共に礼拝する必要がないということではありません。声を合わせたり、楽器を奏でたり、楽器に合わせて歌うことは一人ではできないことです。詩編の時代から、神様を慕う人々は、互いに励ましあって共に礼拝をささげてきました。神様は私たちが、個々であると共にコミュニティーであることを求められているのです。しかし、それは決して閉鎖的なコミュニティーではありません。私たち自身は、コミュニティーを閉鎖的なものにしてしまう傾向を持っています。イエスが来られた時、ユダヤ教もそうであったのでイエスは反対されたのです。イエスとの出会いによって始まったキリスト教でも同じです。注意していなければ、イエスが示されたオープンなコミュニティーは、あっという間に高い塀に囲まれた排他的なものになってしまいます。イエスの思いにかなったコミュニティー、神の家族であり続けるためにも、私たちは新しい歌を歌い、毎週イエスの思いに立ち帰ろうとしているのです。詩人は、さあみんなで歌おう、楽器を弾こう、新しい歌を歌ってみようと励ましてから、歌の内容に入ってゆきます。詩人はまず、神様がどのような方なのかを歌います。神様は歌ってもらわなくても、ご自分がどのようなものかはご存知です。しかし神様は聞くことによって、私たちがどのように神様を思っているのかを知ってくださいます。私たちも歌うことによって、自分の思いを確認します。それを個人としてだけではなく、共同体の思いとして確信することができます。さあ、私たちも神様がどのような方なのか確認してゆきましょう。


2. 主は

a. すべてを創られた方 (4-7)

主の御言葉は正しく、御業はすべて真実。主は恵みの業と裁きを愛し、地は主の慈しみに満ちている。 御言葉によって天は造られ、主の口の息吹によって天の万象は造られた。 主は大海の水をせき止め、深淵の水を倉に納められた。

 詩人は最初から神様を主と呼んでいますから、今日は私たちもここから、神様という呼びかたを「主」と言い換えることにしましょう。「神様」はあまり自分との関係を意識しないで他人事のようにも使える言葉ですが、「主」は違います。それはあなたとの関係を示す言葉だからです。神様を「主」と呼ぶなら、あなたは神様に仕える僕(しもべ)です。
詩人は創世記の1章を意識して歌っています。世界には、私たちにはわからないことがたくさんあります。分かろうと努力することは良いことですが、全てをわかる必要はないし、不可能です。ただ私たちの主である神様が作られたのだと認めるだけで良いのです。何かを理解することではなく、全てを作られた主を信頼することが私たちに平和を与えます。。

b. すべてを支配する方 (8-11)

全地は主を畏れ、世界に住むものは皆、主におののく。 主が仰せになると、そのように成り、主が命じられると、そのように立つ。主は国々の計らいを砕き、諸国の民の企てを挫かれる。主の企てはとこしえに立ち、御心の計らいは代々に続く。

 主は作られた世界をそのまま放っておくのではなく、支配しておられます。しかしそれが「本当だろうか?」と疑いたくなることが起こることも事実です。確かに、創世記の第2章までは世界は完璧でした。それを台無しにしたのは、私たちの代表アダムとエバでした。それ以来、私たちは主と共に歩みたいという思いと、自分勝手にやっていきたいという相反する思いの間で、揺れ続けています。主はご自身に似た者として、自分の意志で行動するように私たちを創られました。背を向けて歩くことも含めてです。背を向けて歩く人の欲望の犠牲となって苦しみ、命を落とす人までも出るのです。これでなぜ、私たちの主の支配があると言えるのでしょうか?

 それは、主の支配が私たちの目に見える世界にはとどまらないからです。私たちの肉体は遅かれ早かれ滅びます。それは誰も避けることができません。しかし魂はそこで滅び消えてしまうわけではないと聖書は教えます。一人の人の一生というスパンで見れば、不完全に見える主の支配ですが、「主の企てはとこしえに立ち、御心の計らいは代々に続く。」とあるように、主の眼に映る永遠というスパンで考えれば、主の支配は完全です。私たちはその全体を見渡せる目は持っていません。しかし、その目を持って支配している主を信頼することはできるのです。

c. 慈しみ深い神 (12-15)

いかに幸いなことか主を神とする国、主が嗣業として選ばれた民は。
主は天から見渡し、人の子らをひとりひとり御覧になり
御座を置かれた所から、地に住むすべての人に目を留められる。
人の心をすべて造られた主は、彼らの業をことごとく見分けられる。

 12節がイエスの前に生きた時代の詩人の限界です。私たちはイエスによって、神の国がユダヤ人専用のものではないことを知りました。ですから私たちは、イエスを知っているのに民族主義者である人を非難すべきですが、詩人が民族主義者であることは大目に見てあげるべきでしょう。私たちはこの部分を「いかに幸いなことか主を神とする人々、主が嗣業として選ばれた人々は。」と受け取りましょう。主は地上のすべての人、一人一人に目を注ぎ、その人の宗教や人種や性ではなく「心と業」を見られるのです。


3. たった一つの希望は主の変わらない愛のうちに(16-19)

王の勝利は兵の数によらず、勇士を救うのも力の強さではない。
馬は勝利をもたらすものとはならず、兵の数によって救われるのでもない
見よ、主は御目を注がれる。主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に
彼らの魂を死から救い、飢えから救い、命を得させてくださる。

 主からの背反は、人が自分の力で人から何かを奪い、何かを守るという争いに巻き込みました。主に信頼を置かないなら、人は争わなければなりません。人のものを欲しがり、人の真似をしたがります。主なしに生きる人にとって平和はただ争っていない時、争いと争いのインターバルでしかありません。戦っていないときでも心は休まりません。正しい戦争と悪い戦争を客観的に分けることはできません。しかし、私たちの本音の定義ははっきりしています。これは戦争といっても、小学生の喧嘩でも夫婦の喧嘩でもどんなレベルの争いでも同じです。だから皆さんもこの定義を知っているはずです。「自分がするのが正しい戦争で、相手が自分に対してするのは悪い戦争」です。「正しい戦争」するために、どの国でも教育や、福祉ではなくミサイルにお金をかけるのです。不安を解消するためには、より多く持たなければならないとしか考えられないからです。どの国も16、17節を理解していないようです。18、19節に私たちの希望があります。「見よ、主は御目を注がれる。主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に 彼らの魂を死から救い、飢えから救い、命を得させてくださる。」自分の国でも他の国でもなく、自分でも他人でもなく、主に目を向けることが大切なのです。


4. 主に向かって喜び歌え!(1-3)

我らの魂は主を待つ。主は我らの助け、我らの盾。
我らの心は喜び、聖なる御名に依り頼む。
主よ、あなたの慈しみが我らの上にあるように、主を待ち望む我らの上に。

 私たちの主は約2000年前に、イエスという一人の人となって、たった30年ほど私たちの歴史の中に存在されました。今はもう、目で見ることも、手で触れることはできませんが、霊的存在として共にいてくださいます。詩人はまだイエスを知りません。詩人が待ち望んだ時はイエスの時として実現しました。イエスを知っている私たちはもう何も待つ必要はないのでしょうか?いいえ、私たちは今でも待ち望んでいます。それはイエスの時に始まった「神の国」の完成です。今も、世界には問題があふれ、私たち自身もそれぞれ、悩み、問題を抱えています。それでも、悩みを取り去られ、病を癒され、問題を解決していただける時を“喜びながら”待ち望みましょう。


メッセージのポイント

詩編はワーシップソングです。読んで理解するだけではなく、神様に向かって歌うものです。私たちは、聖書が伝える唯一の神様を“主”と呼んで信頼しています。主は全てを創造し、全てを支配する、慈しみ深い神様です。人類が神様に背を向け自分勝手な歩みを続けてきた結果として、まだ悲惨な状況が世界に残っていますが、主を信じる者はどんなことがあっても、喜び、信頼して主を待つことができます。

話し合いのために

1) 主はどのような方ですか?
2) なぜ主を喜び信頼して待つことができるのですか?

子供たちのために

なんでユアチャーチの大人たちは、神様に向かって歌っているのか、考えてみましょう。主はどのような方かということについて話し合いましょう。イエスを信じる人は、まだ現実になっていないことを主に期待して待つことができます。イエス様に期待し、彼に向かって歌い、まだ実現していないことも期待して待ち望みましょう。