目は地に心は主に

永原アンディ

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目は地に心は主に(詩編36)

 

 

1. 目を現実からそらさない (1-5)

1 【指揮者によって。主の僕の詩。ダビデの詩。】
2 神に逆らう者に罪が語りかけるのがわたしの心の奥に聞こえる。彼の前に、神への恐れはない。
3 自分の目に自分を偽っているから自分の悪を認めることもそれを憎むこともできない。
4 彼の口が語ることは悪事、欺き。決して目覚めようとも、善を行おうともしない。
5 床の上でも悪事を謀り常にその身を不正な道に置き悪を退けようとしない。

さすがに詩人らしい超現実的な表現ですが、皆さんも、この詩人の気持ちが良くわかるのではないでしょうか?私たちは罪が政治家たちに、宗教指導者たちに語りかけて、彼らがその声に従って悪事を働くことを想像できます。しかし罪は、特定の人だけでなく、誰にでも語りかけます。罪が自分に語りかける声を聞いたことのある人はいますか?はいと答えたあなたは正直な人です。私たちが信頼して従っていこうとしているイエスご自身も、自分に語りかけるこの声を聞いています。マタイとルカのどちらも4章に記されています。

そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」(ルカ4:6-8)

ここでは悪魔╱サタンの言葉として表現されていますが同じことです。そして、私たちは、イエスとは違って、この声にとても弱いのです。目の前に広がる現実には常にがっかりさせられます。けれどもイエスは現実から逃げ出せ、隠遁しろとはおっしゃいません。むしろ、「私はあなたをここに派遣したのだ」といわれているようです。少しイエス自身の言葉にあたっておきましょう。

あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。 (マタイ 5:14)

わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。(ヨハネ17:15-19)

「世界は汚れている、世とはなるべく関わりになることを避けて、教会の中で、信じる者の間だけで身を守りなさい」というのはイエスの教えではありません。人を囲い込んでおきたい組織の教えです。教会は傷ついた者にはシェルターでなければなりませんが、癒された者にとっては、世に出て行くためのベースキャンプです。イエスは世の現実を見て深く憐れまれました。そして、彼に従う私たちに出ていって癒せとおっしゃっています。

しかしイエスが、

わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。  (マタイ 10:16)

とおっしゃっていたように、この世は、無防備に出て行くには危険な場所です。どうしたら、蛇のように賢く、鳩のように素直に振る舞えるのでしょうか?そして、イエスから期待されている、世の光という役割を果たせるのでしょうか?次の部分から見てゆきましょう。

2. 心を真実から離さない (6-10)

6 主よ、あなたの慈しみは天に あなたの真実は大空に満ちている。
7 恵みの御業は神の山々のよう あなたの裁きは大いなる深淵。主よ、あなたは人をも獣をも救われる。
8 神よ、慈しみはいかに貴いことか。あなたの翼の陰に人の子らは身を寄せ
9 あなたの家に滴る恵みに潤い あなたの甘美な流れに渇きを癒す。
10 命の泉はあなたにあり あなたの光に、わたしたちは光を見る。

なぜ詩人は、1-5のように悪に満ちた世についての表現の直後に、このような主への信頼を歌えるのでしょうか?どちらが本心なのかと思う人もいるでしょう。詩人の人格が安定していないのではないかと思う人もいるかもしれません。しかしそのどちらでもないのです。詩人は、目は地上の現実からそらさず、同時に心は主に向けることで、正しく生きることができると知っているのです。だから詩人は現実と理想は遠くかけ離れているように見えても、主に期待をおき続けているのです。主は私たちにも、このようなあり方を求めておられます。 目の前に見えている現実がどうであっても主の支配があり、愛があり、守られているということを詩人はここで宣言しています。
別の言い方をすれば、このような世界に「神の国」はすでにきているのです。それはイエスが世に来られ、十字架の死と復活によって誕生した「教会」として存在しています。まだ完成していない状態です。聖書が告げる終末、世の終わりが「神の国」の完成の時です。イエスにつながっている限り、目の前に広がる現実に関わらず、人はどこにいても神の国の市民として、その保護下にあるということです。教会とは、この建物のことでもはありません。ただ主イエスの招きに従って歩む人々のことです。私たちはこの「神の国」を味わっています。だから、目に見えるよの現実の中でも失望せずに歩んでゆくことができます。イエスに従っていればイエスの導きをいただけるからです。それによって「蛇のように賢く、鳩のように素直に振る舞えます。イエスから期待されている、世の光という役割を果たせるのです。しかし、皆さんの周りには、厳しい現実の中に置かれているのに、主の守り、慈しみがあるのだということを知らずに過ごしている沢山の人々がいます。イエスは私たちに、そのような人々のために光となりなさいと言われるのです。

 

3. 現実にでも希望にでもなく祈りの上に立つ (11-13)

11 あなたを知る人の上に慈しみが常にありますように。心のまっすぐな人の上に恵みの御業が常にありますように。
12 神に逆らう者の手がわたしを追い立てることを許さず驕る者の足がわたしに迫ることを許さないでください。
13 悪事を働く者は必ず倒れる。彼らは打ち倒され再び立ち上がることはない。

目に見える現実と、そこに生かされている私たちを守り導く神様の真実を表現した詩人は、祈りでこの詩を閉じようとしています。祈りこそ、目を現実からそらさず心は主に向けて、神様から教えられる正しい歩みを続けるための命綱です。それは、あなたと神様をつなぐホットラインです。罪があなたの心の中に聞こえてくる罪の言葉を雑音だと認識し、心の耳をすませて、神様からの語りかけを聞き、それに答えることです。
主に従っているつもりでも、聖書の約束の言葉と自分を取り巻く現実の間に引き裂かれてしまい、自分を見失っている人がいます。ダビデを取り巻く現実も、私たちを取り巻く現実も大差はありません。イエスに従う歩みは、尾根道を歩くような歩みです。祈りという命綱を握っていないと左右どちらかの谷に転落してしまいます。 ある人は現実に背を向け、教会の中でだけ生きています。ある人は、聖書の約束に失望し教会を出て行きます。そしてまた、ある人は、世にある月曜日から土曜日の自分と聖なる日曜日の自分とを演じ分けています。しかし私たちは、祈りという神様とのホットラインを持っているので、目は地に、心は主に向けて、世の光として、歩み続けることができます。今日もこれからのワーシップタイムにただ心を主に向けて、注意深く主の声を聞き、それに応えて主との対話を大切に楽しんでください。


メッセージのポイント

 クリスチャンの中には、聖書の約束の言葉と自分を取り巻く現実の間に引き裂かれてしまい、自分を見失っている人がいます。ダビデを取り巻く現実も、私たちを取り巻く現実も大差はありません。ある人は現実に背を向け、教会の中でだけ生きています。ある人は、聖書の約束に失望し教会を出て行きます。しかし私たちは、目は地に心は主に向けて、今をたくましく生きることができます。それは現実にでも希望にでもなく、祈りの上に立つということです。

話し合いのために

1) 心を真実から離さないとは?
2) 祈りにはどのような力がありますか?

子供たちのために

 神様との関係が日曜日の朝だけのイベントの中にではなく、子供達の日常の中にある、ということをわかってもらうために、私たち大人は何ができるでしょうか?。単に聖書を説明したり、暗記させてもわかってもらうことはできません。私たち自身が、日常生活の中でどれほど主とともに歩んでいるかという事を見せてあげるほかに方法はありません。
全体は長いので、子供達と6節以降を味わって、神様の大きな恵みが一人一人に及んでいる事を伝え、自然に会話するように折に触れて祈る事を励ましてください。