イエス様は神様の真実

David Hayward @nakedpastor (https://nakedpastor.com/)
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イエス様は神様の真実

ヨハネによる福音書3:31-36

池田真理


 今日もヨハネによる福音書の続きで、今日は3:31-36を読んでいきます。この箇所は、これまでの1章から3章のまとめのような箇所です。前々回読んだ16-21節と同様に、この福音書を書いたヨハネによるナレーション部分と考えられます。ヨハネのここでの目的はただ一つ、歴史上の人物であるイエスはこの世界を造られた神様ご自身であり、神様の真実を明らかにされる方であると、読者に改めて強調することです。短い部分ですが、二つに分けて読みたいと思います。まず31-34節です。

A. イエス様は神の子である (31-34)

31 上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。32 この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、誰もその証しを受け入れない。33 その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確かに認めたのである。34 神がお遣わしになった方は、神の言葉を語られる。神が霊を限りなくお与えになるからである。

1. 天から来られた神様ご自身

 まず最初の31節に注目すると、最初の文と最後の文はほぼ同じ内容で、「上から来られる方/天から来られる方は、全てのものの上におられる」と繰り返されています。そして、その間の文では「地から出る者は地に属する」と、天と地の対比がされており、地に属する者と天(または上)に属する方では決定的に違うのだ、ということが強調されています。 天から来られた方というのはイエス様を指し、地に属する者とは人間全てを指します。 イエス様は一人の人として現れた方であるけれども、本来は天に属す方で、地に属す私たちとは違う方であるということです。そして、この方は「全てのものの上におられる」と言われているのは、イエス様が神様ご自身であるということを示しています。
 2千年前に実在したイエスという一人の人物が、実はこの世界を造られた神様ご自身であったということは、すぐに信じられることではありません。それは、このヨハネによる福音書が書かれた当時の人たちにとっても混乱を引き起こす教えでした。ヨハネによる福音書は、イエス様の死から60年後くらいにまとめられたと言われています。60年前に実在した人が神様だったと信じるのと、2千年前の人が神様だと信じるのと、どちらが簡単でしょうか?私は、どちらも別々の理由で簡単ではないと思います。イエス様の死後60年といえば、まだイエス様を実際に知っている生き証人たちがいて、力強くイエス様のことを教えていましたが、同時に、イエスを信じる信仰は神様への冒涜だと否定され、迫害も激しかった時代です。それに、イエスは完全な人であると同時に完全な神様であると理解することは難しく、どちらかに偏った間違った教えも広まっていました。今の時代は、もう生き証人たちはいませんが、2千年という長い年月の中で、間違った教えは排除されてきて、ある程度は正当な教えが何かということが確立されています。また、クリスチャンが迫害される国は少数です。でも反対に、教会が組織的に犯してきた間違いも、クリスチャンが個人的に犯す過ちもよく知られるようになり、教会に対する不信感や軽蔑を抱く人も少なくありません。神が人となられたなんて、そんなのは荒唐無稽な作り話で、自分とは関係ない昔話だとすることは簡単です。でも、イエスという人物が古代の人だとしても、現代の私たちにとっても彼はとても魅力的な人だと思います。

2. 神の言葉22

 34節には「神がお遣わしになった方は、神の言葉を語られる」とあります。これは、このヨハネによる福音書の冒頭で言われていた、イエス様は神の言葉そのものであるということにつながります。聖書に記録されているイエス様の言葉も行動も、そのすべてが神様がどんな方であるかということを私たちに教えてくれます。これはとても不思議なことというか、必然のことでもあるのですが、聖書に記録されているイエス様の言動をよく読むと、現代の価値観に照らしても革新的で、時代を超えて通じる普遍的な価値があることが分かります。聖書の中には、聖書が書かれた時代と社会の価値観が反映されて、パウロの手紙などは非常に男尊女卑的な価値観を反映していて、私たちには時代錯誤と感じる部分が少なくありません。でも、その中でも、イエス様の言動に関する聖書の記録にはそういう点が一切ありません。むしろ、イエス様は、現代社会においても先進的と言えるような男女平等の考え方を持ち、弱者に寄り添い、強者の論理を否定します。そして、その究極の形が、自らの命を罪人のために献げるという行動でした。それが神様の愛だと教え、神様はそのような愛で私たちが互いに愛し合うことを望まれているのだと教えてくれました。 

3. 父・子・聖霊、三位一体の神様

 34節の後半には「神が霊を限りなくお与えになるからである」とあります。これは、神様がイエス様にご自分の霊を限りなく与えるという意味ですが、これは同時に神様は父・子・聖霊の三位一体の神様であるということを指しています。というのは、神様は私たちにも聖霊様を送ってくださいますが、「限りなくお与えになる」ということはないからです。 エフェソの信徒への手紙に、私たちには「一人一人、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられる」とあります。(エフェソ4:7)私たちは誰でも、それぞれがイエス様の体の一部として、恵みの一部を与えられているに過ぎません。でも、神様とイエス様と聖霊様は互いに互いを限りなく共有しており、一体です。イエス様は神様ご自身、聖霊様は神様の霊であると同時にイエス様の霊であり、三者はそれぞれ独立した存在であると同時に一つの存在です。このことは、このヨハネによる福音書の中で後でさらに語られていくことになります。

 それでは後半を読んでいきます。35-36節です。

B. イエス様への態度が私たちと神様の関係を決める (35-36)

35 御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた。36 御子を信じる人は永遠の命を得る。しかし、御子に従わない者は、命を見ることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。

1. 神様はイエス様に全てを委ねた

 35節に、神様はイエス様に全てを委ねた、とあります。これは、続く36節で言われているように、イエス様を信じるかどうかによって私たちを救うか救わないか決めることにしたという意味です。これはとても誤解を招く言い方なので、丁寧に考えていきたいと思います。

2. イエスを信じる人には永遠の命

 まず、「イエスを信じる人は永遠の命を得る」とありますが、イエス様を信じるとはどういう意味でしょうか?それは、ただイエスという人物が実在したと信じるという意味ではありません。また、イエスは神ご自身だったと信じるだけでも足りません。 イエスは何をしたのか、どういう方だったのか、彼が本当に神様ご自身だったとしたら、それが自分にどういう意味があるのかまで含めて知ることが重要です。それは先に少しお話ししたように、イエス様の言葉と行動、特に十字架での死と復活を知ることです。つまり、イエス様の行動を通してイエス様の愛を知り、それが神様が私たちに注がれている愛なのだと知ることです。ですから、イエス様を信じるとはイエス様の愛を信じること、そして神様の愛を信じることと言い換えられます。
 そして、「永遠の命」というのも、イエス様の愛を知ることの延長上にあります。永遠の命とは、イエス様と永遠に共に生きることであり、イエス様と愛し合う関係を永遠に保つことだからです。永遠の命は肉体の死の後に与えられるものではなく、体が生きているかいないかに関係なく、私たちがイエス様と愛し合う関係にあるなら、そこで既に始まっているものです。ですから、イエス様を信じるということも、永遠の命を得るということも、イエス様と愛し合う関係を持つという一言でまとめられます。私たちは、イエス様の十字架の愛を知ることによって、神様が私たちに望まれている関係を取り戻せるということです。それが、神様がイエス様に委ねたものでした。
 これは、33節で「その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確かに認めたのである」と言われていることにもつながります。イエス様は神様が真実であることを示す方であり、イエス様を信じることは神様の真実を知るということなのです。

3. イエスに従わない人には神の怒り

 それでは、「御子に従わない者は、命を見ることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる」とはどういうことでしょうか? まず、「命を見ることがない」というのは、イエス様と愛し合う関係にならなければ、イエス様と永遠に共に生きることの意味も見出さないという、当然と言えば当然のことです。ただ、「神の怒りがその上にとどまる」ということに関しては、私たちは注意深く考える必要があると思います。

 まず、信じない者に向けられる神様の怒りというものを考える上で思い出すべきなのは、前々回読んだ3:17-18です。読んでみます。 

神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。(3:17-18)

これは、信じない者は神様の愛を知らず、罪の中で苦しむしかないので、それが既に裁きになっているという意味でした。 神様の怒りがとどまるというのも、これと同じ意味で考えることができます。

 でも、ここで言われている神様の怒りというのは、それ以上の意味があると思います。 それは、神様は愛の方であると同時に正義の方であり、人を苦しめる悪を決して見過さず、正しく裁く方であるということに関係しています。また、ここで「御子に従わない者は」とあり、単にイエス様を信じない者ではなく、イエス様に従わない者という言い方になっていることにも注意が必要です。つまり、ここで神の怒りがとどまるとされているのは、イエス様に従わないで、イエス様の意志に逆らう人たちだということです。 イエス様の意志に逆らうというのは、自覚的か無自覚的かに関係なく、神様の愛に反することを行うことです。それは言い換えれば、互いに愛し合わないこと、弱者を排除すること、人を差別することなど、神様の正義に反することとも言い換えられます。神様は、そのようなことを全て無かったことにして見ないふりをする方ではなく、正しい怒りと嘆きを向けられる方です。

4. 「誰もイエスを受け入れない」? (32)

 ここまで考えると、お気づきかもしれませんが、神様の怒りを免れる人は誰もいません。 私たちは誰も、完全な形で互いに愛し合えることはないし、弱者を排除したり、他人に偏見や差別を持たない人はいないからです。だから、32節にこうありました。「この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、誰もその証しを受け入れない。」 つまり、誰もイエス様を受け入れないということです。
 それでは、これまでお話ししてきたことは全てに無駄になってしまいそうですが、そういうわけではありません。ヒントになるのは、イエス様がニコデモに語った言葉です。

はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。(3:3)

イエス様を信じて、神様の愛を知るということは、新しく生まれ変わるということです。 日々、古い自分に死ぬこと、死すべき自分の罪に気が付くこと、そして、イエス様の愛を頼って生きていくことです。 それは、私たち自身の力でできることではなく、神様が聖霊様を私たちに与えて可能にしてくださることです。

 

 神様が人となって、イエスという一人の人物としてこの地上を確かに生きたということも、にわかに信じ難いことですが、神様が私たちのために死なれたということも、すぐには理解できないことです。でも、それが神様の真実で、この真実は私たちに新しい人生を与え、歩むべき方向を照らし続けてくれます。 

(お祈り)イエス様、あなたは私たちを愛して、私たちがその愛を知るようにと願われ、十字架に架かってくださいました。どうか私たちがあなたの愛を受け取って、あなたを愛し、互いに愛し合うために、日々新しい人生を歩むことができるように助けてください。 間違いを認め、互いに許し合うことができるように、私たちが全ての人の前で誠実であれるように、助けてください。あなたの霊を注いで、私たちを導いてください。主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。


メッセージのポイント

神という存在について、人はそれぞれの経験や知識に基づいて漠然としたイメージを持っています。でも、教会が2千年以上に渡って伝えてきたのは、十字架で死を遂げたイエスという一人の人物こそがこの世界を造られた神ご自身であったということです。イエス様は、その十字架の死を通して、私たちに神様の真実を教えてくださいます。神様の真実とは、神様は私たちの悪を裁く正義の方であると同時に、私たちの罪を赦す愛の方であるということです。

話し合いのために
  1. 「イエスを信じる(イエスに従う)」(36節)とは具体的にどういうことですか?
  2. 「イエスに従わない者の上には神の怒りがとどまる」とはどういう意味ですか?
子どもたち(保護者)のために

神様という存在は漠然としていて、信じていようといまいと、人それぞれに違ったイメージがあります。子どもたちも親以外の大人や友達などから、実は色々な情報を受け取っていると思います。でも、保護者の皆さんが信じている神様は全く漠然としておらず、イエス様という歴史的人物に基づく情報なのだと伝えてください。実在の人物が実はこの世界を造られた神様ご自身であり、その方はご自分の命を私たちのために捧げるほどに私たちを愛してくださっていることを、改めて伝えてください。神様がどういう方か分からなくなった時には、子どもも大人もイエス様の十字架に戻ってくる必要があります。