互いに愛し合い、世界に仕える

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互いに愛し合い、世界に仕える

ユアチャーチ・カヴェナント 2,3

池田真理

 今日は、先週に引き続いて、ユアチャーチのメンバーのカヴェナント(誓約)についてお話しします。今日は二つ目と三つ目の誓約をまとめてお話ししますが、これは一つ目の誓約が前提になっていますので、先週の1つ目の誓約についてのお話を聞き逃した方は、ぜひご自分で後で教会のホームページを見てください。また、この教会のメンバーシップについて質問がある方は、牧師たちにいつでも聞いてください。

 さて、週報を見て驚かれたと思いますが、今日は聖書箇所をたくさん読んでいきます。最初に読むのは、先週紹介されたイエス様の言葉の続きです。イエス様は、私たちが守るべき最も重要な戒めは、第一に神様を愛することだと教えた後で、こう言われました。

A. 互いに愛し合い、仕え合う 
1. 言葉と行動でイエス様の愛を伝え合う

(マルコ12:31) 第二の戒めはこれである。『隣人を自分のように愛しなさい。』

イエス様が私たちに守るように教えた戒めは、この二つに全て集約されます。神様を愛することと隣人を愛することです。そして、隣人を愛するということの中に、互いに愛し合うことと世界に仕えることが含まれます。イエス様は、互いに愛し合うということについて、さらにこう言われています。

(ヨハネ15:12-13) 私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の戒めである。友のために命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。

イエス様は、まさにここで言われているように、私たちのためにご自分の命を捧げてくださいました。そして、私たちがそれに倣うようにと教えています。このことについて、イエス様に愛された弟子のひとりだったヨハネは、こう言い換えました。

(1ヨハネ4:19-20) 私たちが愛するのは、神がまず私たちを愛してくださったからです。「神を愛している」と言いながら、自分のきょうだいを憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える自分のきょうだいを愛さない者は、目に見えない神を愛することができないからです。

 愛するということは、抽象的な感情ではなく、具体的な行動です。誰かを好きだという感情を持つことは、自分を愛してほしいという自己中心的な願望に基づいていることがあり、暴力の引き金にさえなり得ます。でも、神様が私たちをありのままで愛してくださっており、そのためにご自分の命さえ捧げてくださったのだと知るとき、私たちは自由に人を愛することができます。自分に注がれている神様の愛が、誰に対しても注がれていると知っているので、神様が愛している目の前の誰かを、大切にしないではいられません。そして、損得や個人的な好き嫌いの感情とは別の次元で、その人が神様の愛を感じられるためには何が必要で、それを伝えるために自分はどうすべきなのかを考えます。旧約聖書の詩篇にはこんな言葉があります。

(詩編27:10) 父と母が私を見捨てようとも/主は私を迎え入れてくださいます。

家族という言葉は人によってはとても辛いものですが、この詩篇の言葉にある通り、たとえ実の親やきょうだいが愛してくれなくても、神様は私たち全てを子どもとして迎えてくださる方です。私たちが互いに愛し合うということは、この神様の愛によって、血のつながりによらず、互いを大切にし、助け合う家族になっていくということです。このことは、教会の基礎を作ったパウロが自分の弟子であるテモテに送った言葉からも分かります。

(2テモテ1:2-4) 愛する子テモテヘ。…私は、夜も昼も祈りの中で絶えずあなたのことを思い起こし、清い良心を持って先祖以来仕えている神に感謝しています。私は、あなたの涙が忘れられず、あなたに会って、喜びに満たされたいと願っています。

とても感情的な言葉ですが、パウロがテモテのことを深く信頼し、愛していたことが分かります。テモテはパウロの実の子ではありませんでしたが、最初に「愛する子テモテへ」と言っているように、二人の間には親子のような親密な関係があったのでしょう。パウロはこの手紙の終わりにはさらにこのようにテモテに言っています。

(2テモテ4:9-13) ぜひ、急いで私のところに来てください。…来る時には、トロアスのカルポのところに私が置いてきた外套を持って来てください。また書物、とりわけ羊皮紙のものを持って来てください。

これは、とても具体的なお願いです。互いに愛し合うということは、このパウロとテモテの関係のように、神様の愛の中で互いを知り合い、個人的な信頼関係を深め、精神的な支えとなるだけでなく、実際的な必要を満たすために助け合うことです。

でも、私たちは誰でも、常に神様の愛のことがクリアに理解できて、信じられるわけではありません。誰にでも苦しい時があり、神様を疑う時があります。誰も、一人で神様の愛を信じ続けられる人はいないのです。だから、私たちには、次のパウロの言葉を互いに伝え合う役割もあります。

2. 見えない希望を共に(代わりに)信じる 

(ローマ8:25-28) まだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは忍耐して待ち望むのです。…神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者のためには、万事が共に働いて益となるということを、私たちは知っています。

私たちの信仰は、そもそも自分で自分を救うことができないという絶望から始まり、誰かから神様の愛を教えてもらって成長します。自分の心の中のイエス様は不確かになりやすく、逆に、友人の言葉の中のイエス様は強くて確かです。私たちは常に、互いの中に生きているイエス様を見せ合って励まし合うことを必要としているのです。でもそのためには、自分の弱さを安心して見せられて、一緒に悩み、祈り合える人が必要です。この教会のメンバーになる方は、誰かにとってご自分がそういう存在になれることを、恵みとして受け取っていただきたいと思います。パウロは、別の箇所では次のようにも言っています。

(2コリント12:9-10) ところが主は、「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ」と言われました。だから、キリストの力が私に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、私は、弱さ、侮辱、困窮、迫害、行き詰まりの中にあっても、キリストのために喜んでいます。なぜなら、私は弱いときにこそ強いからです。

私は、このことをこの教会の多くの人から教えてもらってきました。とても辛い状況の中で、それでも神様を信頼して希望を持って生きておられる姿に、神様は本当に生きておられるということを教えられてきました。そのような深い神様への信頼を持つことは、葛藤を乗り越える経験を重ねてこられたから可能なことですが、それを言葉と生き方で教えてくださることが、私や他の多くの人の財産になりました。だから、私たちの個人的な苦しみは、神様の愛の中でそれを他の人と共有するなら、決して苦しみで終わることなく、自分自身にもそれを共有した人にも、恵みとなります。パウロの言葉を二つ続けて紹介します。

(コロサイ1:24) 今私は、あなたがたのために喜んで苦しみを受けており、キリストの体である教会のために、キリストの苦難の欠けたところを、身をもって満たしています。

(フィリピ1:29-30) あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているからです。あなたがたは、かつて私について目にし、今また聞いているのと同じ苦闘を続けているのです。

イエス様の愛を信じられなくて苦しんでいる人と共に悩んで苦しむことは、イエス様の苦しみを共に担うということで、イエス様の苦しみの欠けているところを補うことです。また、辛い状況の中でもイエス様を信頼して歩むことは、同じように生きてきた多くの信仰の先輩たちの歩みに加わるということで、この先同じ歩みをしていく人たちに勇気を与えることです。だから、私たちは弱い時にこそ強く、私たちの苦しみは恵みでもあるのです。

そして、さらに、私たちにはもう一つの恵みが与えられています。互いの限界を受け入れて許し合うことのできる恵みです。復活の日の朝、復活されたイエス様が弟子たちに会いに来られた場面を読んでみましょう。

3. 互いの限界を受け入れ合う

(ヨハネ20:19-23) その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸にはみな鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手と脇腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

私たちは、互いに愛し合おうとする中で、必ず限界に直面します。相手を理解できなかったり、理解してもらえなかったり、すれ違いが起こります。見返りを求めないで愛そうとしていたはずが、見返りを求めるようになって、がっかりしたり、がっかりさせたりします。それは私たち人間の限界であって、私たちは誰も神様の代わりにはなれないという事実による結果です。でも私たちは、この復活の日の朝の弟子たちのように、イエス様の死と復活を通して、神様は私たちの罪を赦してくださり、私たちが平和のうちに生きることを望んでおられると知りました。そして、聖霊様の力によるならば、私たちは互いの罪を赦し合う力さえ与えられます。パウロはこう言っています。

(ローマ8:11-15) イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬべき体をも生かしてくださるでしょう。…あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、子としてくださる霊を受けたのです。

先々週もお話ししましたが、私たちの罪の性質というのは、残念ながら一生消えることはありません。でも、私たちがイエス様を信じて、聖霊様の力に頼るならば、私たちは自分たちの罪に支配されることはありません。それどころか、互いに罪を赦された罪人として受け入れ合い、神様に愛されている子供としてそれぞれが立ち上がることができます。ただ、もし一方が他方の過ちを常に許さなければいけないような関係なら、それは搾取や虐待です。誰も、他の人間の罪の奴隷になる必要はありません。互いに許し合うということと、人の過ちを放置するというのは違います。

それでは最後にもう一箇所、パウロの言葉を読みます。

(1コリント12:22-27) 体の中で他よりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。私たちは、体の中でつまらないと思える部分にかえって尊さを見出します。実は格好の悪い部分が、かえって格好の良い姿をしているのです。…一つの部分が苦しめば、全ての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、全ての部分が共に喜ぶのです。あなたがたはキリストの体であり、一人ひとりはその部分です。

互いに愛し合うということを実践するのは、今日お話しして来た通り、とても具体的なことで、いつでも誰とでもうまくいくわけではありません。でも私たちは、イエス様によって既に出会わされました。それは、互いの弱さの中で、苦しみの中で、イエス様を一緒に見上げ、イエス様を見失ったら一緒に探すためです。私たち一人ひとりがキリストの体の一部なのです。

B. 世界を愛し、世界に仕える
1. 見返りを求めずにAの全てを社会の中で実践する

さて、これでユアチャーチのメンバーの誓約の二つ目についての話は終わりで、ここからは誓約の三つ目、世界を愛し世界に仕えるということについてお話しします。ご安心ください、もう長く話すつもりはありません。というのは、「世界に仕える」ということは、これまでお話ししてきた「互いに愛し合う」ということを、私たちそれぞれが教会の外の社会の中で見返りを求めずに実践することだからです。ただ、少し付け加えたいので、二箇所だけ聖書を読みます。まずルカによる福音書にある「良いサマリア人のたとえ」の抜粋です。

(ルカ10:25-37) ある律法の専門家は…自分を正当化しようとして、「では、私の隣人とは誰ですか」と言った。 … 「この三人の中で、誰が追い剥ぎに襲われた人の隣人になったと思うか。律法の専門家は答えた。「その人に憐れみをかけた人です。」イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしてやりなさい。」

 私たちの隣人とは誰でしょうか?イエス様は、その問い自体が間違っていて、「隣人を必要としている人の隣人になりなさい」と言われました。つまり、神様の愛を必要としている人には誰にでもそれを届けなさいということです。これが、ユアチャーチの名前の由来の一つでもあります。私たちは、私たちのために存在しているのではなく、新しくこの教会に来られる方、「あなた」のための教会です。教会のメンバー同士で親密な関係を持つことは、教会を内向きに閉ざされた場所にしてしまう危険があります。でも、神様の愛は常にオープンで、教会のメンバーでない人や信仰を持たない人にも当然同じように注がれています。ですから、世界に仕えるというメンバーの誓約の実践は、教会のメンバーかそうでないかに関係なく、誰に対しても神様の愛を届けるところから始まります。そういうわけで、ちょっと厳しい言い方かもしれませんが、この教会のメンバーであるということは、愛される特権を手に入れることではなく、愛する義務を負うということなのです。

2. 神様の国をこの世界に実現する

それでは、今日最後の聖書箇所を読みます。ペトロの言葉です。

(2ペトロ3:8-9) 愛する人たち、この一事を忘れてはなりません。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは遅いと思っていますが、主は約束を遅らせているのではありません。一人も滅びないで、全ての人が悔い改めるように望み、あなたがたのために忍耐しておられるのです。

神様は、ご自分の愛を全ての人に届ける役割を、私たちに委ねられました。それは、神様の愛と正義を社会の中で実現していくということで、神様の国を世界にもたらすことです。私たちはよく、神様はなぜもっと分かりやすく早くこの世界を良くしてくださらないのかと不満を持ち、時にはそのことで絶望しそうにもなりますが、それは神様が悪いのではなく、私たちの責任です。それに、私たちはもっと、私たちには取るに足らないと思われるような些細な出来事の中にも、神様の愛の種が蒔かれ、やがて大きく成長する可能性があるということを、楽しみにするべきです。神様の目には、一日に千年の価値があることがあり、千年の働きがたった一日のためであることもあるのかもしれないからです。だから、私たちは個人の関係の中でも、社会の中でも、世界レベルでも、神様の愛と正義を実現することを諦めないで、希望を持って続けましょう。

今日は、ユアチャーチのメンバーの誓約の二つ目、互いに愛し合うということを中心にお話ししました。三つの誓約はどれも教会として欠かせないことですが、私は、ここ数年のコロナ禍のせいで、この二つ目の誓約の意味が以前より薄れてしまったと感じています。もし、神様が皆さんの心に願いを起こしてくださるなら、ぜひ今年も、または新たに、この教会のメンバーになって、歩みを共にしてください。

(祈り)主よ、あなたは不思議な方法で私たちそれぞれをこの教会に導かれました。どうか私たちがもっとあなたの愛を互いに届け合うことができるように、一人ひとりにあなたの霊を注いで、導いてください。私たちの主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。


メッセージのポイント

「互いに愛し合う」とは、①イエス様の愛を互いの言葉と行いを通して伝え合うこと、②見えない希望を共に(相手の代わりに)信じること、③互いの限界を受け入れ合うこと、を意味します。「世界に仕える」とは、「互いに愛し合う」ことの中で学んだ信仰と希望と愛を、まだそれを知らない人たちに、見返りを求めずに自分の言葉と行いを通して伝えていくことであり、神様の愛と正義の支配(=神様の国)をこの世界にもたらしていく働きです。

子どもたち(保護者)のために

保護者の皆さんが教会に来ている目的は何でしょうか?教会に何を求めていますか?子どもたちにはなんと説明していますか?子どもたちはどう考えていますか?話し合ってみてください。