2016/7/31 パウロとテトス

永原アンディ (テトス 1:1-4)

 

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パウロとテトス

 今日から、テトスへの手紙を読み始めます。普通に読めばパウロの生涯の終わり近くに、彼の働きを引き継ぐ者と期待されているテトスに書かれた個人的な手紙と受け取れますが、実はもう少し後の時代に、その当時の教会に向けて、パウロの働きを引き継いだ人によって書かれた可能性もあります。書かれている内容が、実際にパウロの生きた時代よりも後の教会の状況に合っているからです。そのような例は、聖書の他の書にもあります。例えば、伝統的にモーセ5書と呼ばれてきた旧約聖書の最初の5書も実際にはモーセが全て自分で記したものではありません。イザヤ書にしても、イザヤ個人ではなく、イザヤの影響を受けた人が書いた部分もあると考えられています。新約で言えばヨハネの名で記録されている福音書や手紙、黙示録も少なくとも、ヨハネ本人ではなく、その思想を受け継いだ人々によるものだというのが一般的な考えです。しかしたくさんの仮説があり、どの考えが決定的に正しいのかを判断することは今でもできていません。そういうことを考えるのは神学者の仕事であって、私たちのすることではありません。私たちがすることは、人間としての書き手が誰であろうと、そこから神様の言葉を注意深く受け取ろうとすることです。著者が、その手紙に冠されている人、伝統的に考えられていた人が、実は著者ではなかったとしても、それで神様の言葉としての聖書の価値が下がるわけではありません。

 実際の著者が誰であれ、私たちはパウロの時代に生きているわけでも、その100年に生きているわけでもありませんし、文化的にも全く違ったコンテキストに置かれているのです。

 それだからといって私たちに読む意味がないなら、この手紙は聖書の一部として残されることはなかったでしょう。ここには、いつの時代のどこに住む人々にとっても大切な神様のメッセージがあります。それを今日も私たちは、誤解しないように注意深く、受け取ろうとしているのです。それでは今日のテキストは短いのでまず全体を読んでみましょう。

1 神の僕、イエス・キリストの使徒パウロから——わたしが使徒とされたのは、神に選ばれた人々の信仰を助け、彼らを信心に一致する真理の認識に導くためです。
2 これは永遠の命の希望に基づくもので、偽ることのない神は、永遠の昔にこの命を約束してくださいました。
3 神は、定められた時に、宣教を通して御言葉を明らかにされました。わたしたちの救い主である神の命令によって、わたしはその宣教をゆだねられたのです。——
4 信仰を共にするまことの子テトスへ。父である神とわたしたちの救い主キリスト・イエスからの恵みと平和とがあるように。

 

A. パウロ:神の僕、キリストの使徒
1) 神に使徒とされる

 今日みなさんの心に留めていただきたい言葉は「使徒」です。英語ではほとんど同じ発音で取り入れられています。元のギリシャ語の意味は、「送り出された者」(one who is sent away)です。この言葉とほぼ同じラテン語がmissioでこちらは宣教師、ミショナリーの語源です。国際基督教大学 (ICU) のフットボールチームの名前はApostlesだそうです。パウロ以前の弟子たちの共同体では、イエスに直接に招かれ行動を共にした12人の事だけが使徒と呼ばれていました。ユダの裏切りの後、補充した(使徒言行録1章)ほどですから、人数にはこだわりがありました。この使徒言行録1章でペトロは「復活の証人は12人必要だ」と言っています。イスラエルの12部族が念頭にあったのでしょう。そして、その中心的な役割は「復活の証人」ということでした。単に神様の使いなのではなく「イエスの復活の証人」として「送り出される者」なのです。

 パウロにその資格があるのか?エルサレムの教会、つまりあのペンテコステの日に生まれたペトロをリーダーとする史上初の教会は、パウロを警戒していました。無理もありません。パウロは迫害者しかも教会史上初の殉教者となったステファノ殺害に関わっていた人物だった(使徒言行録8章)からです。

 パウロ自身も、もしただ単にイエスを信じたというだけなら、以前の自分を考えれば、もっと控えめな信仰生活を送ろうとしたはずです。しかし、パウロがイエスを選んだのではなく、イエスがパウロをご自身の働きのために選んだというのが真相でした。(使徒言行録9章)

 だからパウロは、以前の自分の大きな汚点にもかかわらず、はっきりと自分を「復活の証人」と主張したのです。もはやパウロにとっては、ユダヤ教を背景とする伝統的な立場で「使徒」と呼ばれる人は12人で、それが欠けるたびに補充するような特別なポストではありませんでした。

 現代でも、「私こそ神に油注がれた日本に対する使徒である」などと自称する人が現れますが相手にしてはいけません。パウロでさえ、イエスに「あなたは、小アジア、ヨーロッパ方面の使徒です」と保障されたわけではありません。教会史を見渡しても、使徒が公認の職として伝統的に守られてきた形跡はありません。キリスト教の異端とされるモルモン教では12人定員の使徒が任命されているそうです。ちなみに今のところ全員、白人の男性です。

 私たちは、教会の中で階級を認めません。教会はキリストの体であり、それぞれに異なった働きを担っているのです。誰が使徒と言えるかといえば、イエスを主と信じ従って歩む人なら、みな自分を使徒と言う資格があります。イエスの十字架の死と復活を信じ、イエスに従って歩んでいるのですから、みな本質的にはパウロと同じ体験をしているのです。復活された主に呼びかけられ、その主に従って歩んでいるのです。皆さんは、主に従う歩みが、社会に背を向けて教会のうちにこもり、自分たちの信仰を内面的に守ることではないことを知っています。イエスは彼を必要とする人のところを尋ね歩くような生涯を、私たちに見せてくださいました。自分だけではなく、のちに使徒と呼ばれた12人の弟子たち、さらには72人を人々のところに送り出しています。そして私たちも、この社会に送り出されているのです。それでは私たちが、どのような働きを期待されているのかということをもう少し詳しく見て行きましょう。もう一度、3節までを読みます。

2) 使徒の働き

1 神の僕、イエス・キリストの使徒パウロから——わたしが使徒とされたのは、神に選ばれた人々の信仰を助け、彼らを信心に一致する真理の認識に導くためです。
2 これは永遠の命の希望に基づくもので、偽ることのない神は、永遠の昔にこの命を約束してくださいました。
3 神は、定められた時に、宣教を通して御言葉を明らかにされました。わたしたちの救い主である神の命令によって、わたしはその宣教をゆだねられたのです。——

  ここにはっきりと、働きの内容が記されています。わたしが使徒とされたのは、神に選ばれた人々の信仰を助け、彼らを信心に一致する真理の認識に導くためです。そして、その「真理の認識」とは永遠の命を受け取るという希望です。私たちは、イエスの手足として、イエスが愛する人々を愛します。それは、物理的、精神的な必要を満たすということでもあり、それらを欠かすことがあればキリストの僕ではないということを、ヤコブの手紙で警告されています。しかしそれら以上に重要なのは「魂の必要」を満たすことなのだということがここでわかります。私たちは無条件で愛します。しかし究極的な希望は、その人がキリストを知り、キリストに従う人になるということなのです。というのは私たちの愛ではどうしても不十分だからです。私たちも初めに神を愛する人々から愛され、やがてその源にイエスがいることを知ったのです。無条件に愛そうと努める人々を通して、本当に無条件で愛してくださる方を知り、「必要は完全に満たされた」と確信できたのです。今日、ここにはまだイエスを神、主とは思えない、従って行くべきなのか確信を持てないという方もいると思います。私たちから多少の愛を感じてもらえれば嬉しいのですが、どうかそこに止まらないでください。イエスの愛は、それよりはるかに大きく深く、永遠に取り去られることのないものだからです。イエス・キリストを主と信じ従う人生の素晴らしさは、他のものでは決して味わうことのできないものです。イエスが自分にとってどのような方であるかを知りたいと思ったら、どうか先延ばしにしないで、今日帰る前に誰かを捕まえて尋ねてみてください。それでは最後の4節をもう一度読みます。

B. テトス (4)

信仰を共にするまことの子テトスへ。父である神とわたしたちの救い主キリスト・イエスからの恵みと平和とがあるように。

 今週から4、5回、この手紙を読んでいきますが、私たちにとって大変意味のある教えが含まれています。教会の置かれている状況は違いますが、私たちも次の世代に働きを引き継ごうとしているので、この手紙から学ぶべき点がたくさんあります。
ユアチャーチは、三年前に創立20周年のお祝いをしました。長いようですが、まだ1代目の牧師が働いています。日本で最初のプロテスタント教会は、1872年に始まり今でも続いている横浜海岸教会です。現在の牧師は10代目だそうです。教会が同じ名前で何代も続かなければならないとは思いませんが、少なくとも私たちには、何らかの形で次の世代に、この神の家族を継承してゆく責任があります。数世代先まで心配する必要はないのです。しかし次の世代のために、ベストを尽くして、最も良い形で交代を果たす責任はあるのです。陸上競技で言えば、私たちのチームは第一走者から第二走者にバトンを渡すリレーゾーン (take-over zone) に差し掛かっているところです。パウロは家庭を持ちませんでしたから、実の子供はいません。テトスはギリシア人で、次回のテキストに書かれているように、パウロに命じられてクレタ島で町々に長老を立てる働きをし、その後も監督として生涯クレタ島で過ごしたとされています。この人種も国籍も違う若者テトスをパウロは「信仰を共にするまことの子」と呼びます。ここには、みなさんの「信仰を共にするまことの」子、孫、親、祖父母がいるのです。祖父母世代になった私には、同じ祖父母世代に人たちとともに、次世代に信仰の財産をしっかりと渡す責任があると考えています。20、30、40代の皆さんは、自分が今日から読み始めるこの手紙の受取人、テトスだと思って聞いていただきたいのです。皆さんは、やがて数十年後に、今の10代やもっと小さな子供達、今年生まれたばかりの赤ちゃんたちに、良い魂の財産を残すために、今、私たちから良いものを引き受け、それを保つだけではなく、主人の留守に1ムナを預けられて10ムナにした僕のように(ルカ19)積極的に投資して、子供の教会にいる子供達や赤ちゃんたちにもっと良いものを渡す責任があります。渡すだけではなく、子供達には、自分たちがそう命じられたように「しっかりと霊的な投資をして次の世代に渡しなさい」と教える責任もあるのです。私たちが代々伝えるべきことは一番後ろに書いてあります。「父である神とわたしたちの救い主キリスト・イエスからの恵みと平和」です。恵みと平和が確かに存在する、この家族がさらに豊かな恵み、平和に満ち、周りにもそれをもたらす存在として成長することを期待しましょう。最後に、ユアチャーチのユーは基本的には次世代を指すと考えてください。
テトスやテモテよりパウロに感情移入できる皆さん!私たちのテトスたちが年長者に配慮がないと文句を言うのはやめましょう。むしろ、さらに若い人たちを配慮するように励ましましょう。ユアチャーチが自分たち向けではなく若者向けであることを誇りましょう。自分たち向けにはミニチャーチをしましょう。必要なら、年長者向けの落ち着いた礼拝を増やすこともできるのです。でも、一番良い時間やリソースは若い人に提供しましょう。
20、30、40代の皆さん、そういうわけで、私たち年長者に対する配慮はいりません。たまには昔のワーシップソングも入れてあげようとか、音がうるさすぎるかなとか・・・・私たちは自分たちで心配するので大丈夫です。それよりも、皆さんよりも10歳、20歳若い人たちを配慮してあげてください。私たちとしては、自分が若かった頃に歌った歌を今更歌うことより、皆さんや皆さんの子供たちが心から喜んで礼拝を捧げていることを見る方がずっと嬉しいのです。ユアチャーチという名前自体は変わっても構いませんが、ユアチャーチの心は是非、受け継いでもらいたいのです。その心がなくなればユアチャーチは単なる仲良しクラブとなってしまいます。
このバトンゾーンはまだ数年かかりそうです。自分が渡し手世代であろうと、受け手世代であろうと、他のどのチーム(教会)よりも賢く美しくしっかりとこのミッションをやり遂げましょう。

メッセージのポイント

私たちは、それぞれの生活の場に神様によって送り出された者です。この広い意味では私たちは皆、神の僕であり使徒であるといえます。私たちに委ねられている働きもまた、伝えること、導くこと、そして次世代にバトンタッチすることです。

話し合いのために

1) 使徒とはどのような人?
2) このメッセージを通してどのようなことを教えられましたか?

子供たちのために

イエスから使徒たち(特にパウロ)、使徒たちから、テトスやテモテのような次の世代の人々に伝えられたイエスを信じる信仰が何世代も経って私たちに伝えられています。子供の教会も、伝えること、導くこと、そして次世代にバトンタッチする使徒的な働きなのです。自分たちがこの2000年のつながりの中にあることを知らせてください。また、何を受け取り、それを誰かにつたえようとしているのか?=福音の内容を子供達と確認してください