2016/12/04 闇に輝く光  

池田真理
(ルカ22:7-20, エレミヤ31:31-34 )

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闇に輝く光

 先週、この教会もみんなで協力してクリスマスの飾り付けをして、クリスマスを祝う準備をしました。街中はイルミネーションが点灯して、デパートの中もクリスマスムードです。日本ではお正月も大きなお祝い事なので、この季節は私たちの気持ちもどこかそわそわして落ち着かない気分になります。でも今日は、この季節がなんとなく楽しい気分で過ごす季節ではなく、心から喜びを感じられる季節だということをお話ししたいと思います。それはたとえ大きな悲しみを感じていても、苦しみの中にいても、消えることのない喜びです。私たちがクリスマスを祝うのは、私たちの心の中にある暗闇を一時だけ忘れて、楽しい時を過ごすためではありません。クリスマスの間は世界中で起きている暗い出来事を忘れていいというわけでもありません。私たちの心にも、この世界にも、暗闇が存在しています。今日はこの暗闇を見つめるところから始めたいと思います。詩編143篇を読みましょう。

A. 私たちの闇 (詩編 143)

1 【賛歌。ダビデの詩。】主よ、わたしの祈りをお聞きください。嘆き祈る声に耳を傾けてください。あなたのまこと、恵みの御業によってわたしに答えてください。2 あなたの僕を裁きにかけないでください。御前に正しいと認められる者は命あるものの中にはいません。3 敵はわたしの魂に追い迫り、わたしの命を地に踏みにじり、とこしえの死者と共に闇に閉ざされた国に住まわせようとします。4 わたしの霊はなえ果て、心は胸の中で挫けます。5 わたしはいにしえの日々を思い起こし、あなたのなさったことをひとつひとつ思い返し、御手の業を思いめぐらします。6 あなたに向かって両手を広げ、渇いた大地のようなわたしの魂をあなたに向けます。7 主よ、早く答えてください。わたしの霊は絶え入りそうです。御顔をわたしに隠さないでください。わたしはさながら墓穴に下る者です。8 朝にはどうか、聞かせてください。あなたの慈しみについて。あなたにわたしは依り頼みます。行くべき道を教えてください。あなたに、わたしの魂は憧れているのです。9 主よ、敵からわたしを助け出してください。御もとにわたしは隠れます。10 御旨を行うすべを教えてください。あなたはわたしの神。恵み深いあなたの霊によって安らかな地に導いてください。11 主よ、御名のゆえに、わたしに命を得させ、恵みの御業によってわたしの魂を災いから引き出してください。12 あなたの慈しみのゆえに、敵を絶やしてください。わたしの魂を苦しめる者をことごとく滅ぼしてください。わたしはあなたの僕なのですから。

 皆さんは、今年1年を振り返って、この詩のように神様に叫んだことがどれくらいあったでしょうか?私はたくさんありました。神様は良い方で、これまでもたくさんの素晴らしいことをしてきてくださったと思い起こしても、自分の周りが真っ暗で希望はないと思えてしまうことはよくあります。神様の恵みの雨をいっぱい受けて、どんな木でも実でもぐんぐん育ちそうだと感じていたはずなのに、気が付いたら全身の水分が干上がって、カラカラに渇いてしまうこともあります。私たちはみんな弱く、常に満杯に希望で満たされていることができる人はいません。神様という光を知っていて、神様はいつでも私たちの渇きを潤してくださる方だと知っていても、それでも光を感じられず、恵みの雨も降らないと感じてしまうのが私たちです。
でも、感じられなくても信じることはできます。光も雨も感じられないとしても、確かに光はあり、雨も降り注いでいるのだと信じるということです。なぜ信じられるのか、それが今日これからお話ししたいことです。神様は私たちにすでに永遠の光を与えられているということです。ヨハネによる福音書の一番最初の段落、1:1-18を読んでいきたいと思います。最初に1-4節です。

B. 神様が私たちに与えた光
1. 暗闇に光を輝かせた「言」創世記 1:1-5)

1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。2 この言は、初めに神と共にあった。3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

 ここで言われている「言」という言葉には二重の意味があります。まず一つは、文字通りの言葉という意味です。創世記には、世界が全て神様の発した言葉によって形作られたということが書かれています。創世記1章の1-5節だけ読んでみましょう。

創世記1章 1 初めに、神は天地を創造された。2 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。3 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。4 神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、5 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。

このように、真っ暗だった世界に光が現れたのは、神様の「光あれ」という言葉によってでした。そして、植物も動物も人間も、同じように神様の言葉によって造られました。存在するように、命を持つように命じられた神様の言葉によって、生き物は生きるようになったということです。だから、神様の言葉には命があると、ヨハネは言います。でも、ヨハネがここでいう「言」には、文字通りの神様の言葉という意味以外に、もう一つ意味があります。それは、イエス・キリストその人です。少し先の14-18節を読みましょう。

2. イエス・キリスト、私たちの光

14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。15 ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」16 わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。17 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。18 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。

  イエス様は神様がどういう方であるかを示してくださったので、その存在そのものが神様の言葉、神様のメッセージだということです。14節に「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」とあります。これが二千年前のクリスマスに実際に起こったことです。イエス様が誕生されたということは、神様がこの世界に人間として生まれてくださったということです。それは、「光あれ」と言って世界に光をもたらし、全ての生き物に命を与えた神様が、人間の肉体を持ってこの世界に現れたということです。神様がイエス様としてこの世界に来られた目的は、私たちに永遠の命を与えるためでした。私たちはみんな神様から命を与えられましたが、神様のことを忘れて、神様との関係においては死んでいます。この私たちと神様の間の溝にもう一度橋渡しをするために、神様はイエス様を送られました。イエス様が十字架で苦しまれて死なれたことによって、私たちは神様の愛を知りました。そして、イエス様を信じることによって、神様と共に生きることができるようになりました。私たちは、肉体が滅びても、神様との関係においては永遠に生き続けることができます。それがイエス様が自分の命と引き換えに私たちに与えてくださった、新しい永遠の命です。この永遠の命というのは、私たちが死んでから与えられるものではありません。私たちがこの世界を生きている間から、神様と共に生きる新しい生き方によって、すでに始まっているものです。だから、肉体の死というのは通過点に過ぎなくなりました。イエス様がこの世界に生まれ、そして死なれた目的は、この神様の計画を私たちに教えるためでした。神様の計画は、私たちが神様の子供としてこの世界を幸せに生き、死ぬ最後の時まで希望を持ち続けることができるようにするものです。それは全て、神様が私たちを自分の子供として愛している証です。
ここで、もう一度ヨハネの最初の言葉に戻ってみましょう。

1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。2 この言は、初めに神と共にあった。3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

お話ししてきた通り、この「言」という言葉はイエス様ご自身のことを指してもいます。イエス様は世界の始まりの時から神様と共におられました。そして、この世界に光あれと言われ、命あるものに命を与えた神様を、私たちにわかるように教えてくださいました。私たちの心に神様の愛という光をもたらすことによってです。イエス様のうちに、神様の愛があり、私たちの光と命があります。私たちのうちには光はなく、この世界に死の影が濃くても、このイエス様の光が消えることはありません。この光は暗闇の中で輝いています。そして9節にあるように、「その光は、まことの光で、世に来て全ての人を照らすのである。」
最後に、私たちはイエス様の光によってこの世界を照らす光にもなれるということをお話ししたいと思います。10−13節を読みます。

3. 私たちも光となれる (イザヤ 60:1-2)

10 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。11 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。12 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。13 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。

 お話ししてきたように、私たちはただイエス様を通して、神様の愛を知り、本当の光を知ることができます。そして、イエス様を信じるなら、私たちはすでに神様の子とされています。イエス様を信じても、依然として私たちの心も体も弱く、真っ暗だった世界が急に全てバラ色になることはありません。それでも、イエス様の十字架によって、この古い命のうちに新しい命が始まっており、暗い心に光が差していることは事実です。イエス様は、私たちをふさわしくないままで神様の子として生まれ変わらせてくださいました。私たちは、自分の力で輝くことはできませんが、イエス様という光が照らし出してくださっているので輝くことができます。
最後に、イザヤ60:1-2を読んで終わりにします。

1 起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。2 見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。

メッセージのポイント

私たちの心の中もこの世界の中も、闇に包まれて光がなくなってしまったかのように感じられる時があります。でも、イエス様がこの世界に来られたという事実は、いつも私たちの希望です。どんな絶望もイエス様という光によって希望に変わります。そして、このことを知っている私たちも、この世界の中で光となることができます。

話し合いのために

1) 詩編143篇はあなたの経験にどのようにつながりますか?
2) 私たちはどうすれば光となれますか?

子供たちのために

ヨハネは難しいので、読むとしたら5,9節だけでいいと思います。それと創世記1:1-5を読んでもいいかもしれません。心の中が真っ暗になるというのは、子供達には難しいかもしれませんが、多かれ少なかれ経験があると思います。仲間外れにされたり、自分の気持ちが伝わらなかったり、友達や家族の中で寂しい暗い気持ちになった時のことを聞いてみてください。そういう時があっても、悪いことがあっても、きっと大丈夫だと信じられる力をくれるのがイエス様です。それは根拠なく楽観的でいるのとは違って、ちゃんと理由があって行くべき方向が分かるということです。