神様の手に自分の霊をゆだねよう

永原アンディ

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神様の手に自分の霊をゆだねよう(詩編31)

 

 皆さんには今、神様に切実にお願いしたいことがありますか?この詩人もとても困っているようです。この詩も賛美の歌とあるのに「神様、何とかしてください!」という内容で始まっています。今日も、少しづつ読みながら、詩人からより良く生きるためのヒントを教えてもらいましょう。出発点は「神様、何とかしてください!」でいいのです。

 


a) 主への切実な願い (1-6)

1 【指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。】

2 主よ、御もとに身を寄せます。とこしえに恥に落とすことなく恵みの御業によってわたしを助けてください。

3 あなたの耳をわたしに傾け急いでわたしを救い出してください。砦の岩、城塞となってお救いください。

4 あなたはわたしの大岩、わたしの砦。御名にふさわしく、わたしを守り導き

5 隠された網に落ちたわたしを引き出してください。あなたはわたしの砦。

6 まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。わたしを贖ってください。

 実際何が起こっているのかは想像するしかありませんが、大変な状況に置かれていることは確かです。ここで注目したいのは「まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます」という言葉です。これが題にもなっているように、今日のメッセージのキーワードです。

 私はイエスを信じようと決心する前に「神様に自分自身をゆだねる」というキリスト教的コンセプトにとても抵抗がありました。神様の手の中という狭い檻に自分を閉じ込めるように感じたのです。でもそれは誤解だったことがわかりました。宇宙飛行士を除けば、私たちの生活はこの地球上に限られているわけですが、誰もそれを窮屈とは感じません。同じように、私たちの心について言えば、人生は神様の手の中にあるといっても、世界を包む神様の手ですから、全く窮屈なことではないのです。むしろ神様に力を借りて、より高く、より遠く、より深く、より強く生きられたと感じています

 ところで、私たちが神様にゆだねなさいと勧められているのは、私たちの「霊」です。体でも、心でも、行動でもありません。自分の健康を心配しなくてもいい、自分で考えなくてもいい、自分で行動しなくてもいい、神様に全てお任せしなさい、ということではありません。「霊」とは私たちの存在の全ての要素を統合する要(かなめ)です。神様の手に自分の霊をゆだねるということは、神様を信頼して、人々と助け合いながら、どんな時でも自分のベストを尽くすことです。それによって私たちは困難の中でも歩み続けることができるのです。

 

b) 主への信頼 I (7-9)

7 わたしは空しい偶像に頼る者を憎み主に、信頼します。

8 慈しみをいただいて、わたしは喜び躍ります。あなたはわたしの苦しみを御覧になりわたしの魂の悩みを知ってくださいました。

9 わたしを敵の手に渡すことなくわたしの足を広い所に立たせてくださいました。

 神様に自分の霊をゆだねた人は、本当に神様を信頼している人だと言い換えることができるでしょう。まだ詩人にとって、問題は何も解決していません。しかし以前の詩でも学んだように、過去に与えられた多くの恵みが心に浮かび、目の前の問題も乗り越えられると信じられるのです。ポイントは視線です。これは多くのスポーツでも同じことですが足元だけを見ていてはいけないのです。サッカーであれば、良い位置で自分からのパスを受けるために走り出している人を見ていなければならないし、もしかしたらゴールキーパーが前に出すぎているシュートチャンスがあるかもしれません。目先の状況にとらわれないということです。しかしそれは、結構誤解している人が多いのですが、全てを忘れて神様のことだけに没頭するということでは決してありません。顔を上げて広い視野を持つということです。それこそ霊を神様にゆだねるということに他なりません。感覚は世界に向けるのです。

 

c) 私たちの苦しい状況 (10-14) 

10 主よ、憐れんでくださいわたしは苦しんでいます。目も、魂も、はらわたも苦悩のゆえに衰えていきます。

11 命は嘆きのうちに年月は呻きのうちに尽きていきます。罪のゆえに力はうせ骨は衰えていきます。

12 わたしの敵は皆、わたしを嘲り隣人も、激しく嘲ります。親しい人々はわたしを見て恐れを抱き外で会えば避けて通ります。

13 人の心はわたしを死者のように葬り去り壊れた器と見なします。

14 ひそかな声が周囲に聞こえ脅かすものが取り囲んでいます。人々がわたしに対して陰謀をめぐらし命を奪おうとたくらんでいます。

 主を信頼し、顔を上げ遠くを見ることができても、まだ足元の問題が去ったわけではありません。むしろ問題はさらに大きくなるように感じられることもあります。悩みの中で、主が信頼できることを認められ安心できたのに、事態が一向に好転しないと、私たちは簡単に信頼から絶望へと逆戻りしてしまいます。私たちはどうしたら良いのでしょうか?答えは、神様とコミュニケーションをとり続けることです。神様も私たちの信頼がとても脆いものであることをよくご存知です。私たちが、弱気になったり、文句を言い始めたとしても、耳をふさいでしまう方ではありません。何度でも叫び、何度でも叫んでいいのです。

 

d) 信頼に応えてくださいという願い (15-19)

15 主よ、わたしはなお、あなたに信頼し「あなたこそわたしの神」と申します。

16 わたしにふさわしいときに、御手をもって追い迫る者、敵の手から助け出してください。

17 あなたの僕に御顔の光を注ぎ慈しみ深く、わたしをお救いください。

18 主よ、あなたを呼びます。わたしを恥に落とすことなく神に逆らう者をこそ恥に落とし陰府に落とし、黙らせてください。

19 偽って語る唇を封じてください正しい人を侮り、驕り高ぶって語る唇を。

さらに詩人は、もう一度、神様に願い求めています。私の信頼に応えてくださいという願いです。ただ今回の願いは1-6(0-5)に比べると、その言葉から、少し余裕があるというか、事態をより客観的に見えているようです。詩人の主に対する信頼は、叫びであれ願いであれコミュニケーションを持ち続けることによって成長しています。それは後に続く、再び表現される主への信頼の言葉でも明らかです

 

e) 主への信頼 II (20-23)

20 御恵みはいかに豊かなことでしょう。あなたを畏れる人のためにそれを蓄え人の子らの目の前であなたに身を寄せる人に、お与えになります。

21 御もとに彼らをかくまって人間の謀から守ってくださいます。仮庵の中に隠し争いを挑む舌を免れさせてくださいます。

22 主をたたえよ。主は驚くべき慈しみの御業を都が包囲されたとき、示してくださいました。

23 恐怖に襲われて、わたしは言いました「御目の前から断たれた」と。それでもなお、あなたに向かうわたしの叫びを嘆き祈るわたしの声をあなたは聞いてくださいました。

この詩人と同様、私たちの主への信頼も、何度も後退しては取り戻すというプロセスを経て、少しづつ強固なものになってゆきます。その過程でもう一つの重要なことも忘れないようにしましょう。b)でふれた、共に戦う人がいることです。だから詩人は、もうここでは好転しない現状を再び訴えるのではなく、全く別のことをします。それがこの後の24、25節、最後の部分です。

 

f) 人々への呼びかけ (24, 25) 

24 主の慈しみに生きる人はすべて、主を愛せよ。主は信仰ある人を守り傲慢な者には厳しく報いられる。

25 雄々しくあれ、心を強くせよ主を待ち望む人はすべて。

 それは人々への呼びかけです。ずっと神様に向かって呼びかけていた詩人は、この最後の部分で急に人々の方に向き直って、彼らに呼びかけます。先に、切実な願いで始められたこの歌が信頼に応えてくださる神様をほめたたえる歌となっていることを見てきましたが、この部分では、私たちが人々と共に神様をほめたたえる者であるということを教えてくれています。題名にもある通り、この詩を多くの人々が声を合わせて歌ったのです。一人一人の問題は、それぞれ違っています。しかし、誰もが神様への信頼なしに歩き続けることができないような試練に遭う可能性があるのです。共に歌う時、私たちはサッカーのチームメートのように、それぞれが違う役割を担い、違う局面に置かれていても、同じ戦いをしていることを知ります。私たちのゴールは、この世界が良い神様の良い意思を反映したものになるということです。聖書はしばしばそれを「神の国」と表現しています。このゲームがスポーツと違うのは終了時間が誰にも知らされていないという点です。終わりがないということではありません。イエスは再び来られるとはっきりと言われました。だから、いつかその時は来ます。ゲームは2000年続いているのです。使徒言行録の最初の部分に記されているペンテコステで始まったゲームの時の先発メンバーはもちろん一人もいません。途中出場して、また誰かと交代するというのが一番考えられるケースです。しかし、だからと言って私たちは、どうせ自分は途中出場、途中交代だからゲームに影響はないと思って、手を抜きません。タイムアップつまりイエスの再臨がすぐ次の瞬間だとしても後悔しないためです。そのような意味で私たちは「主を待ち望む」者なのです。それは色々な社会現象を見て、それが時間的に近いと主張するようなこととは違います。神様はそんなことを望んではおられません。昨日を引きずらず、明日を心配せず、1日1日イエスの背中を見ながら歩いてゆきましょう。


メッセージのポイント

私たちが神様にゆだねるのは私たちの「霊」です。体でも、心でも、行動でもありません。自分の健康を心配しなくてもいい、自分で考えなくてもいい、自分で行動しなくてもいい、神様に全てお任せしなさい、ということではありません。「霊」とは私たちの存在の全ての要素を統合する要(かなめ)です。神様の手に自分の霊をゆだねるということは、神様を信頼して、人々と助け合いながら、どんな時でも自分のベストを尽くすことです。それによって私たちは困難の中でも歩み続けることができます。

話し合いのために

1) 神様の手に自分の霊をゆだねるとは?
2) あなたはイエスに従う者として、人々に何を呼びかけたいですか?

子供たちのために
「イエスに従う」ということは子供達にとっては、よりわかりにくい抽象的な表現です。日々を家族とともに、友達とともに元気で楽しく過ごすことの喜びを簡単な言葉で確認しましょう。そしてまた、それを邪魔するもの(病気、問題、対立、友との別れなど)があることも確認してもらいましょう。そして「イエスに従う」ということは、一時的にがっかりしたり、悲しくなったり、辛くなったりしても、イエスが必ず喜びを取り戻してくださると信じて生きてゆくことだと伝えてください。子供のミニチャーチは、イエスに従う子供達が、喜びあい、励ましあい、慰め合い、祈り合うことのできる仲間です。