平和な人には未来がある

永原アンディ

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平和な人には未来がある (詩編 37:23-40)


アナウンスにあったように今日の午後、クリスマスの飾り付けをします。これからの一ヶ月はイエスの誕生について思いを巡らす特別な時です。その最後の日曜日が、今年は24日のクリスマスイヴと重なりました。ユアチャーチではいつもの朝の礼拝をクリスマス礼拝として行い、ランチをポトラックパーティーにします。今年は夜のキャンドルサーヴィスは行いません。家族で、あるいは親しい友人と過ごすイヴにしてください。近くの教会のキャンドルサーヴィスに行ってみるのもいいでしょう。

クリスマスは2000年前に過去の出来事をお祝いするだけの日ではありません。実は私たちの未来にも深く関係する日です。「未来はイエスの中にある」からです。もちろんそのような言葉を聖書の中に直接見いだすことは出来ません。しかし聖書はそう主張していると言えます。イエスは「わたしは道、真理、命です。誰も私を通してでなければ父のところにいけません。」つまり、神とつながることはできないと言われるのです。37節に「平和な人に未来がある」と言われていますが、この平和の本質は「神様との平和」です。イエスは人と神様との断たれた関係を回復するために、2000年前のクリスマスに来られたのです。

未来があるのは、若い人でも、才能に恵まれた人でも、健康な人でもなく、「平和な人・平和を追求する人」なのだということが今日のメッセージの結論です。なぜ、年齢や境遇にかかわらず、未来を期待することができるのか?その根拠を前半の部分から明らかにしたいと思います。そこのは主がどのような方か、二つのことが記されていますが、それらが私たちに未来を確信させてくれます。それではまず23-27節を読みます。

 

A. 主は…

 

1. あなたの歩みを確かなものとする (12-13)

23 主は人の一歩一歩を定め御旨にかなう道を備えてくださる。
24 人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる。
25 若いときにも老いた今も、わたしは見ていない主に従う人が捨てられ子孫がパンを乞うのを。
26 生涯、憐れんで貸し与えた人には祝福がその子孫に及ぶ。
27 悪を避け、善を行えばとこしえに、住み続けることができる。

 私たちは皆、主によって備えられた道を歩むことができます。そしてその道こそが私たちの歩むことのできる未来そのものです。しかし主によって道が備えられているということを認めたくない人は大勢います。自分の力で道を切り開いて生きている、と考えたい気持ちはわかります。でも、自分ではどうすることもできない要素に邪魔されたり、助けられたりするのも人生です。人はそれを偶然だとか、運だとか呼びます。しかしそうではないのです。主は、一人一人にふさわしい道を備えられています。それは誰かが、「そうしなさい」と強いる道とは違います。神様の備えた道といっても、細かく指示が書かれている道案内があるわけではありません。見たところは、自分の力で道を切り開いて生きている人の歩みと変わりありません。違うのは「判断の基準」です。すること、いうことの基準です。主に従う人の基準は自分の利益でも、自分の気分でもなく、主はどう思われるかです。それも自分で考えて従うわけですから、間違えもするし、倒れもします。しかし主はそのままにはしておきません。主の道にたち戻りたいと思うなら「人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる」のです。そして詩人は、そのような生き方をする者が絶望に終わるような事を聞いたことがなく、返って、そのような人々とその子孫に祝福が及ぶことを見てきたのです。27節にあるように、悪を避け、善を行う意志を持ち続けている限り、主の道を歩み続けることができるのです。28-33節を読みます。

 

2. 正義を愛される (28-33)

28 主は正義を愛される。主の慈しみに生きる人を見捨てることなくとこしえに見守り主に逆らう者の子孫を断たれる。
29 主に従う人は地を継ぎいつまでも、そこに住み続ける。
30 主に従う人は、口に知恵の言葉がありその舌は正義を語る。
31 神の教えを心に抱きよろめくことなく歩む。
32 主に逆らう者は待ち構えて主に従う人を殺そうとする。
33 主は御自分に従う人がその手中に陥って裁かれ罪に定められることをお許しにならない。

 社会がどのような状況であれ、希望があると言い切れるもう一つの根拠は、主が正義を愛される方だということです。未来があるのは主の道に進む人であるとともに、主の正義を尊ぶ人です。世界に目を向けるなら、正義はどこにあるのか悲観的になりますが、諦めてはいけません。ここに書かれている従う者への約束を忘れずに歩みましょう。しばしば私たちが混同しやすいのは、「主の正義」と「主を信じる人の正義」です。いわゆるキリスト教国が行ってきた「正義の戦争」は「主の正義の戦争」ではなく「主を信じる人の正義の戦争」です。戦争には限りません。主を信じている人の正義のキャンペーンが、様々なマイノリティーのバッシングになってしまうこともあります。皆さんは、姦淫の罪を犯した女性が石で撃ち殺ろされようとしているところで、イエスがどのような行動を取られたか、覚えていると思います。(ヨハネ8章)私には、あの石を握って腕を振り上げている人々と、例えばLGBTQの人々を罪と決めつけて攻撃する人々が重なって見えます。
ですから「主の正義」に従いたいと思うなら、「主を信じている人」ではなく「主ご自身」から聞かなければなりません。それは、祈ること、聖書を読むこと、様々な人の意見を聞くこと、そして自分でよく考えることです。これこそが、宗教改革三大原理の一つ「万人祭司」の意味です。神学者、牧師、教会、キリスト教書から聞くことは大切です。でも、それらは“信じる対象”ではありません。それらは自分が主から間違えずに聞くための“教わる”対象であることを忘れないでください。

主がこのような方であるならば、私たちはこの主に従って生きることによって、生涯、前を向いて歩き続けることができます。しかし、主に従って生きるあるいは主と共に生きるとは実際にはどういうことなのでしょう。私たちは主を直接見ることも聞くこともできません。後半にそのヒントが紹介されています。確かめてゆきましょう。まず34-36節です。

 


B. あなたの未来のために

 

1.主に望みをおき、主の道を守れ (34-36)

34 主に望みをおき、主の道を守れ。主はあなたを高く上げて地を継がせてくださる。あなたは逆らう者が断たれるのを見るであろう。
35 主に逆らう者が横暴を極め野生の木のように勢いよくはびこるのをわたしは見た
36 しかし、時がたてば彼は消えうせ探しても、見いだすことはできないであろう。

ここで注目したいのは、主に望みをおくこと。主の道を守ることです。前の部分でも触れましたが、私たちには、主に従っているつもりで実は主ではない者に望みをおき、主ではない者の命じる道を歩んでしまうという危険があります。しかもここでは、35節に書かれているような厳しい中においても望みを持ち続けなさい、と命じられているのです。主に逆らう者が横暴を極め野生の木のように勢いよくはびこるような時に忍耐して、それでも主の道から踏み外さず歩みなさいということですが、どうしたらそのようなことが可能なのでしょうか?そのためには、主と心の会話(祈り)をすること。人々の様々な考えやアドヴァイスを注意深く聞き分ける力、それを聞いて考えを変えられる柔軟さ、反対に間違ったことを受け入れない堅さを持たなければなりません。これらの力は主から来るものです。受け取るために必要なのは、主と二人きりで過ごす時間、ミニチャーチ、ともに捧げる礼拝です。そのどれも欠かすことのできない大切にしてほしい機会なのです。ぜひこれらのことのために時間を確保してください。あなたの未来のために。

それでは37節からの残りの部分を読みます。

 

2. 無垢であろうと努め、まっすぐに見ようとせよ (37-40)

37 無垢であろうと努め、まっすぐに見ようとせよ。平和な人には未来がある。
38 背く者はことごとく滅ぼされ主に逆らう者の未来は断たれる。
39 主に従う人の救いは主のもとから来る災いがふりかかるとき砦となってくださる方のもとから。
40 主は彼を助け、逃れさせてくださる主に逆らう者から逃れさせてくださる。主を避けどころとする人を、主は救ってくださる。

お話ししてきたように、平和といっても、対人関係のことをだけ言っているのではありません。むしろそれよりも先に主との平和に心を向ける必要があります。主との平和を保つことなしに、人との間で平和を保つことはできないからです。主との平和の喪失が、全ての不幸の始まりです。主は全ての人をご自身の姿に創造されました。本来なら、全ての人が幸せで安心して生活できるはずです。それが創世記第1、2章の罪に落ちる前の人間の姿でした。創世記第3章にはアダムとエヴァが神様のようになりたいと思い、神様の言いつけに背いたことが書かれています。つまり罪とは、神様に背を向け、人が自分を神様のようにみなして思い通りに生きることです。この罪によって、私たちの社会は、自分の利益のために邪魔な者は敵とし、利用できる者を味方として、宗教的権威さえ用いて、敵意と壁を作り続けています。しかし私たちの主イエスは宗教としてのキリスト教を超越した方です。私たちは、ただシンプルに、まっすぐにイエスに従いましょう。そうして、自分の周りから平和を築いてゆきましょう。

 


メッセージのポイント

神様は全ての人をご自身の姿に創造されました。本来なら、全ての人が幸せで安心して生活できるはずです。罪とは人が自分を神様のようにみなして思い通りに生きようとすることです。この罪によって、私たちの社会は、自分の利益のために邪魔な者は敵とし、利用できる者を味方として、宗教的権威を用いて、敵意と壁を作り続けています。主イエスは宗教としてのキリスト教を超越した方です。イエスに従うことによって、自分の周りから平和を築いてゆきましょう。

 

話し合いのために

1) 守るべき主の道とは?
2) まっすぐ見ようとするとは?

 

子供たちのために

ユアチャーチの子供たちは将来にどんな夢を持っているでしょうか?思い通りにならないことも多いけれど、神様は一人一人にその人にとって一番良い人生を備えていてくださることを伝えて下さい。備えられているすばらしい道を進むために大切なことは、神様の正義を考えることです。イエスさまなら、この時どう言い、どうするだろうか?と考えて、自分もできるだけそれに従うことです。どんなことでも神様が良いものに変えてくださると信じて、イエスさまに従って行くことを励まして下さい。