力尽きても主に叫び続けよう

永原アンディ

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力尽きても主に叫び続けよう(詩編 38)

 


 今年も、詩編のシリーズを続けてゆきます。今日は38編です。日本語の表題では「賛歌」となっていますが、全然「賛歌」ではありません。ほとんど「嘆きの歌」です。皆さんが池田牧師の「喜びの手紙」シリーズのメッセージで元気と喜びをいただいて2018年をスタートしたのに、いかにもタイミングの悪い内容です。しかし、嘆き一色の中にも希望は見えます。正直に考えてみれば、私たちも、新しい年だ、明るく、元気に、喜んでばかりはいられない。悩み苦しむ要素も結構あるのです。自分はそうではなくても、チャーチファミリーの中にも、深刻な悩みのうちにいる人も少なくないのです。どん底に突き落とされているような詩人の心に、どんな希望が届いているのかを確かめて、私たちも希望を持ち続けましょう。

 


1. どんなに神様を悲しませてきたとしても、叫ぶ権利は奪われない (1-9, マルコ 10:46-52)

1 【賛歌。ダビデの詩。記念。】
2 主よ、怒ってわたしを責めないでください。憤って懲らしめないでください。
3 あなたの矢はわたしを射抜き御手はわたしを押さえつけています。
4 わたしの肉にはまともなところもありませんあなたが激しく憤られたからです。骨にも安らぎがありませんわたしが過ちを犯したからです。
5 わたしの罪悪は頭を越えるほどになり耐え難い重荷となっています。
6 負わされた傷は膿んで悪臭を放ちますわたしが愚かな行いをしたからです。
7 わたしは身を屈め、深くうなだれ一日中、嘆きつつ歩きます。
8 腰はただれに覆われています。わたしの肉にはまともなところもありません。
9 もう立てないほど打ち砕かれ心は呻き、うなり声をあげるだけです。

 最初の部分、2節で叫び願い、そのあとはずっと自分の置かれたひどい状態を説明しています。詩編38編全体は、これを4回繰り返すという構造になっています。詩人の置かれている状況は私たちのうちの誰の状況よりも酷いものです。今日注目したいのは、それでも詩人は主に向かって叫ぶことをやめないという点です。「主よ、怒ってわたしを責めないでください。憤って懲らしめないでください。」 自分が、神様に喜ばれないことを何度でもしてしまい、酷い状況に置かれても当然だと考えています。神様に文句を言っているわけではないのです。それでも叫びは神様に届いていて、いつか必ず聞いてもらえるだろうという信仰を持っています。イエスは、この詩人と同じ信仰の持ち主に出会ったことがあります。その人の叫びに、イエスがどう応えたか、その場面を読んでみましょう。マルコによる福音書10:46-52です。

46 一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。
47 ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。
48 多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。
49 イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」
50 盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。
51 イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。
52 そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。

 バルティマイには何の希望もありませんでした。道端におかれ毎日、物乞いをすることだけが彼の人生でした。この状況に長くおかれていれば、諦めて何の望みも持たなくなってしまう人の方が多いでしょう。彼もそれまではそうだったのでしょう。しかし、最近、その名を聞くようになったイエスという人が自分の人生を変えてくれるかもしれないと思ったのです。人々はイエスをナザレのイエスと呼んでいました。“田舎からきた不思議な魅力のある青年”というくらいに思われていたということです。しかしバルティマイはイエスを「ダビデの子よ」と呼びます。メシア=救世主はダビデの子孫と考えられていたのです。彼はイエスを「救ってくれる人だ」と確信してそう呼んだのです。人々は彼が叫ぶことをやめさせようとしましたが、彼にとってはやめるわけにはいきません。やめることは、人生で初めてやってきた救われるチャンスを諦めることになるかもしれないからです。せっかく近くにきたイエスを呼ぶことをやめれば、もう二度と近づくチャンスはないと感じたのでしょう。イエスは彼の、この信仰をほめました。イエスはこのことを通して、信仰は宗教的な行いでも、知識でもなく、主への、叫びであれ、呼びかけであれ、祈りであれ、問いかけであれ、とにかくコミュニケートし続けることだと教えてくれています。あなたにも叫び続ける資格があり、取り去られることはありません。何をしてきたか、何ができるか、何を持っているかに関わらず愛されているからです。10節に目を移しましょう。

 

2. 主は全てを知っている (10-15, ルカ 8:42b-48)

10 わたしの主よ、わたしの願いはすべて御前にあり嘆きもあなたには隠されていません。
11 心は動転し、力はわたしを見捨て目の光もまた、去りました。
12 疫病にかかったわたしを愛する者も友も避けて立ちわたしに近い者も、遠く離れて立ちます。
13 わたしの命をねらう者は罠を仕掛けます。わたしに災いを望む者は欺こう、破滅させよう、と決めて一日中それを口にしています。
14 わたしの耳は聞こえないかのように聞こうとしません。口は話せないかのように、開こうとしません。
15 わたしは聞くことのできない者口に抗議する力もない者となりました。

 やはり注目するのは最初の部分、10節です。詩人は知っています。願いが実現しないのは、現状を神様が知らないからではないということを。あなたの願いも、嘆きも、不満も、恐れも主はすでにご存知です。イエスが出会った人の中に一人の女性がいました。このような人です。ルカによる福音書8:42b-48に書かれているエピソードです。

イエスがそこに行かれる途中、群衆が周りに押し寄せて来た。
43 ときに、十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女がいた。
44 この女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れると、直ちに出血が止まった。
45 イエスは、「わたしに触れたのはだれか」と言われた。人々は皆、自分ではないと答えたので、ペトロが、「先生、群衆があなたを取り巻いて、押し合っているのです」と言った。
46 しかし、イエスは、「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」と言われた。
47 女は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまちいやされた次第とを皆の前で話した。
48 イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」

 この女性は、先ほどのバルティマイとは違い、遠慮がちにイエスに近づき、イエスに知られないようにそっとイエスの衣のふさに手を触れたのです。彼女にもイエスがほめる信仰がありました。この女性にとっても、イエスは最後の望みでした。12年間、苦しみ続けた病は一向に治らず、もう医者に払うお金はありませんでした。イエスに触れさえすれば癒される。群衆を必死にかき分けてイエスに近づき、衣のふさに触れて癒されたのです。しかし、重要なポイントはそのあとに起こったことです。大群衆の中でイエスに触れ、病を癒され、彼女の目的は果たされていました。そのまま静かに去ろうとしていたのでした。彼女はイエスに会いたくてきたのではなく、イエスに癒されるために来たのです。でも、イエスの方は、それだけでは満足されませんでした。イエスが言いたかったのはこういうことです。「わたしはあなたを知っている、あなたの、必要も、悩みも、悲しみも。だからあなたに癒しの力が流れたことを知っている。あなたには、わたしに知られていることを知ってもらいたい」彼女が得たのは癒しだけではありませんでした。癒しを通して、イエスが自分を知っていてくださることを知ったことです。病気や問題は何度でもやって来ます。多くの場合、ある病がきっかけでこの世を去るのです。しかし、イエスはいつも共にいて、知っていてくださり、必要なときにはその力を惜しまず注いでくださることを知っているから、私たちは、どこまでも、死を超えた先にも「安心して行く」ことができるのです。

 

3. 愛に基づく切実な願いは諦めない (16-21, マタイ 15:21-28)

16 主よ、わたしはなお、あなたを待ち望みます。わたしの主よ、わたしの神よ御自身でわたしに答えてください。
17 わたしは願いました「わたしの足がよろめくことのないように彼らがそれを喜んで尊大にふるまうことがないように」と。
18 わたしは今や、倒れそうになっています。苦痛を与えるものが常にわたしの前にあり
19 わたしは自分の罪悪を言い表そうとして犯した過ちのゆえに苦悩しています。
20 わたしの敵は強大になりわたしを憎む者らは偽りを重ね
21 善意に悪意をもってこたえます。わたしは彼らの幸いを願うのに彼らは敵対するのです。

 私たちは詩人ほど過酷な状況におかれているわけではないのに、詩人のように 「主よ、わたしはなお、あなたを待ち望みます。わたしの主よ、わたしの神よ御自身でわたしに答えてください」 と叫ばず、黙り込んでしまう傾向を持っています。私たちは、人にしつこくして嫌われる経験をしているので、あっさり引き下がる方が良いと思いがちです。人間に対してはそうですが、イエスに対しては、聞いてもらえるまでしつこく付きまとうべきです。実例をお話ししましょう。マタイによる福音書15:21-28です。

21 イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。
22 すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。
23 しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」
24 イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。
25 しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。
26 イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、
27 女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」
28 そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。

 まずイエスは意地悪でケチでナショナリストだけど、母親がしつこいので嫌々癒したという話ではないことを押さえてておきましょう。24節が本気の言葉なら、日本人なんてもっと関係ないことになります。この言葉は、暗に弟子たちに向けられています。弟子たちはイエスに従おうとしていましたが、生まれながらに身に染み付いている「ユダヤ人は特別」意識がつい出てきてしまうのです。彼らはイエスの意図を理解せず、イエスを「ユダヤ教の改革者」としか考えていなかったのです。そうではないことを、明らかにするために、あえて彼らの常識を言った後で、それをあっさり破って見せたのです。
また一連のイエスと母親との会話は、癒してやるかやらないかを決めるテストでもありません。彼女もイエスを「主よ、ダビデの子よ」と叫んでいます。ユダヤ人の救世主であるダビデの子が、民族を超えて、異邦人である自分にも恵みを下さることを彼女は確信していました。だから、弟子たちが邪魔しようと、イエスがすぐに癒してあげようと言わなくても、信仰を言い表し続けました。イエスの目には国籍も、民族も、LGBTQでもそれ以外であっても、既婚者も離婚者も独身も何の問題もありません。全てありのままで愛すべき大切な一人一人です。イエスは、キリスト教徒を自認する人の中に、そのような違いで、差別し、罪人と裁く人がいることにがっかりしていると私は思います。イエスは宗教的に正しいとされていたユダヤ人ではなく、ユダヤ人から見れば人間以下とされていたカナン人の母親の側に立たれる方です。彼女はそれを確信していましたから、イエスに言葉で何と言われても平気でした。そしてついにイエスは「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」と言われました。あなたが愛の動機で主に願うことは、あなたがどんな者であれ聞いていただけます。ですから彼女のように叫び求め続けましょう。

 

4. 私の救い、私の主よと叫び続けよう (22, 23, ヨハネ 5:1-9)

22 主よ、わたしを見捨てないでください。わたしの神よ、遠く離れないでください。
23 わたしの救い、わたしの主よすぐにわたしを助けてください。

 「すぐにわたしを助けてください」苦しみの中にいるとい私たちは必ずそう思います。そのような時は神様から見放されているような気分になる者です。イエスはそのような人に何度も出会われました。その最後の例はヨハネによる福音書5:1-9に記されている出来事です。今までイエスに癒していただいた三人のことを紹介しましたが、次の人だけは、ほめる言葉をいただけませんでした。なぜでしょう?、

1 その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。
2 エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。
3 この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。†
3b-4 (底本に節が欠けている個所の異本による訳文)彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。
5 さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。
6 イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。
7 病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」
8 イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」
9 すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。

 この人の苦しみも長く続いたものでした。38年の間癒されることを待ち続けていました。この池では、時々天使が降りてきて水を揺らすことがあり、その時一番に水に入る者が癒されると言われていたのです。彼は最初から医者にかかるお金もなく、横たわっていましたが、自分では動くことができないので、水が揺れても入ることはできないでいたのです。38年もの間、水が揺れても、ただ他の人が先を争って水に入ってゆくのを見ているしかなかったのです。なんと残酷なことでしょう。イエスは彼のところにきて「良くなりたいか?」とたずねます。先の三人なら、「そうです、憐れんで癒してください」と応えたでしょう。しかし彼がイエスに訴えたのは、「自分には水に入れてくれる人がいないと」いう訴えでした。彼は自分の必要の核心を見失っていました。イエスの答えは意外です。今度揺れた時に入れるように、弟子の一人をここにいさせようとは言いませんでした。また、癒してあげようでもありませんでした。イエスは「起き上がりなさい・床を担いで歩きなさい」と命じたのです。イエスは彼自身よりも彼の必要をご存知でした。そしてそれに応えられました。私たちには、目の前の問題に対してこうして欲しいという先入観があります。しかしイエスは全く違う方向に導き出してくださることがあるのです。彼の先入観がもっと強ければ、立ち上がりなさいと言われたとき、「いいえ私は立てません。水が揺れた時に水に入れて欲しいのです。」といってしまったでしょう。私たちの究極的な願いは何でしょう?体が癒されることでしょうか、良い学校に入学することでしょうか?裕福になることでしょうか?いいえ、それらは願っていけないことではありませんが、主が究極的なものとして与えようとしているものではありません。主が与えたいのはご自身です。私たちの側からみれば、常に主が共に歩んでくださる人生ということです。

 


メッセージのポイント

詩人は、自分の罪深さ、弱さ、醜さを思い知らされていますが、それでも諦めずに主に叫び求め続けています。主イエスは、全ての福音書に、詩人と同じ信仰を働かせた人々を紹介し、その信仰を褒めています。私たちも、諦めずに叫び求めて、主の奇蹟を体験しましょう。

 

話し合いのために

1) 詩人は、なぜこのような境遇の中で叫びつづけることができたのでしょうか?
2) 叫び続けて、やっと神様に聞き入れられたという体験をシェアしましょう。

 

子供たちのために

 全体ではなく、16-21節とマタイ15:21-28から、イエスが全ての人を何の差別もなく、愛に基づく切実な願いを聞き入れてくださることを伝えてください。マタイの、イエスご自身が一見、「救いはユダヤ人優先」と考えているように見える記述は、「選民=ユダヤ人優先」に何の疑いも持っていなかった弟子や、周りの人の目を開かせるために、まず彼らの常識の考えを口で表現した上で、実はそうではないことを癒しという行動で表し、常識的には信仰がないと考えられていた異邦人に対して、その“信仰”を褒めたのです。
子供達には、正しい願いは必ず聞かれること、神様の応えは、自分の願いとは少し違っているかもしれないこと、タイミングは思っているより遅く感じられること、それでも後から考えると最高のタイミングと、方法で答えていただけることを伝え、祈り続けることを勧めてください。